フレッツカンパニー

ウクレレ、真空管アンプなどの修理調整、さらにウクレレ、ベースなどのレッスンをやっています。

むかしばなし 10

2008-02-25 22:08:52 | Weblog
少し時間を戻します。  1964年(東京オリンピックの頃かな) TBSラジオの30分番組で 大学対抗バンド合戦なんていうのがありました。 最初はラジオで偶然聞いて、面白そうだから聞きに行っちゃおうなんて 赤坂の TBSホールへ行きました。  

東京コカコーラボトラーズ の提供で 行き始めた頃の司会は 小島正雄さん という、とても上品で紳士服のモデルのようなかっこいい方でした。   あるときから大橋巨泉さんに交代しましたが、 高校生の私にはその理由なんてわかりませんし、どうでもいいことでした。  

大編成のフルバンド、少人数のジャズコンボ、タンゴ、カントリー、ブルーグラス、ハワイアン ジャンルは問わず、ごちゃまぜで審査されてました。 その日その時の番組ごとに優勝バンドが選ばれて、年末に優勝バンドのコンテストが、別の会場で行われてました。  

ジャズピアニストの 八城一夫さん をメインとして、当時の日本を代表するミュージシャンが審査員を務めてました。  けっこう辛口の批評を言われてましたが、音楽にかかわり始めたばかりの私には参考になったり、わけわからなかったり。  
このコンテストから世にでたミュージシャンはかなりいると思います。特にジャズの世界では・・・・・。                                                                
この頃を境に アメリカのカントリー系バンド ベンチャーズ、そしてイギリスから ビートルズ が日本に入ってきたわけですが、テレビやラジオの音楽番組のメインは それまでのソロ歌手から グループサウンズ に少しずつ移行していくわけです。  

ベンチャ―ズ人気も全国に広がり、 勝ち抜きエレキ合戦 なんていうテレビ番組もありましたが、歌がないのがいまいち盛り上がらなかった原因ではないでしょうか。    
その点 ビートルズ には明るい歌、悲しい歌、反戦歌などいろいろなオリジナルナンバーがあり、世界中の人たちの支持を得ました。  当然、グループサウンズの連中も ビートルズ、ローリングストーンズ、アニマルズ、その他アメリカ、イギリスのバンドのカバー、そしてオリジナルを演奏していたわけです。             

一方、私が係わっていたハワイアンの世界では、当時一流といわれたハワイアンバンドは相変わらずのスタイルでステージをこなしておりましたが、 マヒナスターズ が6年連続でNHK紅白歌合戦に出演するなど、ムード歌謡コーラスが大衆の支持を得て、多くのハワイアンバンドがそのスタイルに変わっていきましたし、ラテンバンドやごくわずかですが地方のジャズコンボの中にもそんなグループが出現しました。  

グループサウンズの平均年齢はおよそ20歳、一方、ムード歌謡コーラスの平均年齢30歳、当然のことですがファンの年齢層にも差が生じるわけです。

当時、 コロムビアレコードでは 平均年齢20歳代前半の ムード歌謡コーラスグループをデビューさせる企画がもちあがっておりました。  グアムへ出発する数日前、コロムビアレコードの関係者からそんな話の内容で、メンバーを集めているという連絡をいただきました。  しかしながら、私はグアムでの演奏
契約をしております。

東京へ戻るまでメンバーが見つからなかったら、もう一度連絡をくださいということで、わたしはグアムへ向かいます。



    

むかしばなし 9

2008-02-22 04:18:49 | Weblog
山田晴一さんのグループはフラソングが中心のバンドでしたので、夏の間は通常の箱の仕事(一定期間、毎日同じ店に出演すること)の合間に、拾いの仕事(その日、その時により演奏場所が違うこと)もこなしておりました。
  
