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生きること:過去と未来とエスペラントと

老いとエスペラント

2017-09-08 05:58:08 | エスペラント
 こんなテーマでブログを書くことになるとは私自身想像もしていませんでした。でも他の名称も付けられず…。

 昨日はいつものエスペラントの日、ですが、一人が息子の妻がぎっくり腰で緊急入院し赤ちゃんがいるので呼び出されてたった二人出会うことになりました。Kさんはただのおしゃべりで良いと云いますが、テーマも無く2時間過ごすのはつらいので、色々考えました。彼女はチェメトードの(エスペラントをエスペラントで教える)教師資格を持っています。ですから手元にあったチェメトードの補助教材である小冊子とザメンホフの詩を持って出かけました。
 その補助教材を示しながらKさんが資格を取った時のことやら、Kさんが彼女を指導してくれた人のグループに夫と共に加わり、旅をした時の思い出などを話させようと試みましたが、全く思いだしませんでした。古い記憶がどんどん抜けてゆくと云うのです。アルバムとか自分が書いた記録を読むとそういうことがあったなと思うのだけれど云いました。

 こんな歳になってなんでエスペラントを続けているのだろうと思うと彼女は言いました。私がエスペラントを続けていてもエスペラントの役には立っていないでしょう!若い時は活動すればそれなりに成果が見えて楽しかったけれど、今は何の成果も見えない!と彼女は云いました。

 若い時のように動けないなら、私たちがこれから生きてゆくためにエスペラントに働いてもらったらいいのでは?と私は言いました。残りの人生を'食べて、寝て、テレビの映像に浸りがら’だらだらとなんとなく生きても行ける。でも、エスペラントで外の世界とつながった私たちはテレビのニュースもただ流れてゆく映像ととらえるのでは、世界で何が起こっているのかと自分の力で考える積極性を持っていると思うのだけれど・・・。
 で、Kさん、あなたがエスペラントを始めた動機は何なの?

 彼女の返事は思い出せないでした。

 しばらくして彼女が私に訪ねました。Gさんはどうしてエスペラントを始めたの?

 私ははじめてエスペラントの存在を知った時のことを熱く語りました。

 (当時は巷には戦争孤児があふれ、その話は田舎の村にまで伝わっていました。街にでれば傷痍軍人たちが白い服装でアコーデオンを奏でて物乞いをしていました。‘原爆の子’‘基地の子'などと云う本が発刊され、戦争と戦争後の子どもたちの現実を伝えていました。'24の瞳'以外にも確か'ひろしま'という映画もあったような気がします。その上‘警察予備隊'なるものもでき世の中は騒然としていました。)

 そんな社会情勢の中で私はエスペラントについての話を読んだのでした。話し合うことでお互いに理解し、平和な世界を目指す言葉、何と素敵な言葉だろう、いつか私もその言葉を覚えて平和な世界を目指したいと中学生だった私は決心したのでした。

 Kさんにその話をした後私は気付いたのですが、エスペラントのために働きたいと思ったことはなかったように思います。エスペラントを活用し、平和な世界を目指したいといつも思っていたのですが。エスペラントは私にとって平和へ続く道具だったのです。

 エスペラントのために働けなくなったからもうダメという挫折感に襲われたこともありません。

 彼女と私の年の差は一年と数カ月、学年では一年上。社会経験も似たり寄ったりです。その違いは何なのでしょう?

 
コメント (5)
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