仏典、聖書、ジョージ・アダムスキー氏により伝えられた宇宙精神文明(空=言葉=天の父=宇宙の英知=真如=法・ダルマ=灯明)

ワクチン薬害、祈りの科学的研究、人体構成分子によるオーソモレキュラー医学、医学の大罪、太陽系惑星文明の科学的証拠

No.3真如(宇宙の英知)に全て任せる絶対他力の祈りについての考察3

2019年12月22日 11時22分09秒 | 祈りの科学的研究

No.3真如(宇宙の英知)に全て任せる絶対他力の祈りについての考察3

 

(5)仏教ヨーガをやるための条件

 

(a)真如への信頼

 

仏教ヨーガ(真如への祈り)の前提条件としては、

自然界に現実に存在して作用・機能している知性と力を持った根源的存在(根源的原理)である「宇宙の英知・万物の創造主・真如」を信頼することが必要になります。

 

その信頼を形成するためには、数多くの事例報告を読んで、内容を理解して、現実に効果があることを意識と潜在意識にインプットして、自分の意識の中に定着させることも必要です。

そのための資料は、ラリー・ドッシー博士、織田隆弘大僧正、巽直道氏、エミール・クーエ氏の著書に書かれている事例があります。

 

 

(b)顕在意識から潜在意識への定着(習慣化、自動作用化)

 

初めての人が仏教ヨーガをやる場合には、何事も練習や習熟が必要ですから、仏教ヨーガの行を実行し、身につくまでは、ある程度の時間はかかる人もいると思われます。

エミール・クーエ氏の自己暗示の方法では、3歳の子供が痛みを消す祈り「消える、消える、消えた」の場合には、数分間で効果が出る場合も報告されています。

大人のように複雑な抑圧された意識を持っていない幼児の場合には、効果が出やすいようです。

複雑な意識を持っている大人の場合には、効果が出て来る時間は人によって違うと思いますが、エミール・クーエ氏は、指示型の祈りの自己暗示の場合には、良い結果が出るまで少なくとも3か月くらい続けて唱え続けるように書かれていますから、初めての人が仏教ヨーガの祈りに心身が慣れて効果が出始めるには3か月程度はかかると思っていた方が良いと思います。

 

仏教ヨーガや祈りを行うのは、人の心の表面に出ている顕在意識の部分で思い唱えることになります。

この祈りの思いが、顕在意識から潜在意識に移行し、潜在意識に記憶・習慣として定着して、潜在意識が自動的に仏教ヨーガや祈りを行うようになるまでの時間が3ヶ月程度だと思われます。

このような状態になれば、仏教ヨーガがその人の潜在意識に定着したことになり、非常にスムーズにできるようになると思われます。

潜在意識の機能と病気治しに関しては、エミール・クーエ氏の著書『自己暗示』が、最も基本的で実用的ですから、関心がおありでしたらご覧下さい。

 

 

『潜在意識の祈り』に関しては、祈りの科学的研究の専門家のラリー・ドッシー博士も、著書『癒しのことば―よみがえる「祈り」の力』のp.80-94で述べています。

 

その要点は、

『祈りの言葉を繰り返すと、それが潜在意識(無意識)に定着し、潜在意識が自動的に本人の気づかない所で、その祈りを絶えず自動的に繰り返し続ける状態になる、それは眠っている間にも行われている』

 

以下、引用します。

 

p.80

「意識」とは何か?

 

 こんにち「意識」という言葉を、たとえば意識の力を健康づくりに役立てているというふうに使う人がいたら、その「意識」とは十中八九、心のなかの覚醒している部分を指す。

しかしながら、人間の精神的活動の大部分がそうした覚醒部分ではなく、覚醒していない部分、すなわち無意識のなかで営まれていることは、現代心理学においては当たり前の事実といってよい。

となると、すぐに生じてくる疑問は、もしわれわれが自分の心およびそこで営まれている活動のおおかたを意識すらしていないのなら、どうして健康を含め自分の身に起こるすべてが意識によるなどといえようか-というものだろう。

 

 まったくおかしな話だが、肉体の健康と心との関係を語る際、無意識の役割が話題にのぼることはめったにない。

わけても宗教的な集まりにおいては、「無意識の存在」はほとんど禁句に等しい扱いを受けているようだ。

なぜわれわれは無意識について語りたがらないのだろう、なぜ無意識など存在しないかのように、あらゆるすべてが「包み隠さず」意識の前にさらけ出されているかのようにふるまうのだろう、真実はそうでないとはっきり告げている証拠があるのに、いったいなぜ。