幸い都内、もしくは近郊の仕事がほとんどでしたので、会社の業務には影響ありませんでした。                                     
秋風に少しずつ木枯らしが混ざりはじめた11月の初め、グアムで仕事をするかどうかの話がもちあがりました。  さー困りました。  
行く、行かない二つに割れました。  私はまだどっちつかずです。  
1週間後に各自結論をだすということで、その間非常に悩みました。  

メンバーの中には、まだ人食い人種がいるだの、生きて帰ってこれないだのいろいろ言う先輩もあらわれました。  
そして1週間後、グアムへ行くことを決心しました。  
残念ながらフラソングの素晴らしい ケアヒさんは 行くことを断念したようです。  
12月15日付けでS製薬株式会社試験課を退社しました。  なんの後悔もありません。    

12月23日 夜、出発の便で
羽田からグアムへ向かいます。 メンバーは山田晴一(スチールギター)、ジョ―ジ高山(ウクレレ&ボーカル)、迫(ベース)、落合宏文(サイドギター&ボーカル)、女性(氏名不明 ボーカル) の五名と プアローゼス という3人編成のフラチームです。  チームのリーダーは 尾崎喜美枝さん(この字でよかったのかな)という方でした。     

到着した空港では早朝にもかかわらず、地元の新聞社の取材があり、夕方の新聞にはグループの写真が掲載されてました。  
出演したお店はホリデイインというナイトクラブです。 
この日の夜から演奏が始まります。  
この頃、グアムには大きいホテルなど一軒もありませんでした。
 
これからおよそ1か月、このお店で夜ごとサイドギターを弾くことになります。   東京にいれば年があけたら成人式です。 

むかしばなし 8

2008-02-17 04:29:34 | Weblog
京浜東北線大井町近くの、S製薬株式会社は踏切を隔てて自宅から徒歩5分位でした。  
この会社を選んだ理由は特になく、家から近い、銀座まですぐということだけでした。
  
この頃は会社の組合にも結構勢いがあって、終業後の組合大会などには必ず出席することなどと規則まであって、とぼけて脱走、二度の始末書なんていう実績もつくりました。 

 幸か不幸か我が家一帯は東京都の区画整理 (大田区と品川区をはしる池上通りをJRの線路をまたいで海岸通りにつなげる延長工事) の対象になっていて、組合の会合や残業など、なにかにつけて、都との話し合いがあるからという理由を提出して、銀座の副業(本業かも)に出かけておりました。

こういう状況が1年半ほど続きましたが、19歳の誕生日(7月)を目前にしたころ、ハワイアン、特にフラソングを中心に演奏しているグループから誘いがありました。

山田晴一さんというスチールギターを演奏される方からでした。 山田さんの楽器は
フライングパン (たぶん別の呼び方があると思います) というジュラルミンのボディに弦をはったもので、フラソングにはぴったりのサウンドをひびかせるものでした。
  
当然のことながらそのサウンドをだすテクニックに心を惹かれたわけですが、ボーカルの ケアヒさん という方のフラソングがそれまで聞いたことのない歌い方であり、声の質であり、この人ハワイの人じゃないのかな、なんて思わせるなんとも言えない魅力がありました。  

19歳の7月1日からそのグループでサイドギターを担当することになりました。



むかしばなし 7

2008-02-11 03:50:21 | Weblog
外山さんのスチールギターはテスコの特注ということでした。 8弦、4ペダル、チューニングはオープンでディミニッシュです。   基本的には Am7 で演奏されていたと思います。   ウエス モンゴメリー が好みということで、音質はややくもり気味、オクターブでメロやアドリブを演奏してました。  

高校卒業を目前、2月のある日、学校はお昼で早退、一目散で帰宅。 おふくろから借りた29万円を握りしめ川瀬さんの工房へ向かいます。
 
ちょっと話はそれますが、たぶん今でも営業していると思いますが、小川町にカワセ楽器という高級ギターばかり並べているお店がありました。  時間ができるとよくギターを眺めに言ったものです。  こちらの社長さんの弟さんが、修理をしている川瀬さんであると、だれかれとなく聞いた記憶があります。

