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みすずかる信濃の国を行く〜春の花に囲まれて

コース順路:4月17日〜4月18日 コース満足度★★★★★
信濃国分寺跡 → 上田城址公園 → 安楽寺 → 常楽寺 → 大法寺 → 北向観音堂 → 塩野神社 → 中禅寺 → 前山寺 → 塩田城址の碑 → 龍光院 → 旧開智学校 → 松本城
4月17日と18日の二日間、待ちに待った「みすずかる信濃の国を行く」と題した、所属している「史跡ボランティアの会」の研修旅行に参加し、とても楽しく有意義な時を過ごしました。
「信州の鎌倉」とも呼ばれる塩田平にはたくさんの古いお寺が残っていて、そこにある貴重なお堂や塔は、訪れる者にいにしえの文化の面影をしっかりと伝えてくれました。

天平13年(741)、聖武天皇の勅願により全国に造られた国分寺の1つ、信濃国分寺跡を訪れる。
この国分寺は東大寺式伽藍配置と呼ばれるもので、約177m四方の境内には南大門・中門・金堂・講堂が南北一直線に並び、中門と講堂を回廊でつなげ、講堂の東南に塔、東側に僧房を配置している。
残念ながら、天慶2年(939)の平将門の乱で一帯は将門と従弟だった平貞盛との戦場となり、堂宇の多くは兵火により焼失してしまったという。
資料館には、信濃国分寺跡発掘調査で見つかった八葉複弁蓮花文鐙瓦、均正唐草文字瓦などが展示されている。
 

静かなたたずまいの信濃国分寺を訪れると、まずは立派な造りの三重塔が最初に目に入る。
全国に建立された国分寺は60以上にのぼるが、現在、塔が残っているのは5ヶ所(備中・豊前・飛騨・越後・信濃)にすぎない。
かなりあったと言われる七重塔は皆無で、残された五重塔、三重塔の中でもここの塔が一番古いとされている。
また、関ヶ原の戦いの時に徳川秀忠と真田昌幸がこの寺で講和したこともよく知られている。
上田城址公園の桜が美しい。
上田城は天正11年(1583年)に真田昌幸が築いた城で、彼はその堅牢な城の造りを背景にして、巧みな戦略を用いて徳川の大軍を2度も退けている。
現在の城郭は真田氏の次に上田藩主となった仙石忠政によって、江戸時代初期に復興されたもの。
  

次に訪れた安楽寺は、天長年間(824〜834)に円仁和尚(諡は慈覚大師)が創建し、鎌倉時代に樵谷惟仙(しょうこくいせん)が中興した天台宗の禅寺。
この寺の背後にある国宝の八角三重塔は日本に残るただ一つの八角の塔で、鎌倉末期に塩田北条氏によって建立されたもの。
中国から伝わった日本国最古の禅宗様建築で、塔を外側から一見すると四重に見えるが、一番下の屋根は裳階(もこし)と呼ばれるひさしのようなものだという。
和尚さんがわざわざ来てくれて、塔の内部に安置されている大日如来坐像を見せてくれたのが嬉しい。
  

茅葺きの屋根が美しい常楽寺も円仁和尚が創建した天台宗の古刹で、有名な北向観音を守る寺にもなっている。
本堂背後にある高さ281cmの石造多宝塔がある辺りに、その昔、大きな火柱とともに本尊の観音様が現れた、という言い伝えがある。
その多宝塔の軸石四面に刻まれた銘文には、弘長2年(1262)に塔を建立し、一切経を納めたとある。 
 

常楽寺の裏側にある石造多宝塔を見に行く途中、水芭蕉の群生が、清楚な姿で訪問客に春の訪れを告げているのに気付き、思わず写真を撮る。
大法寺の創建は、大宝元年(701)に文武天皇の勅願により藤原鎌足の長子・定恵が開山し大宝寺と称したのが始まりと伝えられている。
大法寺の三重塔は鎌倉幕府滅亡の年(1333)に建立されたもので、その優美な佇まいに思わず振り返るほど美しいことから"見返りの塔"の異名を持っている。
この麓を近江国・瀬田から陸奥国・多賀城まで続く東山道が通っており、大法寺は浦野駅(うらのうまや)の駅寺だったので、ここにこのような壮麗な塔が建ったと言われている。
 

