蛭児の葦船

救いようが無さそうな感じのアホが

        ピコピコと鳴いています。

節電と店内環境のバランス

2011-06-24 01:30:18 | そこに転がっている日常
 ここ二日は青空がのぞき日差しも強く気温も高かった。
 外を歩けばたちまち汗だくになり、家にいたところで暑さに対する苦痛から逃れられる事はない。
 こんなにも暑くなれば節電と騒がれている中でもクーラーをつけたくなるのが人情というものだろう、昨日や今日の電力使用量が涼を求めて多くの人がエアコンを使った事を示していた。
 今日行った某ブックオフでも、やはりエアコンが効いていて本を探している間も暑さを感じることはなかった。電車内でもそうだし、スーパーでもそうだった。涼しい場所は、いたるところにある。
 しかし、(生鮮食品を扱うスーパーなどはともかくとして)本屋や電車などは、それほど冷房を効かせる必要があるのだろうか? とふと思う。ラッシュ時間外の電車も、くさる事の無い本を扱う書店・古書店も、冷房の必要性はそれほど高くないはずだ。
 勿論、店内が暑ければ不快な環境を避けたい客はそこを避け、売り上げにも影響するとは思う。
 事実、僕の勤める書店などは外気より店内温度の方が高くなんとも居心地が悪いため、最近は来店者は減り売り上げも低下してしまっている。
 この例はどうかな、と思うけど、それでも冷房が強すぎると感じる店はいくつもあった。
 まだ、電力使用割合は九割を超えておらず、大規模停電も起きていないから現状でも問題ないのかもしれない。
 それでも、今後気温が上がっていけば家庭での電飾使用量は増える事になり、誰もが否応なしに節電を押し付けられる状況がくるかもしれない。
 そうした事態が現実味を帯びている中で、必要以上に冷房を効かせている場所があるのは士気に関わるというか、万民の納得の妨げになるような気がする。
 さて、これからの電力事情はどうなっていくのだろう?
 使用量が大幅に増加して危機的状況を迎えてしまうのか、それとも東電が供給量を増やして乗り切るのか。そして、その周辺でどのような発言が飛び交うのか。
 今後の展開が楽しみだ。
 
 
 ・戯言 ちょっと不謹慎
 猛暑になると文明を手にした人々は冷房をつけたくなる。
 しかし、それの利用が制限されている今年の夏は窓を開けて風通りを良くするという選択をする人がかなりの数のぼる事が予想される。
 そうすると、自然増加すると予想されるのは空き巣や窃盗、強盗といった類の犯罪だ。
 理由はわざわざ書くまでもないだろう。
 犯罪者たちはこの状況を嬉々として迎え入れているのかもしれない。
 ……ああ、今年は戸締りに注意しよう。

雑記

2011-06-23 01:03:51 | そこに転がっている日常
 ・暑い
 ここ数日気温が上がってきて気力体力がガリガリ削られてきたものだが、今日に比べればまだマシな方だった。
 久しぶりの青空は夏の熱を帯び、そこに輝く太陽は殺人的な強さを持って地上を焼いていた。
 殺人的。そう、先のニュースによれば実際にこの暑さによる熱中症で無くなった方がいて、まさに文字通り殺人的な強さだった。
 神奈川の気温も三十度を超えただろうし、所によっては三十四度とかそんな夏真っ盛りの気温をマークしたりしていた。
 僕は、暑いのが苦手で今日はうだって何もできなかった。
 布団を干すのが精いっぱいで、その他の活動は読書でさえも碌にできない。
 予報では、明日も晴れで、気温も高くなるそうだ。
 ああ、もう、夏を前にして何かがついえてしまいそうな気分だ。


 ・奴らは脱皮する。

  気持ちの悪い話。

 夏になると静かに、しかし確実に家庭内害虫の存在感は増してきます。
 関東地方においては奴らの出没しない地域などなく、温かい季節にもなれば僕らは常に奴らに対して備えを強いられる事になる。
 今日、僕は奴の存在の痕跡を確認した。
 本体ではなく、あくまで脱皮だが。
 ……奴らが脱皮をする生物だという噂はどこぞで小耳にはさんだ事がある。ただ、実際にそれを見るのは初めてだった。
 一見すると枯れ葉のようなそれ。
 本体は毒々しい黒や茶色の塊だが、抜けがらは琥珀色をしていて意外なほど見れた色をしていた。
 だが、所詮それの元は奴らであり、色はともかく形は見れたものじゃない。
 頭上の象徴たるあれこそないものの、高速移動に適した楕円のフォルムといいその移動能力を生みだす後ろ脚といい、シルエットは完全にやつそのもの。抜けがらだとは分かっていても、今にも動き出しそうで気色が悪い。
 
