はなうたまじりにひとりごと

私視線で、観て聴いて♪素直に気ままに我儘に。主に宝塚の舞台のこと、その他諸々?についてお喋りを。

演劇フォーラム→黎明の風☆1

2008-04-27 17:55:47 | Weblog
私は、初めて「演劇フォーラム」なるものに行ってきました。
前半が、作品の背景について、後半にスターさん登場?かな??
くらいに思ってたら、案外盛り沢山。パートは4つに別れていました。

はじめは、白洲次郎さんの娘婿にあたる、
町田市にある「武相荘(ぶあいそう)」(白洲次郎の家)の館長さんのお話。

「黎明の風」をご覧になって、
出て来る小さな女の子が、「家内」なんだなと思うと、恥ずかしかったり、
宮沢喜一氏は、実際は小柄な人だったのが、
舞台では、白洲次郎よりも背が高いくらいなのを見て、
知っているだけに不思議な気持ちになったりされた、と。
(ということは、だいぶ現実と重ねてご覧になられた、ということで、
重ねて見るに耐えられる作品なんだな、と私は思いました)

しかし、宝塚歌劇へのイメージで、甘いラブロマンスかと思っていたら、
政治的なことも、しっかりと描かれているし、
ショーも、「よく訓練されている感じがした」し…
と、充分に堪能しました、とのお話でした。
「訓練」という表現が…正しいのだけど、私はかえって、新鮮に感じました。

白洲さんのエピソードとしては、
例えば、ご自分がお嬢さんをお嫁さんにしたい、とお願いしに行った話。
おつきあいされていた時に、
周りが、白洲さんにご挨拶しないと大変なことになる、とやきもきしたため、
とうとう覚悟を決めて、ご挨拶に。

家中の人たちは、別の部屋に隠れてしまい、
一人、白洲さんに、お願いに行く。

「おじさん、お願いがあるんですけど」
「俺は、お願いされるようなことはないね」
「いや、僕の方は、お願いをきいていただかないと、困るんです。
お嬢さんを、僕のお嫁さんにください」

勇気を出して言うと、
「俺は、子どもの結婚に反対したりはしないよ」
と背中を向けたまま、返事をしながらも、実際は、気に入らなかった様子(←と、ご本人はおっしゃってました)。
結婚式の日まで、
「いつでも嫌になったら帰って来ていいんだぞ?」
と、お嬢さんに言って、正子さんに叱られていた、と。


或いは、鶴川村での農業の話。
いち早く、農業の機械化に興味を示して、
外国の耕耘機などを、海外のつてを利用して入手し、
車と同じように、よく手入れをして試していた…と。

日本の畔道も、コンクリートで舗装すべきだと、
早い段階で、おっしゃっていたそうです。


すみません、
私の記憶が、大変に断片的で、いろいろと曖昧に、
言葉などが違っているのではないかとは思うので、
雰囲気で捉えていただけたら。


CLOとして働いていたことについて、一度正子さんが、
「あなたしか知らないこともいっぱいあるでしょう?
本に纏めてみれば?」
と言われて、自分は文章は書けない、と断った。
正子さんが、お友達の名前を挙げて、
この方にお願いすればよい、と勧めた時に、一瞬その気になった様子だった、白洲さん。
しかし、すぐに、
「やめた!」
と、首を振った。

「歴史というものは、後の人たちが、都合よく組み立てるものだから、
自分のことは、自分一人で墓場まで持っていく」
と言い放ち、それ以後、白洲さんに、出版などを勧める人は無かったと…。


また、宝塚の生徒さんとおつきあいされていた、ということについて質問されると、
実は館長さん、奥さんから、その話は口止めをされて来たのだけど、
「観てみたら、何のことはない、大きな声で、叫んでるし…(笑)、皆さんご存じではないですか!」

実際「可愛がっていただいていたらしい」けれど、
どなたと?ということについては、白洲さんは、
「忘れた」
と、誰にもそのお相手を明かさなかったそうで。

白洲次郎は、「ポーズ」を持っている人だった。
弱い者は助ける、「Say thank you」、
…こんな言葉が、私の印象に残っています。


最後に、司会の方が引用された、正子さんの文章について。
白洲次郎が亡くなってすぐに、鶴川の家に孔雀が舞い降りた。
1年ほど、居着いた後、また、どこかへ去ってしまったその孔雀が、
白洲次郎だったのではないかと思える…
という文章だったのです。

が…
これを聴いて………
いや、本当に素敵な文章なんです。
これが、鶴川でなかったら、私もじーんとして終わるのですが…
でも、鶴川なんだもんなぁ。

この正子さんの美しい文章をそのまま、ロマンチックに胸に置いておかれたい方は、
ここで読むのをやめてくださいね。
私は、この孔雀がどこから来たのか、について…つい、考えてしまったのです。

鶴川って、どこにあるかっていうと、
私の出た大学の学園の割に近所です。
この学園には、小学部があって……孔雀を飼っていました。

私が在学中に、鉄筋コンクリートの校舎になった小学部ですが、
私が大学に入って、学内探検をした時には、
まだ、小学部は木造校舎でした。
なかなか可愛くて、お洒落な……と、私は思い、取り壊されると聞いた時には、残念に思ったものです。

そして、……そこに、孔雀が飼われているのを見たのです。
他にも、農学部の方の林には、羊たちが座っていたので、
まぁ、孔雀が飼われていたからって、驚くに価しないのかも?

いや、普通、小学校では、孔雀は飼わないであろう?
さすが、この学校だ…と、変な感心をしたことを、
私は強烈に覚えているのです。

孔雀は、鋭い声で鳴き、尾羽を広げ……
ていたようなイメージ。
私は一度しか、孔雀を見てませんが、
あれは幻なんかじゃなかったはず。

さて、孔雀というものは、
どのくらいの飛行距離があるのでしょうか?
それでも、あの小学部の小屋を逃げ出した孔雀が、
飛んでいけない距離ではないんじゃないかしら…鶴川って。

…と、私は思ってしまい、
つい、にまにましてしまったのでありました。

勿論、家族が寂しい気持ちになっているので、
亡くなった次郎さんが、学校の孔雀を呼び寄せた、とも思えるのですけど。

……ちなみに、石田先生?
先輩も、このお話を楽屋で聴いていらして、そんなふうにお思いになりませんでした?(にやり)


つづく。