春日部・庄和の画家・寺本郷史(左近)さんの作品を福山市で探す(2013.9.26)

2013-09-26 09:16:43 | Weblog

*探し当てた寺本郷史さんの作品は、福山駅近くの<福寿会館>という、貸し館施設の玄関にかかってました。そこでは、敬老の日、地域の<お花のグループ>が発表展示会をやっていました。

 春日部市、旧庄和町エリア、御近所の知人に寺本邦子さんがいました。寺本さんのお父さん(義父さん)が、著名な画家さんであることは、最近まで全く知らなかったのです。そういえば、庄和町役場、現庄和図書館や公民館に、壁画のように大きな絵がかかっています。それが知人のゆかりの人の作品であることも、全然気にとめていなかったのです。そもそもワタシ、文化と縁遠い人生をおくってきたのです。

 寺本さんと話すようになって、寺本郷史さんが、瀬戸内海の島、豊島(てしま)に生まれ育った人であることを知ります。大正5年生まれです。
 ワタシは、岡山市、岡山駅近くで生まれ、2歳少々で、昭和20年6月29日未明の、米軍機による空襲で焼かれ、岡山県と広島県の県境近くに逃げ、山間部で育ちました。昭和20年代後半、中学、高校生になってからは、一人で出かける都会は、福山だったのです。自転車で一日がかりの遠出でした。その後の40年、50年の間、ほとんど帰ったことはありません。

 寺本郷史さんのネット検索で、瀬戸内のいくつかの街の<鳥瞰図>を描かれていることを知り、福山市の鳥瞰図が現存していることを知ったのです。修業時代というか、世に出る前の作品でしょうか。

*<左近>の署名と、1952年の製作年が右上にあります。1952年、西暦で書かれています。戦争に敗け、新しい時代を意識した表記でしょうか。昭和27年、ワタシは小学校3年生です。

*小学校3年生の遠足で、福山に出かけています。駅近くのお城に行きました。米軍空襲で天守閣他が炎上落城。この伏見櫓だけが残っていました。広島県福山市の空襲は、昭和20年8月8日。ヒロシマ原爆8月6日の翌々日。長崎原爆の前の日のことです。ワタシに、疎開していた岡山県西端の地で、近所の人たちと燃える福山を見ていた、という記憶があります。2.5歳のことです。ほんとうなのか、どうか。

 福山城あたりの部分に注目すると、昭和27年の状況がよくわかります。鳥瞰図は、この時代、観光パンフレットなど、街紹介には、よくつかわれていました。今は、写真にとってかわり、鳥瞰図が使われることはほとんどありません。時代を記録しています。・・・・・・まさにマンダラ(曼荼羅)です。

*これは、今回の旅でひろってきた、福山観光案内パンフの福山城部分です。一番下が新幹線・福山駅。福山城があります。天守閣の再建は昭和41年です。ワタシが、都会に出てからのことです。図の右上、城公園の中に、寺本郷史鳥瞰図を持っていた福寿会館です。

*福寿会館からみた、福山城天守閣です。
 小学校3年生の遠足の、もうひとつのハイライトは、<草戸の五重塔>でした。明王院です。鳥瞰図に美しく描かれています。その右(西側)に、芦田川が流れています。そこには、室町時代の街が埋もれていました。ずっと後になって、発見発掘されました。草戸千間遺跡です。むろん鳥瞰図には描かれていません。
 その下(南側)には、景勝地・鞆の浦です。高校時代の春休みに、ボロ自転車で出かけたほろ苦い思い出の地です。

 こうして、この鳥瞰図を目の当たりにして、しばらく佇み、しばし、我が子どもの頃を懐かしみました、・・・・では、ありません。
 その日、そこは、生け花発表会の会場、受付の場です。邪魔しているようで、じっくり感じるわけにもいきません。手早く写真を撮って退散したのです。
 しかし、知人、寺本さん、寺本郷史さん、瀬戸内、福山、ワタシの郷里、子どもの頃の思い出と連想ゲームに浸ることのできた旅になったのです。

 【おまけ】
*知人、寺本さんのオウチは、ワタシの御近所、旧庄和町です。田んぼエリアも近い<まあ、ド田舎>です。その寺本さん、ご主人の退職と、子どもさんの成長を機に、<もっと、田舎>に転居されました。今年5月のことです。古民家を買ってリフォームされたのです。この写真は、古民家専門の販売会社のホームページに掲載されている、寺本さんの新しいオウチです。一度出かけたいと思っているのですが、なかなか・・・・です。

*作品のあった福寿会館は、貸館施設ですが、建物は有形文化財です。福山通運の創業者、渋谷 昇氏の寄贈とのことです。