今日のケニア内乱を知り、40年前のバングラデシュ難民救済コンサートを思う(2007.1.9)

2008-01-09 17:16:54 | Weblog

*APPLE STCX 3385(SOPB 55055~7)

知人プリメリアさんがmixiで、暮れ12月27日のケニアの大統領選後の混乱を憂い、アフリカ各地で収まらない民族間紛争、悲惨、虐殺に、“何かできることはないか”と考えさせられるメッセージを書いて、抗議の国際署名参加を呼びかけています。

今日はアフリカ、40年前にはアジアでした。
パキスタン内乱、そこで生まれた大量虐殺、飢餓、難民、そして、1971年にジョージ・ハリスンが始めた“バングラデシュ<難民救済>コンサート”(The Concert for Bangladesh)を思いました。
その後、若いミュージシャンが世界に眼を開き続けていく  BAND AID(チャリティ・コンサート)の先駆けになったコンサートです。

*左;映画のプログラム(スバル座)、右;ビデオ、VAVJ-313

たぶん20年ぶりに、ビデオを見ました。バングラデシュ難民の映像は、そっくり今のアフリカと同じように思えました。

*東パキスタンと西パキスタン

第2次世界大戦が終わって、アジア各国では独立運動が起き、アジア諸国は独立していきます。長くイギリス(東インド会社)により支配されていたインド(インド亜大陸)は、1947年8月に独立を達成します。
その時、宗教上の問題から、ヒンドゥー地域はインド、イスラム地域はパキスタンとして分離独立したのです。すなわちインドをはさんで、西側と東側、両方にパキスタンができたのです。両者は、民族的にも、言語的にも、文化的にも、大きく違いました。

そして、政治・経済・軍事の力は、ウズルー語を話す西パキスタンに集中し、ベンガル語を話す東パキスタンは人口の過半数がいるにもかかわらず従属的な立場に置かれたのです。

平等な待遇を求める東パキスタンは、独立を求めて立ち上がりました。
しかし西パキスタン側の反撃は、1971年3月、東パキスタンの人口を大幅に減少させる恐怖政治を生み、推計100万人のベンガル人が殺害されたのです。1000万人が死の恐怖から難民としてインドに逃げ、飢餓、不衛生、住宅の欠如、そしてコレラの恐怖の中にいたのです。
この内乱は、パキスタンと対立していたインドが東パキスタンの独立を支持することで独立戦争(第三次印パ戦争)と呼ばれました。1971年12月16日にバングラデシュ人民共和国として独立することができたのです。

*LPの中から、ひょっこり出てきた1974年4月の朝日新聞の切り抜き。写真の右上は、ブット、パキスタン首相。この間、娘さんのブット前首相が暗殺されました。

(その後も、<バングラデシュ・インド・ソ連>対<パキスタン・イラン・中国・アメリカ>という構造の中に苦難の道を歩むことになります)

内乱の最中の1971年8月1日昼夜2回、バングラデシュ難民救済コンサートが、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで開催されました。4万人が集まったといいます。
主催者、呼びかけ人は、ビートルズのメンバー(リードギター)のジョージ・ハリスンです。ジョージは、ビートルズ解散後、インド・東洋思想に傾注していて、バングラデシュ出身のシタール奏者ラヴィ・シャンカールから、バングラデシュの惨状を聞き、<何か助けること>を模索し、このコンサートを開くために、トップミュージシャンに参加を呼びかけたのです。

当時、日本にいた若者の多くは、アメリカで起きる、フォークそしてロックが、新しい文化、ムーブメントを作り出していくことを遠くから見ていたわけです。レコードを流すラジオを聴いて、レコードを買ってきたのです。実像は、テレビでなく映画でみていたのです。
69年のあの、“ウッドストック”もそうです。そうして、文化を創っていく以上に、<世界中を助けていく>役割りがあることを知り、世界を動かして行く力を自覚していくのです。
私ら、末端にいる場末の市民も、レコードを買い、映画を見て、使ったお金が役立つことで、同じように貢献できた喜びを持ったのです。

このコンサートは、まさにジョージ・ハリスン & フレンズ コンサートでした。
ステージいっぱいに、はせ参じたフレンズが並び合同演奏です。コーラス隊も、フォーン隊も並びます。キーボード、ピアノ、ドラムスも2台。その前に、友人たちが登場します。
私は、このようなステージが大好きになるのです。サウンドがどうの、バランスがどうの、というのは、問題じゃないのです。いっぱいステージに乗っての友だち演奏が大好きなのです。

*ジョージ・ハリスン(ビデオから)
*ボブ・ディラン(ビデオから)

この時、ジョージ・ハリスン28歳、エリック・クラプトン26歳、そしてボブ・ディラン30歳でした。

ビデオ映像には。悲惨な光景、現実が投影されます。
冒頭、ジョージ・ハリスンが、収益金25万ドルはほんの少しだけど役立てたいと挨拶しています。そしてコンサートのアンコールでは、ジョージ・ハリスンが激しく“バングラデシュ”の実情を歌い、訴えます。

   【おまけ】

*1971年8月1日のコンサートのレコードは、米国では、1971年11月20日に、日本では 1972年2月31日にリリースされました。映画は、1972年3月23日にニューヨークでプレミア上映。日本での封切りは、1972年10月21日でした。

*私ら日本人は、1年以上たって、つまりバングラデシュ内乱の真っ最中でなく終わってから、追体験したのです。ついでに、今の世代には、コンサートを映画館で見るということをわかってもらえないでしょうね。

*今、CD、DVDになっています。私は買っていませんが、お勧めです。 DVDは、2005年11月2日にWPBR-90530/1。 CD;は、MHCP-896 2枚組み です。

*MHCP-896;カバーの絵がすっかり変わってしまいました。飢餓のこども眼の訴えとジョージの思いはすっかり消えたかもしれません。大昔のことでは、ないのです。今も、アフリカで同じことが起きているのです。

* この後、70年代、80年代にはミュージシャンによる、チャリティ・コンサート、ベネフィット・コンサートが何度も開かれました。世界、地球に連動するミュージック活動だったのです。私も何枚かLPを買うことで貢献(寄付)してきました。

* それらは、AID(エイド)と呼ばれました。そのうち、AIDS(エイズ)が世界に蔓延するようになって、AIDは、開かれなくなったように思うのです。違っているかもしれません。


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