今に伝えられている北向観音堂の観音堂伝説をひもとくと、「・・・天長2年(825)に、常楽寺の丘陵の一角で、毎夜、光明が射し、地鳴りを伴いました。朝廷はこのことを聞いて驚き、天台座主の円仁を派遣します。円仁が現地でお経を営んでいると、空中から”自分は観音である、わが像を刻み北向きに安置せよ”と言うお告げが聞こえます。円仁はこの像を刻んで、言われる通りに北向きにし、観音堂に祀ります。境内に愛染桂の大木がありますが、この異変のときに観世音菩薩が愛染桂に登り住民達を救ったとの話も残っています・・・」とある。
南向きの善光寺に向き合っているところから「北向観音」あるいは「裏善光寺」と呼ばれ、善光寺が「未来往生来世の利益」を祈願するのに対し、北向観音は「現世の利益」に御利益があることから「片方だけでは片詣り」と言われている。
  

塩野神社は、かつては独鈷山(とっこざん)の山頂近くの鷲岩という大きな岩に祀られていたが、今は北の山麓の大きな深い森につつまれている。
神社の前には太鼓橋がかかっており、その下には独鈷山の湧き水が滝となって流れ、それが本流の産川と合流して塩田平を潤している。
深遠な雰囲気で、思わず身の引き締まる思いがする。
 

独鈷山の麓にある中禅寺は空海によって開山されたと云われており、この辺では最も古いお寺とされている。
茅葺き屋根の中禅寺薬師堂は鎌倉時代初期に建てられた美しいお堂で、中には国重文の木造薬師如来座像が置かれている。
ここでも和尚さんが来て、薬師堂のことやこの像についての詳しい話を聞かせてくれたのは嬉しかった。
前山寺も弘法大師が修行霊場として開いた寺で、ここにある三重塔は縁や手摺りなどがついていないが、その姿がすっきりとして美しいことから「未完成の完成塔」と呼ばれている。
  

前山寺から塩田城跡まで続く道は「あじさいの道」とも呼ばれていて、季節にはおよそ25000株のガクアジサイが美しい姿を見せてくれるという。
この道から眺める景色は、日本文化のふるさとは大和だと確信させてくれる飛鳥の「山の辺の道」を思い起こさせる。
塩田城址の碑を読むと、「・・・塩田城は北条重時(第二代執権北条義時の第三子)の子、義政が信濃の居館としたのが始まりで、義政、国時、俊時と続く北条氏三代の城だったところ」とある。
義政は蒙古来襲の際には執権の時宗と共に対応していたが、2回目の蒙古襲来を前になぜか出家してこの塩田の地に移っている。
その理由は未だによく分かっていないが、義政公の墓の文字が意図的に完全に削られているのが、その訳を解く鍵になるのかもしれない。
  

日本で最も古い小学校のひとつと云われる旧開智学校を訪れる。
開智という校名が気になったが、『学制序文』の「人々…其身ヲ修メ智ヲ開キ才芸ヲ長スルハ学二アラサレハ能ハス」から命名されたという。
国宝松本城の成り立ちはかなり複雑だが、気になるので整理すると、「・・・もともとは小笠原氏の城だったが、武田信玄の信濃攻略後は馬場信房が城代となり、武田氏が滅ぼされると小笠原貞慶が城主に復活(城名を松本城と改める)、家康の関東移封後は石川数正が城主となり、城下町(現在の松本市)も整備した」となる。
「みすずかる信濃の国」の早春、そして歴史を満喫できた素晴らしい旅に感謝しつつ、相模の国へと向かうバスに乗り込む。
 
