<東首塚付近>
歩いて巡る中山道六十九宿(第15回):第1日目(1);関ヶ原古戦場(1)
(五十三次洛遊会;特別企画)
2012年11月16日(金)~19日(月)
第1日目;2012年11月16日(金)
<関ヶ原古戦場地図>
<関ヶ原へ>
■古戦場と彦根城を見学したい
私達は,前回の中山道六十九宿第14回目のときに,関ヶ原を通過した.
言うまでもなく関ヶ原は歴史の町である.関ヶ原でどうしても押さえておきたかったのは,関ヶ原古戦場,壬申の乱,それに中山道の三つである.
この三つの中で,前回の旅で回れなかったのが,天下分け目の関ヶ原割線上である.私は何とかこの古戦場を見学したいなと思っていた.
それともう一つ,前回は,時間切れで訪れていない彦根城も是非訪れてみたかった.また“ひこにゃん”というユルキャラの現物も見たかった.
そこで,約1ヶ月前から,関ヶ原古戦場と彦根城を一人で見学する計画を立てていた.
日にちが経つにつれて,私一人だけで回るのも良いが,もしかしたら,仲間の中にも私と同じように古戦場と彦根城を回りたいと思っている方も居られるかなと気になり始める.
本音を言えば,一人旅の気楽さは何とも言えない魅力である.若いころから私は放浪するように一人旅を楽しむことが多かったので,ついつい先祖返りをして一人旅にあこがれをもってしまう・・・が,ここは折角同じ釜の飯を食べてきた皆さんに,何も連絡もせずに一人旅をする後ろめたさに勝てず,旅の同行者10人に対して,私が古戦場と彦根城を巡るのでもし良かったらご一緒にどうぞというお誘いの手紙を出す.
その結果,2人の同行希望者と私の3人で,古戦場巡りと彦根城見学をすることになる.
■新幹線を乗り継いで関ヶ原へ
もともと一人旅をするつもりだった私は,インターネットを使って,早々と彦根駅前のビジネスホテルを予約した.ホテルサンルート彦根である.これまで宿泊してきたビジネスホテルより少し割高だが,駅の真ん前にあるのが気に入った.同行されるお二人には,適当に自分でホテルを予約して貰うことにする.
さていよいよ今日が旅行日である.
何時も丹沢塔ノ岳に出掛けるのと同じ時刻,5時10分に家を出発する.ただ,塔ノ岳に出掛けるときに利用する大船発5時44分の電車では少々早すぎるので,大船駅前のマクドナルトで100円也のコーヒーを奮発してから,大船6時04分発沼津行の電車に乗車する.今日は平日.下り電車ながらそれなりの混雑である.
小田原で,7時04分発新幹線ひかり501号に乗り換える.相変わらずこの列車は混雑している.車内手退屈な時間を過ごし,8時20分,名古屋に到着する.在来線への乗り換え口で,今日ご一緒するキンギョ女史とバッタリ.キンギョさんは,私の顔を見るなり,
「ああ・・・良かった!」
とホッとした表情になる.
名古屋8時27分発東海道本線の快速電車に乗り換える.ここでご同行のもう一人の男性Iさんと一緒になる.
9時01分,終点の大垣に到着する.ここで9時12分発米原行普通電車に乗り換える.
9時25分,関ヶ原駅に到着する.お天気は上々である.
<静かな関ヶ原駅>
■駅前の観光案内所
まずは駅前にある観光案内所を訪れる.
初老の男性が親切に応対してくれる.前回この辺りを通過したときに関ヶ原に関連する資料を集めていたので,特段目新しい資料はなかったが,親切な応対に心が和む.
さて,いよいよ関ヶ原古戦場一回りの旅の始まりである.
<関ヶ原合戦の概要>
■関ヶ原合戦の経緯
関ヶ原古戦場を巡る前に,資料5の記述を参考にして,関ヶ原合戦の経緯を簡単におさらいしておこう(以下は資料5の要約である).
慶長5年(1600年)9月15日,徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が関ヶ原で天下分け目の合戦を繰り広げた.
両軍布陣前後,辺りには深い霧が立ちこめていた.見通しの利かない中で両軍のにらみ合いが続いていた.
