風月庵だより

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孤独なる死

2006-01-19 17:54:10 | Weblog
1月17日(火)曇り一時晴れ【孤独なる死
今日は阪神大震災発生の日で、あれから十一年の歳月が流れたことになる。六千四百三十四人の命がその地震で失われてしまった。あらためてご冥福を祈ります。

関連するニュースで、災害復興住宅で孤独な死を迎えた人が昨年一年で六十九人であったという。平成十二年からの合計は三百九十六人にのぼり、このうち一割の方が自殺であるという。

孤独死については、私自身にもふりかかってくることとして、身につまされる思いがする。今は母と二人暮らしであるが、そのうちに一人暮らしになる。長兄が十三年前に亡くなったのだが、その時つくつぐと母より先に亡くなる不孝を実感した。そして私はどんなことがあっても母より先には死ぬまいと誓ったのである。よって私は予定としては、母を見送って、一人になるということになる。つまり孤独なる死は私にもやってくるのだ。
 
この頃は独身の男性も女性も増えて、孤独死が社会現象になる日も近いであろう。晩婚も増えるかもしれないが、結局はどちらかが残る。私を含め人知れず死んでいく者の心構えについて考える時がやってくる。親戚に頼んでおいて連絡網をつくるのもよいかもしれない。友人同士の「生きてますか連絡網」をつくるのもよいかもしれない。地域社会の連絡網も考えられる。

しかしどんなに家族に見守られても、死んでいくのは一人なのだ、誰にもお供を頼めることではない。日頃から死ぬ覚悟をつけておくことは、孤独に死ぬときにも安心があるというものだろう。仏教のお話を聞くもよし、イエス様の教えを受けるもよし、縁のある宗教の助けを頼んで、心の平静を養っておくことは、いよいよの時に役立つ一つの要素ということはいえよう。
また形有る物をいろいろと後に残していくので、その始末についての配慮はしておきたい。最たる残存物である骸の始末をして頂くことの配慮も、しておくに越したことはないだろう。独身者の死は後々までの配慮が大変である。

しかし孤独であるからこそ、病院のベットで管に繋がれるような死にかたをしないで済む可能性も高い。まさに死のお迎えがきた時、きっぱりと死にきれる幸せがある。この世の人生の旅を終え、これからは果てしのない旅に飛翔する時だ。グレートジャーニー(大いなる旅)への旅立ちである。

長渕剛の「ガンジス」という歌に次のような歌詞がある。
   「神様はどこにいるのか」と尋ねたら
   老婆は自分の胸をさした
   笑いながら自分の胸をさした

私は仏教僧であるので、神様を仏様と言い換えさせてもらいたいがー長渕さんは嫌がるでしょうー素朴に生きていれば、誰にでもそれがわかると私は思う。素朴に空を眺め、雲を眺め、海を眺め、野の花を眺め、空飛ぶ鳥を眺めているならわかると思う。山を見続け、岩を見続けてもわかるだろう。

中学生のときの国語の教科書に、ナサニエル・ホーソンの「巨人の岩」(『人面の大岩』)という小説が載っていて、四十年以上たっても覚えている。それは少年の頃から尊厳有る人の顔をした岩を見続けて生きた人が、大人になって真の賢者になったというような話しであった。

大自然に頭を垂れて生きさえすれば、自分もその産物の一つであることがわかるだろう。この安心さえあれば孤独なる死も怖くはない。 
しかしこの安心がなくても怖くはない。死の瞬間には先に逝った親しい人が迎えに来てくれるそうだ。仏菩薩(光であろう)も来てくださるかもしれない。

安心して孤独なる死を迎えよう。

でも、復興住宅で独り死に逝く人の手を、握っていてあげたかったと、きっと皆さんも思ったことでしょう。ご冥福を祈ります。