風月庵だより

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輪廻転生について

2006-02-17 15:01:34 | Weblog
2月15日(水)曇り夕方一時雨六月の暖かさ【輪廻転生について】涅槃会の日に


2月13日投稿の【若くして逝きし人】の記事のなかで、輪廻転生について少し触れたが、もう少しきちんと書いてみたいので、智慧袋のふくろう博士に講義を受けた。しかしなかなか咀嚼しきれないが、咀嚼できたところを少し書いてみたい。

近年、輪廻転生説が誤りであることを論じたのは、和辻哲郎氏(1889~1960)であるという。「無我説と輪廻転生説は相容れない」ということを学説として明確に打ち出したのである。釈尊は無我を説かれた。我(実体)が無いのだとすると、輪廻するということは理論上成り立たない、ということであろう。このことは和辻氏の『原始仏教の実践哲学』に書かれているそうである。

しかし木村泰賢氏(1881~1930)は無我説と輪廻転生説は両立していることを主張したが、氏は早くに亡くなってしまったので、和辻氏の主張が強い影響力を仏教界にも及ぼして、大勢として輪廻転生説は否定されるところとなったのであろうと、ふくろう博士は説明された。木村氏の「原始仏教思想論」(『大乗仏教思想論』)にその件については述べられているそうである。

また『雑阿含経』に死後について「無記」とある。

尊者阿難答言。隨意所問。知者當答。倶迦那言。云何。阿難。如來死後有耶。阿難答言。世尊所説。此是無記。復問。如來死後無耶。死後有無耶。非有非無耶。阿難言。世尊所説。此是無記。倶迦那外道言。云何。阿難。如來死後有。答言無記。死後無。死後有無。死後(簡略にこれを訳せば-阿難に倶迦那が質問をした。「如来に死後は有りますか、無いのですか」と。阿難は答えた。「世尊の説くところは、無記である」と。)

無記とは有とも言わず無とも言わない、ことである。ここの場合、如来とは仏のことではなくtathagata(thの後のaの上-)は衆生及び有情のことをさすのである。とすると衆生を一慨には考えられないから、死後の有無をひっくるめて答えようがないので、無記なのであった、とふくろう博士は説明する。つまり、衆生が煩悩のある存在と煩悩のない存在によって、死後の有無は異なるのであるから一つにはできないということである。

この無記をもって輪廻転生はあるという説をたてる人はいないが、輪廻転生を否定する人によっては、ここを一つの論拠とした(する)こともあるようである。

しかし経典には輪廻を否定している経典はないが、輪廻を肯定していると読むことのできる経典は存在するそうである。釈尊が悟りを開かれたとき、「生まれは尽きた」と言われたという。つまりそれまでは輪廻していたことの裏付けと解釈できる、ということである。今その箇所が見つからないが、またふくろう博士にお教え頂いてから、お知らせしましょう。

『般若経』で説かれる「空」は全ての存在は「空性」である、ということであり、輪廻を否定することとは別のことである。輪廻が空(実体がないこと)だから解脱がありうるのだ、と言うことはできる。とふくろう博士は言われる。

近代において和辻氏が説かれたところは、西洋的合理主義に基づいた切り口であり、合理的な認識論のほうがわかりやすいかしれないが、果たして真実はどうなのであろう。

私は十六歳の頃、ロブサン・ランパというチベット僧の『第三の眼』という本を読んだことがある。今から四十年以上も前のことであるが、よく覚えている。少年時代にラマ僧になるように選ばれて、高僧たちのミイラの前を案内されることになった。、一体のミイラの前に立ったとき、体中が異様な震えを覚えたという。その時、案内の僧が言った。「この方はお前の前世の姿である」と。

当時、そういうこともあるだろうと素直に読んだことを思い出す。
ロブサン・ランパはその後、額に第三の眼をうえつけられ、人間の体から出るオーラが見えるようになったと書かれていた。そのオーラの色によって、その人の心の状態を読み取ることができたという。

この本に書かれていることはデタラメだということをいう人もいた。真偽の程は私には分からない。しかし人間の体からオーラが出ているのではないかということについては、三十年ほど前にザルツブルグというところで、手のキルリアン写真というのを撮ってもらった経験があるが、手から光りのようなものが出ているのが映し出されていた。これについても私には正確なところは分からない。(これはロシアのキルリアン兄弟によって発見されたので、キルリアン写真と名付けられているという。)

私の知人にはオーラが見えると言った人がいたが、その人は自分の死期を予告して、自殺ではないが、予告通りに亡くなった。このことについても私には分からない。

分からないことは多くある。特に私には多くある。なにが真実か、真理はなにか、釈尊の教えの真実はなにか。この世のことで事実さえも分からない場合が多い。
このように分からないことは多いが、一つでもなにか分かったら有り難いことである。学び続けていきたいと願っている。

私がこの世を生きていくのに、宇宙と一つになれるような広々とした気持ちになれることを学んでいきたいと願っている。そして静かに消えてゆこう。その後のことは分からない。厳然としてわかることは、我が命、今、此処に在り。このことを見据えて生きていこう。