 幸いな事に、ヤツを見かけたのは家の外での事だった。だから、必ずしもあれの本体が家に侵入したとは限らない。
 ただ、それは窓のすぐそばに落ちていた。冷静に考えれば、やつが家に入り込んでいる可能性はめっぽう高い。
 それを考えると酷く憂鬱だ。
 気温は高くなり、ただでさえ寝苦しい今日の夜は、小さな音に対して神経質になりなおさらに眠れなくなりそうだ。

 ……どうしてこう、奴らの話題は筆が進むというか指が弾むのだろう?

雑記徒然

2011-06-16 01:28:21 | そこに転がっている日常
 ・古本の残り香
 数日前、古本を買った。
 二冊で百円の激安価格のそれは、多少日焼けをしているとはいえ状態が悪いというわけでもなく、お買い得な商品に思えた。
 しかし、家に帰って実際にページを開いてみると、しかしその本はとても読めたものではなかった。
 見た目はやっぱり普通だった。少し変色している発行年がちと遠い古本。
 でもその長い年月に蓄積してたのは、色の変化やカビ・埃のにおいではなく、煙草の悪臭だった。
 本を開けばはじけるヤニの臭い。ページをめくった時の僅かな空気の流れにさえ漂うニコチン臭。物語を読もうにも、悪臭のためにまともに本を持っている事さえかなわない。呼吸の際その臭いを感じるたびに、この世に向けて憎悪と呪詛の念をぶちまけたくなる心地だ。
 安さの原因はその臭いのせいだったのか。
 
 せっかく買った(しかも読みたい衝動が強い)本を読まない、というのは業腹なので、ここ数日本の消臭を試みている。
 新聞紙を挟み込む、重曹をまぶして袋詰め放置、天日干し風さらしはどれも効果がなかった。
 今日はタッパーに詰め、炒った茶葉を同封してみた。
 これで煙草の臭いが消えると良いのだけど……。

 ・梅が枝が
 どころか、梅の木が切られてしまった。
 毎年、寒い時期に花を咲かせて、僕の目を楽しませ季節に風情を与えてくれていた梅の木が、先日切られてしまった。
 いや、切られた、というよりも廃棄されてしまった、という方が正確だろうか。木は、運搬に適した大きさに切り分けられ、根こそぎ取り除かれてしまったのだから。
 もう、あの梅の花を見ることはないと思うとひどく淋しい。
 毎年楽しみにしていたのに、心待ちにしていたのに……。
 はぁ……。

 ・夕食は……
 豚カピタとささみレンコンの梅味噌和えを作った。
 今回の出来はどちらも良好。
 ただ、前者はもう少し塩分を加えて、後者は控えるともっと美味しくなったと思う。

ちょっとグロい話

2011-06-11 23:51:16 | そこに転がっている日常
 人身事故についてちょろっと語ったもの。
 実はそんなにグロくない。かもしれない。



 


 先日、とある駅で人身事故を見た。
 ……と言っても、その決定的瞬間をじかに見たわけではない。
 事後三十分ほどの現場を見た、ってだけの事だけど。
 何にしても、現実の人死には気持ちの悪いものだ。