 

 おそらくそれは、われわれが無意識を信頼していないからではないか。

多くの人びとは無意識を、本人の思惑に関係なく思うまま人間を翻弄する邪悪な力のように考えている。

言葉を変えれば無意識とは、妬みや憎しみや欲深さなど、人間の奥底にひそむ受け入れがたい醜い思考や感情の眠る、薄暗い地下室のごときに思われているのだ。

こうした暗い無意識のイメージがつくられたのは、精神分析学の一時代を築いたかのジグムント・フロイトの責によるところが大きい。

フロイトの思想は、無意識に信をおいていない。

彼の理論によれば無意識とはイド(本能的衝動の源泉)の領域であり、そこにひそむ心的力は本人の意思にかかわりなく、たとえば父母を憎悪させたり、近親相姦願望や殺人の衝動を抱かせたりといった、顕在意識では受け入れがたい妄想や願望にひたらせたりするという。

フロイトの心理療法の目標は、こうした無意識的衝動を可能なかぎり意識化すること、また、社会に順応しようという心の防衛機制を通して、それらの衝動が暴れ出すのを防ぐことにあった。

 

 だが、フロイトとはまったく異なる観点から無意識をとらえる心理学者もいる。

たとえばユングは、無意識は幾重もの層から成ると考えている。

そしてその層のうち顕在意識にもっとも近い層は多少なりとも知ることができるが、いちばん奥にある層は意識によってとらえることは原理的に不可能であり、それ自体勝手に作用するという。

ユングの無意識のとらえ方はこうだ。無意識とは時間を超えた心的力、彼が「元型」と呼ぶ、すべての文化や時代を通してほとんど不変の心的力が住む場所である。

 

そして顕在意識におけるすべての心的力は、無意識のなかに逆方向の力をもっている。たとえば、明るさの裏には暗さ、善に対しては悪、愛には憎しみ、生には死という具合に、常に表裏一体をなしているわけだ。

ユングは言う。いかなる心的エネルギーも暴走する可能性、バランスを崩す可能性を秘めている。人間にあっては善や調和ですら過剰になりうる。

そして、対立しあうさまざまな心的エネルギーのあいだで常にバランスを保とうとするのが、深層にひそむ「元型」の性質なのである。ユングによれば人生の究極の目標とは、この内なる対立のなかで自在にバランスをとれるようになること、そしてバランスをとる過程をできるかぎり意識化することだという。

 

 祈るという方法も含め、心の働きを健康維持に活用してその効果を百パーセント引き出そうとするのなら、まずは「意識」の概念を広げることから始めなくてはならない。つまり、無意識を含めたうえで「意識」をとらえ、無意識が従来考えられてきたような悪鬼や怪物のねぐらなどではなく、それ以上の意味を秘めているのを認めることだ。そうしてはじめて無意識は、健康の探究においてとてつもなく大きなプラスの力を発揮することができる。事実、無意識の心は祈りを作動させたり協力したり、祈りの力を伝える媒介になりさえもするのだから。

 

 ただ、ここで心しておかねばならないことがある。確かに無意識は、人間がたとえば重病などの危機に見舞われたとき、われわれの命を救おうと懸命の働きをする。だが、それはあくまで無意識独自の論理にしたがって行なわれる。それはときに、顕在意識において尊ばれている道徳や倫理などの価値観を踏みにじることすらある。無意識は、顕在意識の世界ではまちがいなく拒否されるであろう手段を用いて、病の治癒にあたろうとするのだ。そうした例をいくつか見てみることにしよう。

 

 

p.94夢の祈り (ブログ著者補足: 潜在意識(無意識)の祈り)

 

絶えまなく祈りなさい。

-テッサロニケの信徒への手紙 五・十七

 

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

-ルカによる福音書 十八・一

 

わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。

-使徒言行録 六・四

 

たゆまず祈りなさい。

-ローマの信徒への手紙 十二・十二

 

