今年も小堀遠州公の法要が行われ、献茶式の間、明暗尺八で献奏してきました。
曲は「調子」「鑁字」「阿字観」と続き、その間献茶が出来、小堀導師の読経へと続いていきます。
明暗尺八を吹く場を与えて頂いたことに感謝・・・・。
雪から久しぶりに開放され、快晴に誘われて、家の近くを散歩。
運動不足を解消のつもりだが、足取りは鈍く軽快には動けない。
尺八一本持ってブラブラ・・・ご近所には小堀遠州の顕彰碑が・・・やがて15分程で「総持寺」
ぼたん寺でも有名だが境内には本堂以外にも、大日如来像や大日堂、護摩堂や塔があり、
それぞれに明暗曲を献奏してきました。
やがてお参りの観光客が数名見えたのでもう一曲、しかし誰も聞き入らず足も止めないので、
帰ってきました。
約一時間の散策、尺八を持っての散歩、運動になったのかどうかは解らないが・・・。
まぁーこれで良しとしよう・・・・。
寺暦
もとは天台宗の寺であったと推測されている。
暦応元年(北朝・1338)ころから開山の託何上人がこの地を訪れ時宗を広め、阿弥陀寺は文和2年(1353)に時宗の寺となった。
献奏曲 明暗本曲「志図曲」
近江湖北二十七名刹 第四番 鶏足寺
寺 歴
延暦18年(799)伝教が再興、天台宗となったが、江戸時代の初め真言宗となる。
己高山には、5ケ寺とその別院6ケ寺があった。
鶏足寺は、その内の代表的な寺院で、他に世代山戸岩寺や法華寺等があったが、現在はすべて朽ち果て、その仏像等が、己高閣及び世代閣に収納され、地区の村人達によって管理されている。
己高閣の世話人さんに宝印を頂き、「鶏足寺」へ行きたいのだけれど・・・と聞いてみると、づっと山の奥で・・・と私の格好(洋服で軽装)を見て、やめておいたほうが良いような口ぶり、結局すぐ側にある神社で献奏、本曲調子を吹いて、巡礼の積もり・・・・帰って来ました。
瀧落曲 浜松普大寺伝
第三番 洞壽院
寺暦
永平寺を開いた道元禅師の直系、能登総持寺第11世梅山聞本を師とした恕仲禅師が最初に建てたのが洞寿院とされている。
恕仲禅師は、全国に2500の寺を建てた人で、のちに大本山総持寺の第40世になっている
第三番「洞寿院」
参禅の道場にふさわしく、あたりは静寂そのもの。門を入ると、かなり広い広場の正面に大きな本堂があり、右側が庫裏、左側は僧堂等が建っている。厳として浸しがたい風を感じる。庫裏で住職奥様(若くて美人)に尺八献奏の許しをもらい、本尊の前へ。
やおら二尺四寸延管を取り出し、一礼して「阿字観」を献奏。奥では住職と奥様が正座して聞いている様子。うまく吹かねば・・思ったとたんに音がかすれはじめる。気を取り直して何とか完奏。まだまだ修行が足りません。
献奏後、住職がおいでになり、お茶を頂きながら会談。他の寺の住職が共通の知人であったり・・縁は解らないものだと痛感したり・・次の参拝客が見えたのを機に失礼してきました。
一二三調
私が所在する長浜市は、古くから仏教文化が花開き、苦難の歴史の中、人々の厚い信仰に支えられた仏教寺院が数多くあります。
その中で、国宝・重文を有する「近江湖北二十七名刹」が指定されています。その中第二番 全長寺を参詣しました。
寺歴
文明元年(1469)浄土宗の僧、全長が池原村字新堂に阿弥陀如来を本尊とする一宇を建て、全長坊としたのがこの寺の始まり。
全長が死期を覚って禅宗に帰依し、伊香郡椿坂村の曹洞宗桂照院の頤正(いしょう)全養に自分亡き後の全長坊を頼んだ。
慶長2年(1597)、頤正全養は全長の意思に従い、全長坊を曹洞宗に転じ、久澤山全長寺とした。
本殿前で、奥様らしき人に合い、尺八献奏を申し出ましたが「赤ん坊が寝たところですので、止めてください」ということで、やむなく拝礼のみで退散・・こういうこともありますわね・・・。
では・・又・・。
一二三調