汗で固まっているお札を一枚ずつ広げて29万円を川瀬さんに渡しました。  参考までに、S製薬株式会社の見習い期間を終え、試験課に配属となり、正社員となった最初の給料は16,800円でした。 
  
ずっしりと重い茶色のケースです。 蓋を開けるとあざやかなピンクのふわふわの生地におさまった Gibson Super-400C があらわれました。 吊るしてあった時よりさらに高級に見えました。 川瀬さんはニコニコしながら僕を見送ってくれました。

帰宅してから銀座へ出かけるまでの間、何度も、ストラップの長さを調節し、その都度、鏡にむかって弾いておりました。
当初買おうと思っていた L-7C のボディよりひとまわり大きく、体の大きいアメリカのギタリストが弾くギターだなと思いました。   しかしネックは意外と細く高校生の私でも案外楽にコードを押さえることができました。
重いケースをぶらさげて銀座会館へ向かいます。



  

むかしばなし 6

2008-02-03 05:00:38 | Weblog
上野では松原隆&東京エコーズというバンドでサイドギターを弾いておりました。

7月から沼津の沼津会館というキャバレーに移動してしまいましたので、夏休みが終わって学校が始まってからしばらくバンドの仕事はなくなりました。

10月の初め銀座会館という、8丁目の並木通りに面したクラブでスチールギターを弾いている外山肇さんという方を紹介されて、同月16日からギターを弾くことになりました。

歌謡曲もハワイアンも何でも来いの松原さんと違い、歌謡曲の演奏はリクエストだけであとは主としてジャズでときどきラテンが混ざる程度でした。

それまでジャズはほとんど聞いたことがなく、コード進行を暗記するのに苦労しました。

外山さんは何かにつけてウエス(ウエス モンゴメリー)を聞けと言われておりましたがハワイアンに夢中だったその頃はまだジャズを聞く気になれませんでした。

外山さんは休憩時間になると必ず靴磨きを始めます。
読み終えた新聞紙をテーブルにひろげ、小指の先につけたわずかな水を、手前に向けた丸い靴の先端につけ、黒い KIWI の靴墨を人差し指にまきつけたガーゼの先端にほんのわずかつけ、ゆっくりまわしながら磨いていきます。

靴の先端はピカッではだめで、ビコーでないと粋でないというのが外山さんの口癖でした。

靴磨きを志していたわけではありませんが、なぜか真剣に見て聞いておりました。

この時から数ヶ月後、まさかGibson Super-400 を手にするなんて、おもいもしませんでした。

むかしばなし 5

2008-02-01 04:48:35 | Weblog
年が明け、すでにJR大井町駅近くのS製薬株式会社に就職は内定しておりました。

ギター代金29万円なんて、逆立ちしたってどこからも出やしません。

おふくろになんとなくそんなギターの話はしましたが、当然しかとうされました。

川瀬さんに手付金はいくら位で良いのか尋ねましたが、高校生なんだから無理して買わなくてもと、説得されました。

しかしながら一度見てしまったギターをなんで諦められましょう。

家にいる時の私の素振りで察してくれたのか、一度の懇願で、どのように蓄えたのか、芸人である母はすんなり貸してくれました。

私にとって初めての大金である29万円はコートのポケットの中、握りこぶしと合体しております。

川瀬さんにあうまで、一度もその手を広げることはありませんでした。

汗でしわしわになった一万円札を29枚、川瀬さんに渡しました。

Gibson Super-400C 私のギターです。はじめて修理に出した Kay の ギター4万2千円、当初、絶対買おうと夢に見た Gibson L-7C 25万円、それを一気に飛び越えて中古ですが大した傷もない、とても程度の良いギターです。 わたしの宝物です。

これから借金の返済が始まります。