 無意識が存在するおかげで祈りはややこしいものになる。

すでに見たように、無意識の心は確かに健康のために作用するが、それは顕在意識における望みとはまったく逆の方法をとる場合もあるからだ。

もし、痛み、恐れ、不安がなくなるようにという具合に、顕在意識が望む事柄だけを祈ったなら、それは無意識の望みを阻み、無意識が秘めもつ治癒力を妨げる可能性がある。とすれば、われわれは祈るとき常に、無意識の望みを心のなかに留めておかねばならない。だが、無意識が本当に無意識なら、どうしてそれを知ることができよう~ もっとも良い方法のひとつは、夢に注目することだ。

 

 子供の頃、教会の説教壇でがなりたてられる訓戒のうちもっとも私を困惑させたひとつが、「絶えまなく祈りなさい」という教えだった。その頃はもう「絶えまなく」の意味が「止まらずに」だとわかる年齢だったので、この聖書の教えにしたがおうと私は毎晩涙ぐましい努力をした。静かにべッドに横になり、とろとろしかけるたび「止まらずに祈れ」という決意をふりしぼり、巨大な睡魔と懸命に闘いながら祈りの言葉を繰り返した。だがどんなに頑張っても「絶えまなく祈る」ことなどできなかった。いつも途中であえなく睡魔に屈し、翌朝目覚めてから祈りの続きを再開するのだった。

 

 いったい人間に「絶えまなく祈る」ことなどできるのだろうかと、子供の私は大いに頭を悩ませた。

それを可能にするにはつまり、眠っているあいだも祈れるようでなくてはならない。そうだ、夢のなかで祈ることは可能なのだろうか1私はこの考えに大いに魅了された。というのも、起きたままずっと祈り続けるより、そちらのほうが数段楽に思われたからだ。

 

 その当時はむろんつゆ知らぬことだったが、「夢のなかの祈り(ブログ著者補足: 潜在意識(無意識)の祈り)」が可能だと考えていた人間は歴史上確かに存在する。たとえばリチャード・I・フォスターの著書『祈り-心の真の住処を探して』によれば、シリアのイサクは夢のなかでさえ「絶えまなく祈る」ことができると信じていたという。

 

『聖霊が宿ると、その人は祈りをやめることができなくなる。なぜなら彼の内で、聖霊が絶えまなく祈っているからだ。彼が眠っていようと目覚めていようと、その心のなかで祈りはやむことなく続く。食べているときも飲んでいるときも、休んでいるときも働いているときも、祈りの香は自然に心の奥からたちのぼる。それは心の奥底で起こるかそけき動きであり、声に出さずひそかに神にささやきかける声のようなものだ。』

 

 

*ブログ著者の見解: 聖霊に関して

この文章では、「聖霊」とは何か、聖霊が宿るとは、どういうことか、説明していません。

ここに書かれている聖霊の性質、つまり

『聖霊が宿ると、その人は祈りをやめることができなくなる。なぜなら彼の内で、聖霊が絶えまなく祈っているからだ。彼が眠っていようと目覚めていようと、その心のなかで祈りはやむことなく続く。』

によれば、これは潜在意識のことを言っているのは明らかです。

恐らく、潜在意識に神聖な思いが満たされると聖霊と呼ばれる状態になるのだと思われます。

最も神聖なのは、真如(宇宙意識)ですから、潜在意識が真如と結合すると聖霊になるのだと思われます。

顕在意識で南無宇宙英知と唱え続けると、それが潜在意識に定着して、潜在意識が自動的に南無宇宙英知と唱えはじめたら、その人の霊=潜在意識は、真如と結合し、神聖なものに変わるだと思われます。

これがキリスト教の言う「父と子と聖霊」ということなのでしょう。

ここで、父は真如(天の父、宇宙意識)、子は顕在意識、聖霊は真如と結合した潜在意識だと思います。

人の霊とは潜在意識のことであり、悪霊とは、悪しき考えに染まった潜在意識なのでしょう。

(コメント終わり)

 

 

 こうした境地に達した人間は、祈っているというより「祈られている」、つまり文字どおり祈りに乗り移られているといったほうが正しいかもしれない。この祈りに満ちた状態は、顕在意識はもちろん無意識の領域まで浸透する。フォスターは聖フランチェスコをまさにその典型的人物として挙げ、次のように述べている。「(彼は)祈っている人間というよりも、人の形をとった祈りそのもののようだ」。

 