平城遷都1300年−春の大和路を行く
上総・下総の史跡を巡る旅
「岩宿遺跡・上野国分寺跡など」を訪ねて(上州の旅)
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能登半島周遊と兼六園、東尋坊、永平寺

コース順路:3月25日〜3月27日 コース満足度★★★
<加賀>兼六園 → <能登>巌門 → 輪島朝市 → 白米千枚田 → 禄剛崎灯台 → 見附島 → <越前>東尋坊 → 永平寺
兼六園や永平寺などの史跡を訪ねたいという気持ちが重なり、初めての北陸方面の旅に出かける。
結果的に一番良かったのは、ホテル「のと楽」の行き届いたもてなしと質の良い温泉、そして新鮮な海鮮料理ということで、北陸の魅力は歴史的なものだけではないことを知る。

3月末の兼六園は春を迎える前の端境期ということで、花は遅咲きの梅が咲いていただけだったのが残念。
兼六園は水戸の偕楽園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園の1つに数えられる池泉回遊式庭園の大名庭園で、その立派な造りは確かに素晴らしい。
説明によると、名称は宋代の詩人、李格非の洛陽名園記に記されている「宏大」、「幽邃」、「人力」、「蒼古」、「水泉」、「眺望」、の6つを兼ね備えている名園で、松平定信が名付けたと言われている。
能登半島西海岸は、今日も日本海の荒波が押し寄せているという感じで、穏やかな海の風景にはなかなかお目にかかれない。
 

朝鮮半島の金剛山のように美しいことから名付けられた能登金剛、断崖絶壁の巌門を訪れると、松本清張の歌碑が置かれている。
近くには、推理小説「ゼロの焦点」の舞台となった悲劇のヒロインが最後に身を投じた「ヤセの断崖」がある。
バス内で、1321年瑩山紹瑾禅師によって開創された北陸きっての古刹、大本山總持寺祖院(横浜鶴見の総持寺の前身、明治31年に七堂伽藍の大部分を焼失)の話を聞く。
バスが輪島朝市に到着、一千年以上も前から神社の祭日ごとに物々交換の市が立ったとされ、この古い歴史のなかで朝市には売る者と買う者との心の触れ合いが生まれてきたという。
 

有名な棚田の白米千枚田を見渡すと、小さな田が幾何学模様を描いて海岸まで続いている。
田の枚数は国指定部分で1,004枚もあるとのこと。
禄剛崎灯台の説明文によると、「・・・明治時代にイギリス人設計士により作られた灯台からは海からの日の出、海への日没が見られることで有名、灯台が設置される前は狼煙(のろし)で船舶に合図をしていて、狼煙灯台とも呼ばれています」とある。
見附島は弘法大師が佐渡から能登へと渡る際に、最初に「目についた島」とされ、名前の由来ともなっている。
先端部分が突き出たその姿から軍艦島とも呼ばれており、いずれにしても能登のシンボル的な存在と言える。
  

東尋坊の名前の由来ともなる伝説が面白い、「・・・民に悪の限りをつくした東尋坊という怪力の僧が、在所の美しい姫に心を奪われ、恋敵の真柄覚念という僧と激しくいがみ合いました。ある時、岩場の上で酒宴を催した真柄覚念は、すきを見て東尋坊を断崖絶壁から突き落としました。天候はにわかに崩れ、雷と暴風雨が四十九日続き、命日にあたる四月五日は、東尋坊の怨霊が大波と化し、岩壁を激しく打ち殴り続けたといいます」とある。
常に200余名の修行僧が日夜修行に励んでいるという曹洞宗の大本山・永平寺の入口に立つ。
ここを訪れる人は、周囲の老杉や谷川のせせらぎに禅の奥深さを感じ、おのずと襟を正すという。
大庫院前に掛けられた全長4mほどの大すりこぎは、かつて仏教建築に使われた地突き棒で、「身を削り人のためになるように」との意味合いが込められている。
  
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この曲この一枚 その28 ワーグナー 歌劇「さまよえるオランダ人」

