音楽を演奏するバンドのセッション、ジャム・セッションなどのように、一同に会してお互いに絡み合って一つの曲を演奏する状態、あるいはその集団を指すように、相場の売買も多くの人間がその瞬間瞬間同じ通貨を追いかけ、売買を繰り返す様はまさしくセッションである。
相場は変動期間と収束期間が交互にやってくる。なぜ収束するかは、一通り売買が一巡し概ね片が付いた状態であるといえるが、その一連の動きが始りやがて収束するまでの相場を、よく“セッション”という言葉で表現する。書籍でいえば、一章が終った状況だろうか。
インターバンクの会話ではよく
「セッション・ハイは?」とか「セッション・ローは?」という会話がある。これは、動き始めた相場が一段落したとき、その間に付けた高値は?安値は?という意味となる。
期間については特に決められたものは無く、後ほどチャートなどを見ながら述べる場合は、一つの上昇相場または下落相場、あるいは反転から押しや戻しが入ったところまでをセッションと見る場合があり、かなり概念的な表現であることは間違いない。
AからFに至る相場を、このように眺めるとA-G-B、B-H-C、C-I-Dなどの山一つずつがセッションと呼べることはイメージが付き易いが、A-Gのあと下落し始めた時点では、A-Gが一つの上昇セッションでもある。
こぼれ話
細かいセッションは一日の中に何回となく訪れる。超短期のチャートを見ればイメージが付き易いと思う。しかし、80年代の超円高時代では、数時間もの間にわたり一つのセッションが終了しないような動きがしばしばあった。通常なら相当忙しい日であっても、昼休みだけはセッションの最中とはなりにくく、昼休みが待ち遠しく思ったものだ。
それでも、たまにではあったが昼休みですら動き続けることがあり、そうなると人間の集中力の限界などもあって、何度か「もう止めて~!」と叫びたくなった記憶がある。
こんな昼休みには、カップめん関係の昼食は随分と重宝した記憶がある。しかし、完食となる前に新たなセッションが始ってしまうと悲劇がやってくる。
やっと一息つくことができ、さあ続きを…とばかりに振り返ると、そこにはすっかり冷えて伸びきった残骸が、むなしくカップを埋めているという状況が何度もあったものだ。