 こんにちわれわれは、祈りをもっぱら顕在意識や理性のみと結びつけてとらえている。祈りは言葉という媒介を通じて意識的に行なわれるものであり、祈りがわれわれの「肉体の目も心の目も届かない」無意識の奥底で、しかも夢のなかで行なわれるなどというのは、突拍子もない荒唐無稽な話だというのが一般の通念だろう。そしてまた、われわれの無意識が顕在意識以上によく祈る術を心得ているという考えも、人びとにはまったく歓迎されないようだ。だがしかし、どうして無意識の能力リストのなかに祈りが名を連ねていけないことがあろうか。そもそもわれわれの精神生活の大部分を占めるのは、ほかならぬ無意識ではないか。もし祈りが真に価値ある活動ならば、われわれの心理のおおかたを占める無意識がそれに参与したいと思ったところで、まるで不思議はないではないか。

 

ユングの心理学の基盤をなす考えのひとつは、すべての人間の深層心理には全体へ、そして統合へと向かう衝動が内在しているというものだ。この「一体化への衝動」はあらゆる宗教の真髄といえる。古来の伝統宗教にはどれも、「絶対」「神」「女神」「タオ」「ブラフマン」「アッラー」などそれぞれの「至上の存在」があるが、それがいかなる形で認識されているにせよ、その根底にそれぞれの至上の存在へ回帰しようという願望、ふたたびそれと一体になろうという望みがある点は変わりない。この一体化への衝動こそが、祈りに満ちた心や祈りという行為の奥底にあるもっとも根源的な性質1つまり、人間がより高くより崇高でより深遠な存在へと引き寄せられる気持ちなのだ。それを究極まで突き詰めたのが、神秘家のいう「聖なる合一」または「絶対との同化」という境地だといえる。

 

ユングは、同様の出来事は眠りや夢のなかなど無意識の領域でも起こると考えた。彼は生涯をかけて、この一体化への原始的衝動が人間の夢のなかに鮮やかにあらわれた例を収集し、そうした幾千もの夢の分析を行なった。こうした衝動はマンダラやイメージ、自然のシンボル、言語を絶した神聖な感覚などの形をとって多くの人の夢にあらわれ、ときには目覚めた後にまで、自分の何かが変化したような感覚を残すという。

 

 もし一なるもの、統合、そして一体化へと向かう衝動が祈りの核心にあるのなら、そして、この衝動が無意識の独壇場である夢のなかでも確かに発生するのならば - 夢と祈りが密接に結びついている可能性、われわれが毎晩夢を見るたびに無意識のうちに祈っている可能性について、真剣に考える必要は十分あるのではないか。

「夢の中の祈り」は、実はもっとも効果の高い祈りなのかもしれない。

なぜならそれは、目覚めているあいだの心に生じる諸々の事柄や雑念、そして自我が、潮のように引いた数時間のうちに起こるからだ。

眠りや夢のなかで無意識は何者にも妨げられず自由に、本来もっていた「聖なる存在」との融合願望を実現するのではないか。

(引用終わり)

 

 

 

(c)真如は全ての人に平等に対応

 

真如=宇宙の英知は、仏教では「平等の大智」とも呼ばれており、全ての人に平等に対応し、我々のような凡夫の願いに答えてくれる非人格的・非個人的・非局在的(普遍的)な知性と力を持つ神聖な存在であり、一部の人だけをえこひいきすることはありません。

真如は、自分が命を与えた子である人が、真如を求める時、決して見捨てはしないはずです。

 

 

ただし、そのためには、一時的にでも自分の考えと欲望を脇に置いておいて、「宇宙の英知・万物の創造主・真如」に導かれ、その意思に従って生きていくことを試みることが必要です。

このように簡単に書いていますが、現実にやってみればわかりますが、これは「言うは易く行うは難し」です。

我々のような無明の状態にある凡夫は、日常生活の様々な局面で、様々な思いが湧いてきますから、迷いや不安や紆余曲折は避けられません。

 

 

(d)真如の意思に従っていなかったことへの反省

 

また、これまで真如=宇宙の英知の意思に従ってこなかったことの反省も必要です。

真如=宇宙の英知が現実に自然界に物理的に存在し、

我々人間や自然界に作用・機能していること、

仏教ヨーガをやれば真如の絶対他力により導かれ、現世利益を授けてもらえながら生活できることを、

全く教えられていないので、

これまで何もできなかったことも事実です。

何も知らなければ、何もできませんから、やむを得ない面があります。

 

 

ですから、過去のことには、あまりこだわらずに、仏教やキリスト教の宗教家が強調しているような過去の懺悔(ざんげ)のようなことにこだわらない方が良いと思います。

宗教家の言うような、極端な自虐的な行為は、釈尊が否定されて放棄された精神的な苦行になりますから、やらない方が良いと思います。

 