 
コンヴィチュニーに対する指揮者としてのキーワードを拾うと、質実剛健のベート−ヴェン、骨太のロマン主義、正攻法の気迫、などという言葉が並んでいる。
彼は根っからのドイツ生まれでゲルマン魂の権化のような演奏をする人と思っていたら、実際は1901年チェコのモラヴィア地方フルネックという村の生まれだった。
ライプツィヒ音楽院を卒業後、当時フルトヴェングラーが常任指揮者をしていたゲヴァントハウス管弦楽団のヴィオラ奏者に任命され、ワルター、クレンペラー、ワインガルトナー、クライバーなどの名指揮者にも接する機会を持ったという。
その後指揮者として活躍する機会を得、1949年には世界最古の伝統を持つライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者に就任し、1962年に亡くなるまでその地位にあった。
この歌劇「さまよえるオランダ人」の盤は評論家の人達にはあまり評価されていないようだが、私にとってはそれこそ「正統派の至芸を網羅」というキーワードに値する演奏とも思えるもので、ベーム、カラヤン、ショルテイなどの盤をはるかに超える魅力があると言わざるを得ない。
男性陣(ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、ゴットロープ・フリック)の底力のある歌唱、そして臨場感あふれる録音は特に素晴らしいし、この曲が好きな人、そしてコンヴィチュニーの魅力を知らない人はぜひ聴いて欲しい「この曲この一枚」だと思う。
・フランツ・コンヴィチュニー指揮、ベルリン国立歌劇場管弦楽団、合唱団、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ<Br>、マリアンネ・シェヒ<S> 、ルドルフ・ショック<T>、ゴットロープ・フリック<B>、ジークリンデ・ワーグナー<A>、フリッツ・ヴンダーリヒ<T> <ETERNA>
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多摩川六郷橋緑地と聖蹟梅屋敷公園を訪ねて

コース順路:コース満足度★★
京急雑色駅 → 安養寺 → 宝憧院 → 北野天神(止め天神)→ 多摩川六郷橋緑地 → 六郷神社 → 六郷水門 → 正覚寺 → 聖蹟梅屋敷公園 → 薭田神社 → 京急梅屋敷駅

最初に訪れた安養寺は、和銅3年(710)に行基が薬師・阿弥陀・釈迦の三尊像を安置したのが始まりというから、相当に古くて由緒のある寺である。
寺の入口の傍にある古川薬師道道標は、東海道筋の雑色から多摩川道に入る分岐点に建てられた道しるべで、 正面と両側面に古川薬師への分かれ道であることを示す銘文が刻まれている。
境内にある冨士講碑の表面には100に近い講紋、講名、講員名が刻まれていて、このように多くの講名や講紋を刻んだ例は珍しく、富士講の分布を示す資料として貴重なものだという。
  

鎌倉時代に創建された真言宗の古刹、宝憧院を訪れる。
小田原北条氏や徳川歴代将軍の保護を受け、朱印状などの文書も伝えられている。
境内にある梵鐘は延宝9年(1681)に多摩川の河原で鋳造されたものだという。
 

北野天神(止め天神)には、次のような興味深い故事が伝えられている。
説明板には「・・・徳川八代将軍吉宗公が乗った馬が暴走した時、北野天神のご加護のおかげで落馬を免れたとされ、以来<落馬止め>が転じて<落ちない>につながり、<止め天神>として知られるようになった」とある。
多くの受験生が参拝に訪れる他、選挙立候補者、乗馬関係者もお参りに来るのだという。
童謡「通りゃんせ」がここで生まれたのかは不明だが、境内には「通りゃんせ」碑が置かれている。
 

多摩川六郷橋緑地と呼ばれる多摩川の河川敷には野球場やテニスコートが整備されている他、サイクリング道路も通じ、多くの人々が気持ちの良い汗を流している。
六郷神社は歴史が古く、源頼義と義家親子が奥州征伐に向かう際、杉の古木に白旗ををかけて祈願したのが始まりと言われている。
門前には梶原景時が寄進したという太鼓橋が、境内には旧六郷橋の親柱があり、この神社は見るべきものが多い。
 