霧が少し晴れた8時頃,東軍井伊直政が決戦の火蓋を切って落とした.西軍は総勢8万4000人,対する東軍は7万4000人.
徳川家康は桃配山に本陣を置いた.戦況が不利になると,本陣を激戦地の陣馬野まで前進させる.これによって東軍の士気が高まる.
正午頃,徳川家康の圧力を受けた小早川軍が,西軍から東軍に寝返る.そして,同じように寝返った他軍とともに大谷勢を攻撃する.その後,小西行長隊と宇喜多秀家は敗走する.さらに勇猛果敢に応戦していた石田三成隊も敗走する.
天下分け目の決戦は,開始からわずか6時間余りで勝敗が決着する.
■開戦当初の布陣
西軍東軍の両軍が布陣を終えた段階では,西軍が圧倒的に優位であった.西軍は山や丘を見事に確保していた.その布陣の姿はまるで鶴が羽を広げて的を包囲しているように見えたので「鶴翼の陣」と呼ばれた.
<開戦当初の布陣>
■小早川寝返り後の布陣(地図は資料5から引用)
家康が本陣を桃配山から前身させ,東軍の士気が上がる一方,西軍は小早川勢の寝返りによって,戦況は一変する.折角の「鶴翼の陣」は,小早川の寝返りにより片翼になってしまい,西軍は敗退する.
<家康前進・小早川寝返り後の布陣>
<関ヶ原駅から歩き出す>
■オリエンテーリングの案内板
さて,これだけの予備知識を持って,いよいよ歩き出しである.
関ヶ原駅前の案内所の方にお礼を言ってから,9時30分に関ヶ原駅前を歩き出す.まずは,東海道本線沿いに西へ向かう.
5分ほど歩きくと,オリエンテーリングの案内板が立っている.傍らにある案内標識には東首塚,歴史記念資料館,丸山烽火場などと書かれている.これらの案内板や標識を見ていると,
“いよいよ古戦場だな・・・”
という実感が湧いてくる.
■関ヶ原古戦橋
9時40分,東海道本線を渡る関ヶ原古戦橋を渡り,東海道本線の北側に向かう.橋の名前がいかにも面白い.
関ヶ原合戦で戦った方々は,後の時代に決戦の場所がまさか観光地になって,沢山の観光客が歩くようになるとは夢にも思わなかったろう.そう考えると,人の一生や喜怒哀楽,艱難辛苦など後世の人間にとっては,どうということがないんだなと妙な気分になる.
<関ヶ原古戦橋>
<東首塚の森>
■東首塚
9時41分,橋を渡ってすぐ左手の東首塚に到着する.辺り一帯は,深い森になっている.
傍らにある案内板の記事によると,この塚は関ヶ原の戦い直後に,この地の領主竹中家が築いたもので,家康が首実検した将士の首を葬ったところだという.
文部省(現在の文部科学省)から史跡に指定された後,標柱や石柵が建てられた.そして昭和17年,徳風会というところが,名古屋から山王権現社本殿と唐門が,この塚の脇に移築され,東西両軍の供養堂となったという.
<東首塚>
<東首塚>
■松平忠吉・井伊直政陣跡
同じ森の中に松平忠吉と井伊直政の陣跡がある.
合戦が始まるとき中山道にある敵に対峙するために福島,藤堂,京極隊が布陣する.また,北国街道に対峙するために黒田,竹中,細川などの隊が布陣する.その中央にあたるこの地に松平忠吉,井伊直政が約6000名の兵で陣を構える.
松平忠吉は徳川家康の4男である.また井伊直政は彦根城主である.
今日の内に彦根城を見学しようと思っている私は,関ヶ原と彦根城との関連を再確認する.
<松平忠吉・井伊直政陣跡>
■首洗いの古井戸
同じ森の中に首洗いの古井戸がある.
古井戸の傍らに立つ案内板の記事によると.合戦で討ち取られた西軍の将士の首は,家康の首実検のあと,ここに塚を作って懇ろに葬られた(写真の後ろに塚が見えている).
首実検に先立って,首装束のため,この井戸水を使って首級の血や土などが洗い落とされたと伝えられている.