また、キリスト教の教える原罪(げんざい)は、信者を支配するための嘘であると思われます。完全な存在である真如が人間を創造する際に、罪ある者として創造したならば、それは真如の過失ということになります。

つまり、キリスト教の教える原罪は、真如の能力・性質とは相容れない嘘だと思います。

 

 

懺悔は、キリスト教・仏教などの各種の宗教で信者に強要していますが、このような形式は、アダムスキー氏の後継者として活動されたC. A. ハニー氏の調査では、古代バビロンの悪魔教が信者の支配方法として悪用していたものが、連綿として続いて現在にまで使用されていることが判明しています。

アダムスキー氏によれば、地球の古代の宗教は、全て悪魔教でした。イエス・キリスト、釈尊などの活動により正しい方向へある程度は是正されましたが、悪魔教時代の悪しき風習がまだ世界中に残っています。

懺悔やキリスト教の原罪のようなものは、宗教権力が信者を縛り支配するための道具のようですから、気にしない方が良いと思います。

古代バビロンの悪魔教の形式に縛られるのは、好ましいものではありません。

 

 

(参考情報)

古代バビロニアから続いていた宗教の形式が、キリスト教の礼拝・典礼形式に取り入れられていった過程については、一時期アダムスキー氏の仕事を引き継いでニュースレターを出されていたC.A.ハニー氏の記事があり、それらは下記のアドレスにあります。

 

現代の宗教の起源

http://www2.adamski.jp/pdf/ucon/013.pdf

http://www2.adamski.jp/pdf/ucon/014.pdf

http://www2.adamski.jp/pdf/ucon/015.pdf

http://www2.adamski.jp/pdf/ucon/016.pdf

現在のキリスト教の形式が、古代バビロニアのものと似たものになったのは、古代から存在していた悪魔教に無理やり神、イエス・キリスト、聖母マリアなどを当てはめたためのようです。

このように見ていくと、現在のキリスト教は、イエス・キリストの教えとは異なる部分が多いようであり、我々は真相は知らされていないというのが実情のようです。

(参考情報終わり)

 

 

(6)仏教ヨーガをやると、真如の判断が実現される

 

仏教ヨーガによる非指示型の祈りをやると、自分の考えている願いが実現するとは限りません。

非指示型の祈り、つまり仏教ヨーガは、真如=宇宙の英知による総合的に最善・最上で最も神聖な評価と判断が実現され、総合的・長期的には最も好ましい結果を生み出すと、ラリー・ドッシー博士と祈りの実験機関スピンドリフトは述べています。

自分の願いと真如の判断が一致していれば、自分の願いがかなうはずです。

真如の判断により、自分の願いより良いものが実現することもあると思われます。

 

 

自分の欲望のままに生きたければ、最初から仏教ヨーガはやらない方が良いと思われます。

自分の願いを祈りの形にした指示型の祈りをした方が良いと思います。

ただし、自分の願いが全てかなうとは限りません。

また、願いがかなったはいいが、別の大きな苦を招きよせる危険性もあります。

その例は、ラリー・ドッシー博士の著書『祈る心は、治る力』でも警告されています。

 

 

健康で豊かで幸福な生活をしていくためには、様々なものや条件が必要です。

それらを求めることは、生きていくために必要な願いであり、正しい願いです。

何をどこまで求めるかは、その人次第であり、自分で判断するしかありません。

その判断を、真如=宇宙の英知という自然界に存在する神聖な存在にゆだねるのが、仏教ヨーガにより真如により導かれる人生ということになるのだと思います。

 

 

非指示型の祈りの場合には、願いをかなえ、我々に現世利益を与えて下さるのは、宇宙の英知・万物の創造主ですから、その子である人である我々は、感謝の心こめて、つぎのような祈りもしています。

 

「南無宇宙英知、南無宇宙英知、主の○○に感謝します。」

○○には、次のような言葉を使用します: 恵み、いやし、導き、守護、救い、など、自分の願いごとを入れます。

 

インドのヨーガのパラマハンサ・ヨガナンダ氏の著書「あるヨギの自叙伝」や、巽直道氏の般若心経の解説にも、万物の創造主や観世音菩薩に対する感謝の言葉を述べる説明があります。

 