六郷用水は耕作のため、徳川家康の命を受けた小泉次太夫により開削された用水路で、多摩川の水を狛江市で取り、野川、仙川などと合流し、世田谷区を通り、下流の大田区に注いでいた。
昭和に入って田畑が減少し、生活排水も増えた為、大雨の時など排水しきれず浸水する地域が広がっていったので、この六郷水門が昭和6年に設けられたという。
  

聖蹟梅屋敷公園の由緒は説明板によると、「・・・山本忠佐衛門という人が食あたりや暑気あたりに効く”和中散”という旅の常備薬の売薬所を開き、文政年間に子の久三郎が梅の名木を集めて東海道の休み茶屋を開いたことに始まる」とある。
現在はかなり小さい規模の公園となってしまったが、12代将軍徳川家慶の鷹狩りの際の休み所にもなり、明治以降も明治天皇の行幸が9度にも及んだというから、かなりの名所であったことは間違いない。
最後に「延喜式」の神名帳に記載された古社という薭田神社を訪れる。
和銅2年(709)に僧行基が天照、八幡、春日の三神を造り神殿に安置したのが始まりと、社伝に書かれているかなり古い神社である。
正面の石鳥居は、柱背面の銘文に寛政12年(1800)に北蒲田村の氏子によって寄進されたと記載されており、大田区内の中でも古いものの一つだという。
  
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倉敷・吉備路・尾道を訪ねて

コース順路:コース満足度★★★★★ 1月6日〜8日
<倉敷へ> 〜 倉敷アイビースクエア → 倉敷美観地区 → 阿智神社 → 大原美術館 → 鬼ノ城 → 吉備寺 → 横溝正史疎開宅 → <吉備路へ> 〜 吉備津神社 → 吉備津彦神社 → 鯉喰神社 → 造山古墳 → 備中国分尼寺跡 → こうもり塚古墳 → 備中国分寺跡 → 作山古墳 〜 <尾道へ> 〜 林芙美子の銅像 → おのみち文学の館 → 千光寺公園 → 天寧寺 → 西國寺 → 西郷寺 → 浄土寺

白壁の美しい倉敷の街、古代豪族の王国が偲ばれる吉備路、そして寺と文学の街、尾道を訪ねようと一路新幹線で西へと向かう。
江戸時代の倉敷は天領と呼ばれる徳川幕府の直轄領だったが、今はその代官所のあった所にホテル倉敷アイビースクエアが鎮座している。
そのあゆみを紐解いてみると、倉敷紡績所設立(明治21年)、操業停止(第2次世界大戦の終結の日)、その後工場の倉庫として使用、「倉敷アイビースクエア」オープン(昭和49年)となっている。
ホテルの周りを歩いてみると、レンガ壁とノコギリ屋根の建物、そして壁に絡まる蔦(アイビー)が昔の面影を偲ばせてくれる。
 

倉敷美観地区を通り抜け、倉敷総鎮守の神社、阿智神社へと向かう。
倉敷の古名が「阿智」というのは、「日本書紀」応神記の記述に、「二十年の秋九月に、倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖である阿知使主(あちのおみ)とその子都加使主(つかのおみ)が、百済より17県の人達を率いて来帰してきた」とあり、阿知使主の一族がこの地に住み着いて、養蚕・絹織・縫製・鉄文化等の先進技術を伝え、広め、今日の繁栄の基礎を築いたことに由来している。
古来この一帯は吉備の穴海と称され、内海深く湾入し、社地は内亀島という小島であったため、海の交通交易の守護神である宗像三女神を祀ったとも伝えられている。
 