<首洗いの古井戸>
■山王権現社
東首塚のある森の西外れにまっ赤な社殿が建っている.辺りには説明板はないが,これまであった説明板の記事から,ここが山王権現社本殿だろうと推測する.
近くの木々が紅葉し始めている.
<山王権現社>
<陣馬野公園>
■田中吉政陣跡
東首塚から北に延びる自動車道と並行する1本西の道を北へ歩く.やや道幅が狭い道である.
数分歩くとY字形の三叉路に突き当たる.ここが田中吉政軍の陣跡である.辺り一帯は公園風に整備されている.あの世に居る田中吉政も自分の陣跡が公園になっていることを知ったら,さぞかしビックリすることだろう.
<田中吉政陣跡>
■徳川家康最後陣地跡
田中吉保陣跡から道路一つ離れたところに徳川家康最終陣地跡がある.大きな石柱に「関ヶ原古戦場徳川家康最後陣地」と刻字してある.
辺り一帯は紅葉が美しい公園になっている.
<徳川家康最終陣地跡>
■木船神社
公園の北西端に二つの神社がある.向かって左側が木舟神社である.白い石造りの立派な鳥居が目に付く.
祭神はタカオガミノミコト(難しい漢字なので表示できない).
近くにある案内板によると,ここ陣馬野地区は用水の便に恵まれず,わずかな日照りでも井戸水が涸れてしまうことがしばしばであった.この苦境を脱するために,大正15年(1926年)に,大規模な隧道工事(汲み上げ施設)を行った.水に歓喜した住民が,水神として有名な京都木船神社の祭神タカオガミノミコトを分霊,この地区の鎮守とした.
<木船神社>
■御霊神社
木船神社の右手に御霊神社がある.
案内板の記事によると,関ヶ原合戦で数万にも及ぶ将兵がここで戦死した.おびただしい数の戦死者は慰霊すら行われていなかった.これらの戦死者の霊を慰めるために昭和55年(1980年)に,この神社を建立した.
余談だが・・・
私が住んでいる鎌倉とその周辺に,御霊神社がいくつかある.これらは鎌倉権五郎を祀った神社である.
関ヶ原の地で,御霊神社があることを知った私は,一瞬,
“何で,この関ヶ原が鎌倉権五郎と関係があるのかな・・・”
と焦りに似た困惑を感じた.
でも,この神社の案内板に記事を読む内に,神社の由来が分かり,なるほどそういうことだったのかと納得する.
<御霊神社>
■関ヶ原歴史民俗資料館
10時02分,関ヶ原歴史民俗資料館に到着する.
入口で350円也の入場料を支払って,資料館に入る.内心では“入場料がちょっと高いな”と思いながら・・・・でも,仕方がないな.年金生活者でサンデー毎日氏でもある私は,ケチケチムードに全身染まってしまったようである.
館内は撮影禁止.写真に撮りたい展示物が沢山陳列されているが,意固地になって,“写真など撮ってやるものか.こちらから願い下げだ”とばかりデジカメを仕舞い込む.
まずは1階の大型スクリーンの前に立つ.そこには関ヶ原全体の鳥瞰図が画かれている.
“ボタンがあれば何でも押してみる”,“試食があれば何でも食べてみる”という性向が強い(と思われる)キンギョ女史が,躊躇いもなくスクリーンのボタンを押す.
いきなり大音響の館内放送が始まる.内容は関ヶ原合戦の経緯の説明である.スクリーンに埋め込まれた豆電球が,開戦から動き出した各陣営の順に,点滅する仕掛けである.
当初,スクリーンなどに全く興味がなかった私も,大音響の説明に思わず聞き耳を立てる.
なかなか手際の良い説明である.僅か数分の説明で,旅の前に時間を掛けて調べたことが,実に簡単に理解できてしまう.キンギョおばさんに感謝.
資料館の2階の展示場も見て回る.数々の出土品が展示されている.なかなか見応えのある資料館である.
10時29分,資料館を出る.
<関ヶ原歴史民俗資料館>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;関ヶ原町役場地域振興課『このまち,まるごと,古戦場』
資料6;「関ヶ原合戦史跡めぐり」
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/36b3be0543acfbe9bbc3a2b7bad379f3
「中山道道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/9190d803c5ee8042743b7acfaec374b8
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