以下のメールが平和活動家のWさんから入りました。池田正枝さんとは20年近くのおつき合いで長いお手紙を何回もいただいていた。各種選挙では「新社会党は私の希望です」とまでおっしゃって親身にご支援してもらった。数年前まで扇町や中之島の公園で開かれる平和集会には池田正枝さんのお顔がない時がないぐらいに、いつも参加されていた。細身のお体にリュックを背負った姿は多くの人に焼きついていることだろう。茨木にも何回か足を運ばれて反核平和の講演会などでお話をされていた。いただいた手紙には「私はもう長くなりません」と幾度も書かれていたが、あのにこやかでやさしいお顔を見ることができないのかと思うとほんとにさびしい。
平和活動家のWさんからのメール
生駒市在住、植民地朝鮮の元教員・池田正枝さんが12月4日亡くなられました。
享年85歳でした。
池田さんは一昨年秋から体調を崩し、昨年10月頃は持ち直し12月に亡くなられ
る前に、年賀状も準備されていたようです。亡くなられたことが分かったのは4日後、いわゆる「孤独死」でした。韓国「東亜日報」は1月13日号は、東京特派員
レポートで池田さんの半生を伝えるなど、異例のことだったようです。
池田さんは植民地朝鮮に生まれ育ち、国民学校教員になられてから、教え子たち
を内地「女子挺身隊」に送り出すよう命令をうけ6人を送りました。(それも自分
で志願したように見せかけよ、との命令でした。)
日本に引き揚げてから、小学教員や高校通信教育教員をしながら、そのことの責
任を考え続け、6人の安否を調べ続け、一人だけが長らく分からなかった。韓国で
やっと再会されたのですが、その娘さんからは「もう来ないで」と言われたそうです。
「女子挺身隊」の名目は工場労働でしたが、なかには「従軍慰安婦」にされた
ケースもあり、「挺身隊」と聞けば韓国ではそのように受け取られがちでした。
池田さんは50歳で退職してからも、・障害児教育、野宿者支援、アムネス
ティ、韓国民主化支援、反戦・平和の運動、各地講演やミニコミなどへの投稿、な
ど様々な運動に関わりつづけ、長文の年賀状は毎回1000~2000枚も出されたそうです。
何度となく韓国に赴き、オモニたちとも対談されましたが、「針のむしろ」の思
いだったでしょう。出征前に結婚した男性に、無事に復員して離婚を言い渡される
など、私生活面ではあまり恵まれず、以後独身でアパート暮らしでした。
その自伝的な内容は『二つのウリナラ(わが祖国)--21世紀の子どもたちへ』(解
放出版社)に書かれています。
池田さんを知ってから長いですが、池田さんには私たちの知らない、たくさんの
人々との交流があったようです。池田さんを惜しんで、『二つのウリナラ』の聞き
手でもあった、生駒市在住ジャーナリスト・川瀬俊治さんらが、以下のように「偲
ぶ会」を計画されています。
◆池田正枝さんを偲ぶ会
日時:3月18日(日)午後2時~
場所:奈良市男女共同参画センター(JR奈良駅西側)
以下池田正枝さんが寄稿されたものと書評です。
【寄稿】朝鮮で日本人教師だった私 池田正枝
【書評】『2つのウリナラ
―21世紀の子どもたちへ―』の背景 蓮月
この写真は( Photo by (c)Tomo.Yun )URL(http://www.yunphoto.net )を使っています。
平和活動家のWさんからのメール
生駒市在住、植民地朝鮮の元教員・池田正枝さんが12月4日亡くなられました。
享年85歳でした。
池田さんは一昨年秋から体調を崩し、昨年10月頃は持ち直し12月に亡くなられ
る前に、年賀状も準備されていたようです。亡くなられたことが分かったのは4日後、いわゆる「孤独死」でした。韓国「東亜日報」は1月13日号は、東京特派員
レポートで池田さんの半生を伝えるなど、異例のことだったようです。
池田さんは植民地朝鮮に生まれ育ち、国民学校教員になられてから、教え子たち
を内地「女子挺身隊」に送り出すよう命令をうけ6人を送りました。(それも自分
で志願したように見せかけよ、との命令でした。)
日本に引き揚げてから、小学教員や高校通信教育教員をしながら、そのことの責
任を考え続け、6人の安否を調べ続け、一人だけが長らく分からなかった。韓国で
やっと再会されたのですが、その娘さんからは「もう来ないで」と言われたそうです。
「女子挺身隊」の名目は工場労働でしたが、なかには「従軍慰安婦」にされた
ケースもあり、「挺身隊」と聞けば韓国ではそのように受け取られがちでした。
池田さんは50歳で退職してからも、・障害児教育、野宿者支援、アムネス
ティ、韓国民主化支援、反戦・平和の運動、各地講演やミニコミなどへの投稿、な
ど様々な運動に関わりつづけ、長文の年賀状は毎回1000~2000枚も出されたそうです。
何度となく韓国に赴き、オモニたちとも対談されましたが、「針のむしろ」の思
いだったでしょう。出征前に結婚した男性に、無事に復員して離婚を言い渡される
など、私生活面ではあまり恵まれず、以後独身でアパート暮らしでした。
その自伝的な内容は『二つのウリナラ(わが祖国)--21世紀の子どもたちへ』(解
放出版社)に書かれています。
池田さんを知ってから長いですが、池田さんには私たちの知らない、たくさんの
人々との交流があったようです。池田さんを惜しんで、『二つのウリナラ』の聞き
手でもあった、生駒市在住ジャーナリスト・川瀬俊治さんらが、以下のように「偲
ぶ会」を計画されています。
◆池田正枝さんを偲ぶ会
日時:3月18日(日)午後2時~
場所:奈良市男女共同参画センター(JR奈良駅西側)
以下池田正枝さんが寄稿されたものと書評です。
【寄稿】朝鮮で日本人教師だった私 池田正枝
【書評】『2つのウリナラ
―21世紀の子どもたちへ―』の背景 蓮月
この写真は( Photo by (c)Tomo.Yun )URL(http://www.yunphoto.net )を使っています。
今を去る 50年前 大阪府下の小学校で師から
指導を受けた者です。
大和川での水遊びの記憶は、今でも鮮明です。
海水パンツを買えないんで白いパンツで水にツカッテました。
学校給食、嫌いでしたね。最後まで残された。
厳しいけど、やさしい先生でした。
1990年8月に大阪でお会いしたのが最後でした。