私の見解では、宇宙の英知による現世利益に対するこの感謝の表現は、人と宇宙の英知の結びつきを強める力があると思っており、これが祈りの「こつ」ではないかと思っています。

 

 

付録1

織田隆弘大僧正の関連著書から、仏教ヨーガ(瑜伽(ユガ))の関連部分を抜粋して紹介しておきます。

 

詳しくは、著書か密門会のサイトをご覧ください。

 

注意:

 

(1)「瑜伽(ゆが)」という言葉が出てきますが、これはインドで古来から行われている「ヨーガ(ヨガ)」を漢訳した言葉であり、要は、ヨガのことです。

参考サイト: Wikipediaヨーガ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC

 

(2)三昧

サマーディの音写である三昧(さんまい、サンスクリット語: समाधि, ラテン文字転写: samādhi)は、仏教やヒンドゥー教における瞑想で、精神集中が深まりきった状態のことをいう。三摩地(さんまぢ)、三摩提とも音訳され、等持、定と義訳される[1]。

参考サイト: Wikipedia三昧

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%98%A7

 

(3)自然法爾(じねんほうに)

精選版 日本国語大辞典の解説

じねん‐ほうに ‥ホフニ【自然法爾】

〘名〙 (「自然」はおのずからそうであること、そうなっていること。「法爾」はそれ自身の法則で、そのようになっていること) 仏語。真宗で、自力をすてて如来の絶対他力につつまれ、まかせきった境界をいう。

https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95%E7%88%BE-74622

 

 

(A)真言密教の奇跡―ガンも加持で治る

中山 道治(著)、祥伝社 (1984/09)

 

注意:

初心者の方は、織田隆弘大僧正の活動を記録した新聞記者の中山氏のこの本から読み始められた方が分かりやすいと思います。アマゾンで古本を売っています。

織田隆弘大僧正の本は、一般には使用されていない表現や専門用語が頻繁に出てきますから、初心者には取り付きにくいと思います。

ただし、本の最後の8章のメカニズムの解説は、中山氏の独自の考えですから、参考にしない方が良いと思います。

 

 

p.96

密教加持で病気を治すのは、超能力でも念力でもない

 

しかし、お加持で病人を治していくのは超能力でも念力でもありません。

力むようなことは一切なく、お加持の最終段階では真言のオンアビラウンケンすら唱えていません。

大日如来と一体のような絶対他力の状態になっています。

といって、密教は絶対他力だなんて言い出そうものなら、宗団から追い出されかねません。

だから仏さまに任せきってしまう絶対他力、つまり「易行道(いぎょうどう)」のことを、織田先生は二十数年黙っていました。

そして昭和49年に出した本「難病を救う真言密教」の中で、次のように発表したのです。

 

「大日如来の加持の「加」というのは、如来が「与える」という意味で、「持」というのは、衆生が「受けいただく」意味であると深く感得した」

 

受けいただく、その受けいただくのも仏の御(おん)はからい、つまり絶対他力、これが易行道の真髄です。

だいたい、密教が他の宗派と異なる重要な点は、悩みを救うという哲理の実証にあります。

実証は加持の効験(こうげん)です。

ところが密教では、祈祷は真言を唱え、気合をかけ、力んでやるものと思っています。

自力の宗教です。

しかし、自力の先達(せんだつ、仏道修業の先輩)がどれだけ病人を救ったでしょうか。自力には限界があり、仏の力は広大です。

 

弘法大師は「即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)」の即身成仏頌(しょう)で、「三密加持すれば速疾(そくしつ、早く)に顕(あら)わる」と言い、

さらに三密加持について、「手に印を結び、口に真言を念誦(ねんじゅ)し、心が無我没入の境地に入れば、三密相応じて加持するがゆえに速やかに現証を見ることになる」(取意)と具体的に説いています。

先生は、「大日経の加持そのものが、絶対他力の経証(きょうしょう)なんです」と言う。

 

これが法身説法(真理としての法そのものが説法していること)の証(あかし)でもあるのです。

絶対他力の世界には仏と人間、自分と他人の対立がない、対立がないから病人の痛むところが先生に感じられ、仏の力が病人に加えられる。その対立のないことを加持を通じて教えられました。

それが絶対他力の易行道です。

 