 その日人身事故があったのは僕が行かんとする駅での事で、僕が電車に乗る二十分ほど前の事だった。
 事故があっても京急線は多少の遅れで運行しており、構内のアナウンスは「現場検証のため一時停車する事があるかもしれません」などと言っていた。
 僕は、電車で、しかも現場検証が必要なほどの人身事故とはつまり人死に轢死事故であり、その死体は加速した電車の衝撃によって肉片となりそこらじゅうに飛び散っているものだと思っていた。
 そんな僕の認識は、現場はそこらの壁に生玉子やひき肉をぶつけた時にような状況で飛び散った肉片や血液を片づけるのには相応の時間が必要だろうと想像させ、とりあえず電車が動いている現状もしかしたら僕が駅に着くころにはまだ事故の痕跡が生々しく残っ照るかもしれないという推測に繋がった。
 推測は、一部が当たり一部が外れていた。
 当たっていたのは、事故の現場がまだ片付けきれていない、という点だ。
 僕がその駅についた時、現場には警察の鑑識が大勢たむろしホームの端にはブルーシートにくるまれた物体が置かれていた。
 中身こそ見えなかったものの、それまでの状況やシートに包まれたモノの形や大きさから推測される結論など死体のほかにありはしない。
 外れていたのは、死体はバラバラ血液ドバドバ残酷絵図、といった人身事故の現場に対する認識だった。
 見たところホームには肉片も血痕もなく、シートに包まれたモノも人の原形を留めているようだった。(現場関係者が懇切丁寧にホームを洗い清め、人の残骸を人の形にまとめてシートにくるんだ可能性は否めないのだけど……)
 何にせよ僕は、間接的に赤の他人の死体を、それもおそらく自ら死を選んだ人の遺体を見たという事になる。
 身内ではない、赤の他人の死を間近に感じたのは、これが初めての事だった。
 
 他者の死は、いつも紙面やモニタの向こうにしか存在しないものだった。
 そしてそんな死はどれも痛ましく哀れに感じられ感傷的な念を呼び起したが、本質的に僕が傷つくことはなく周辺の環境を変える事もなく、ただの他人事にしか過ぎなかった。
 だから、身近に死をみる事があったら、もしかしたら我が身に迫る何かがあり他人事とは思えなくなるかもしれない、などと考えた事もある。
 実際間近で死を見た感想はどうだったか。
 劇的な感情はどこにもなく、ただ気持ち悪く感じただけの事だった。

 ……ああ、あのシートの中には死体が入ってるんだな。
 三十分ほど前には生きていて、僕が立つ場所で何かを決心して走る電車に飛び込んだんだ。
 その人はどんな人生を歩み、死の直前には何を感じどんな事を考えていたのだろう。情報も何もないし、想像なんてつかないや。
 心なしか、生臭い。ほんとに臭うのか、気の迷いか。
 
 と、胸の悪さを感じながらそんな事を心の中で呟いただけ。
 その人の死は、僕の日常の片隅にほんの一時立ち現われただけのものだった。僕はその日の用事のために現場を離れ、彼の死体とはそれっきり。全ては日々の雑事に埋もれていった。
 他人事として切り捨てる、以前に、事故を身近な事として感じる事が出来ない。
 遠ざける以前に近付け方が分からない。
 他者の死に対し僕はそんな反応を示したわけだけど、あの場にいた人間は誰もが似たような態度をとっていた気がする。
 死を強く拒絶する人。つまり、死体のある場に行き合わせて救急車を必要とする人に気分を悪くした人もいたけど、大半の人はシートにくるまれた死体やその周辺でざわつく警察関係者を横目にしながら、誰もが自分の日常と向き合っているような格好をしていた。
 自分の傍らに死体がある事を意識していても、それに対してとるべき態度を見いだせないようだった。
 身近にあろうとも、他人の死など結局はそんなものなのだろう。
 
 自分の用事のために現場を離れても、少しの間は先の出来事が頭から離れなかった。
 人の死はこんな他人事のようではなく、もっと大切に、丁重に扱われて、死に立ち会った人は見知らぬ相手でもその故人を痛んで欲しい。
 ただそんな事が頭に浮かんできた。
 でもそれも、そのうちに消えた。
 思考に対する死穢は、日常のという波風によって祓われ薄れていくものだから。
 数時間後、僕の頭を占めていたのは稽古の事であり自己の至らなさに対する嫌悪、つまりはいつも通りの事だった。

王様の耳はロバの耳!

2011-06-06 00:06:26 | そこに転がっている日常
 すごくどーでもいい事だけど、心に浮かんでしまったので書き残しておく。

 今、片手間で幽遊白書を見ている。
 現在83話、ゲームマスターと戦っているところを視聴中。
 物語はゲームでボスを倒せばいいにそのボスが強すぎて倒せないといった状況だ。
 この後鞍馬がゲームに勝つためにゲームマスターに心理戦を仕掛けるのが本来の流れだけど、実はそこまでする必要は無かったんじゃないかな? 
 見ればその場にはドッペルがいる。彼がいればゲームマスターと同等の力を再現できる訳で、四勝しちゃえば後は彼に託してゲームに勝利できそうな気が……。
 いや、そんなことしたら鞍馬が少年を嬲り殺す名シーンがなくなっちゃうんだけどさ。