 

p.101

その本を読んだ中外日報の東京支社長にすすめられて書いたのが「密教祈祷の秘法」でした。

推薦文を書いてくださった高野山大学学長、伊藤真城(いとうしんじょう)先生にお礼に行ったら、「ひじょうに簡単によく書いたな」とほめられ、「加持力と本願力とどう違うんですか」とうかがってみると、「加持力が本願力(本願力とは衆生救済の力の意味です)」とお墨付きをいただいたそうです。

 

 

p.164

幾多の宗教遍歴を重ねて----木下隆孝師

 

生命の根源、人間の核心は仏様だ

生長の家の本も全部読んだ。また宗教心理学研究所の本山博さんは誠実な人だが、八つのチャクラ(超心理的なエネルギーのセンター)を開発しなけりゃ悟りが得られんという。

生きている間に開発できるという保証はない。これはいかんと思って止めた。

そのとき織田先生の「難病を救う真言密教」を読んだ。

それで疑問に思うことを手紙に書いてぶっつけた。

そしたら返事で、「自力でやっているからあかん。仏さまがやろう、やろうと思っても、それでは心が開いていないから悟りが逃げてしまう」

それで、直接指導を受けに行った。そして、他力の易行道(いぎょうどう)を教わったんです。

それでわかった。生命の根源は仏さまで、人間は、煩悩(ぼんのう)の姿を現しているが、核心は仏さんだ。

自分の煩悩が仏様に変わったとき加持は成立する。

南無阿弥陀仏と唱えたとき、同時に阿弥陀さまがおいでになっていて救おうとしている。

アビラウンケンと唱えたとき、同時に大日如来さまが救おうとして、手を伸べられている。

(中略)

ともかく仏の救いを疑ったらだめ。信じなければだめ。

信がなければ宗教ではないんです。

 

 

p.195

手探りのお加持で、母のポリープを治す

(症例55) 胃のポリープ、Aさん(女性)、青森県

注意:この本は古い本ですから、本には本名と住所が書かれていますが、現在は個人情報保護法がありますから、ネットのこの記事では個人を特定できないように書いています。

 

織田先生にお加持をお願いするのは、大学病院での検査結果を聞いてからでよいと考えまして、十月三十日から、私が母に内緒で真言のオンアビラウンケンを念誦しはじめました。

そのときには先生からいつも注意されている「瑜伽行(ゆがぎょう)においては自然法爾(じねんほうに)の道を忘れず、霊能力や通力を求めない」を守りました」

瑜伽行というのは、行者の身・口・意(しん・く・い)の働きを、大日如来さまのお働きと合致させるための行のことで、自然法爾とは、自分のはからいを捨て、すべてを仏の手に任せきることです。

 

「そしたら十一月五日の午後から母の体調がとてもよくなって、七日、大学病院での検査では、『胃にはただれがないし、形も正常、ポリープもない。前の病院の検査がおかしい』と言われました。

母はもちろん、親類も不思議だ不思議だと驚いていました。それで、家族そろって青森別院へお礼参りをしたしだいです。仏縁を深く感謝します。」

 

Aさんは、宇宙の大生命(補足:大日如来)と一体になったのです。そしてそれ以来、知人の病気のときには、その人に内緒で祈るようになりました。

 

 

(B)難病を救う真言密教―密教の哲理と加持力の実証

織田 隆弘、出版社: 密門会出版部; 増補改訂新版 (1990/12)

 

p.123

真言念誦の観念

大日如来は宇宙の根源一切価値の覚性、一切の願の成就し給う仏さまであり、そのお働きは無数の仏さま、神さまに応現なされる、全ての救いの総本仏であります。

阿弥陀如来の四十八願、薬師如来の十二願も観世音菩薩の念彼観音力の功徳も、皆本流の大日如来が源であります。

衆生の欲願に一応表徳の利益を成就されるのでありますから、いま病気に悩む者のために、これを救うに「アビラウンケン(補足:大日如来)」の念誦の中に慈悲心を湧かし、救病に努め回向すれば利生は速疾に顕れるのであります。

回向とは顕教(密教以外の仏教)の表現ですが観想とすればよいと思います。

法身大日如来のはからいに、救病のはからい(理と智)があるが故に、行者これに従えば、かならず験(しるし)ある訳であります。

「観」とは真実を観(み)る意です。

 

大日如来の身を五輪曼荼羅にて示せば、地・水・火・風・空・識の(六大中の「識」には形なく五大各々に含む故に)五輪塔となります。

「六大無碍にして常に瑜伽なり、四種曼荼各(おのおの)離れず、三密加持すれば速疾に顕る」と弘法大師がお示しになられております。

「アビラウンケン(補足:大日如来)」を念誦するに、「真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く。一字に千理を含み、即身に法如を証す。行々(ぎょうぎょう)として円寂に至り、去々(ここ)として原初に入る。三界は客舎の如し、一心はこれ本居(ほんこ)なり。」

とも示しておられます。

真言そのものが「不思議なり、観誦すれば無明を除く」と申されており、真に有難いことでありまして、「行々(ぎょうぎょう)として円寂に至り、去々(ここ)として原初に入る」というお言葉は実に真実の体験を明かされておる御文であります。

私どもは、大日如来の加持身となり、円寂の中に慈悲の徳を起こすのですが、今、病気を問題にする時は、病者もまた如来の加持身と観じ、病の本性もまた六大、即ち如来身でありますから、快癒するのであります。これは皆、自然治癒力の本質に同化融合するからであります。

 

 

p.125

密教の瑜伽加持の実行により生じる不思議な力は、即ち祈りの力が自然治癒力に同化融合して、活発化するのであります。

そのためのはたらきの現象が病によっては、熱となったり、痛みとなったり、だるさ、鈍重、明快、時には寒さを感じるのでありましょう。

場合によっては、何の変化も感じないまま、早期に治ることもあります。

ここで私は思うのですが、祈りは即ち三密加持の三摩地(さんまじ: 瞑想で精神集中が深まりきった状態(出典:Wikipedia三昧))に入るものであり、心・仏・衆生是三無差別の教えのごとく、行者と病者と如来との一体となる入我我入観に入るのであります。

生命力が盛んになった時は大きな生理現象の復活を知るわけです。

 

 

p.134

瑜伽三昧は、依頼者と面識がなく住所、姓名、年齢を以て祈っても効験があるものとされますが、面会してその方の顔だちや姿が自分の記憶に焼付けば、その病人を観想するに一層精神が入りますので、可能なかぎりは親しく会って話すことがより有効と思います。

この場合、大切なことは、我れが病人を治すのではなく、ただひたすら大日如来のお徳の、「加」(如来が与える力)を素直に、「持」(いただく)するのであります。

私には別に超能力なぞないのですから、皆さんも一心に疑うことなく真言の不思議を信じ、如来さまがお霊徳を与えておられることを、深く信じていただければよいのであります。

真言も誦唱せず、祈願を頼む熱意もなく、ただ頼みましたでは、信心ではありません。

 

p.227からの解説では、大僧正は1回の行で「オン アビラウンケン」を30分~2時間唱えるように書かれています。

 

 

p.233

大日如来の真言は、「オンアビラウンケン」と唱えますが、上の二字「オン」は帰命(補足:南無)の意、「アビラウンケン」は宇宙本源の生命体、胎蔵界大日如来の真言です。その生命体に融合した時、同時に「オン」であり、「帰命」の瞬間であります。

語呂の上からしても、慣れますと「アビラウンケン」の繰り返しに、自然になります。

四六時中、行住坐臥にも「アビラウンケン」が流れ出るようになることが望ましいのであります。

黙す時は心中「アビラウンケン」です。

道中でも然りです。

 

 

補足

織田隆弘大僧正の著書『同体大悲』のp.114には、「終戦後前後の1年間は、阿弥陀様の世界を大日如来と同じ世界と感じて、南無阿弥陀仏と唱えて病人を全て治した」と書かれています。

大日如来の真言「オン アビラウンケン」だけではなく、「南無阿弥陀仏」と唱えても同じ効果があることを織田隆弘大僧正が経験され、僧侶の自力ではなく、如来の絶対他力による治病・願望成就が加持の真の姿であると書かれています。

 

要は、「真如=宇宙の英知」を人格化した大日如来、阿弥陀如来に「南無大日如来」「南無阿弥陀仏」と祈れば、宇宙の英知の意思が実現されて、願いがかなえられることを、織田隆弘大僧正とその門下の方々が、実証されているのです。

その場合、具体的な願い事、例えば、病気が治ることを祈るのではなく、「南無大日如来」「南無阿弥陀仏」とだけ唱えても良いのです。

宇宙の英知は、全てを知っている存在ですから、我々のことも全て知っており、我々に必要な具体的な解決策を実行して下さるのです。

これは、祈る人の自力ではなく、宇宙の英知による絶対他力の作用です。

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