阿智神社のすぐ隣にある観龍寺、1866年(慶應2年)、長州藩の配下にあった第二奇兵隊の脱走兵約100人が倉敷代官所を襲撃、その後観龍寺に侵入、兵糧と軍資金を調達し翌朝には出て行ったという。
歴史の爪痕というか、その際に出来た槍の傷跡が左手の鴨居門に生々しく残っている。
倉敷川沿いにたたずむ蔵屋敷、このような佇まいは、寛永19年(1642)に幕府の直轄地となり、代官の支配を受けてからで、備中、美作、讃岐の米、綿、油などが陸路、水路を通じて集荷、搬出され、川沿いには綿花問屋、米穀・肥料問屋などの倉庫が次々と建てられたという。
 

昭和5年に倉敷の実業家大原孫三郎が設立し、西洋美術・近代美術を展示する美術館としては日本最初のものという大原美術館を訪れる。
音楽が好きなせいか、楽聖ベート−ヴェンの胸像に一番惹かれるものを感じる。
  

鬼ノ城から一望する備中平野の眺めは素晴らしく、これだけでもはるばる麓から車を飛ばして来た価値がある。
「鬼ノ城縁起」という文献によると、「・・・異国の鬼神が吉備国にやって来た。彼は百済の王子で名を温羅(うら)という。彼はやがて備中国の新山に居城を構え、しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり、婦女子を掠奪したので、人々は恐れおののいて”鬼ノ城”と呼び、都へ行ってその暴状を訴えた・・・」とある。
これが温羅伝説と呼ばれる話だが、実際は朝鮮式山城で、築城の背景には7世紀に起こった百済の滅亡と、その亡命貴族が指導して作らせた山城の一つではないかと言われている。
 

吉備真備記念館を訪れると、吉備真備の業績などが分かりやすく展示されている。
家柄の不利を跳ねのけ立身出世、片仮名を発明したというパネル、孫子の兵法を日本に伝えた、などの展示の他に遣唐使の船の模型もあり結構面白い。
 

古代寺院であったことを示す礎石が境内に残っている吉備寺は、吉備真備の菩提寺でもある。
遣唐留学生として学んだ吉備真備公の記念碑が中国西安市に建てられたのにちなんで、同じ碑がまきび公園内にも建てられている。
 

若い頃、「八つ墓村」を徹夜で読んだほどに好きだった作家、横溝正史の疎開宅を訪れる。
横溝正史氏は太平洋戦争末期の昭和20年4月、東京での戦禍を避けて、真備町岡田で約3年半の疎開生活を送った。
「本陣殺人事件」「獄門島」「八つ墓村」などの名作が、この地で発表され、彼の日記によると名探偵・金田一耕助は昭和21年4月24日にこの家で生まれている。
 

吉備津神社の本殿と拝殿は、室町時代初期に造られた日本で唯一の「吉備津造り」とされ、国宝に指定されている。
この神社は、祭神となっている吉備津彦命が温羅退治のために陣を構えた場所とされている。
捕らえられ、首をはねられ、晒された温羅の首が大声を出して唸り続けるので、神社の御釜殿の土深くに首を埋めたが、13年間も唸り続けたという。
温羅は「阿曾媛(あぞめ)に神饌(みけ)を炊かしめよ。そうすれば悪業の償いとして、この釜をうならせて世の吉凶を告げよう」といい、「鳴釜神事」として今も吉備津神社に伝えられている。
吉備津彦神社の祭神は、崇神天皇の命により四道将軍として遣わされて吉備国を平定したといわれる吉備津彦命で、「桃太郎」のモデルとしても有名になっている。
吉備国が備前・備中・備後・美作と分かれた後は「備前一宮」とも呼ばれ、備前国の総氏神として長年親しまれている。
 

鯉喰神社がある所は、温羅伝説によると、鯉に化けて血吸川に逃げる温羅を吉備津彦命が鵜となって追いかけ、喰い上げた場所と言われている。
神社の拝殿の屋根瓦をみると、鯉の絵が見られるのが面白い。
全国第4位という造山古墳は、自由に立ち入りできる古墳としては最大の古墳で、5世紀前半の吉備を支配した「王」の墓といわれている。
時間があれば、古墳の上を歩いてみて、その大きさを感じ取りたかったと思う。
 

こうもり塚古墳は、吉備の大首長の墓と考えられる前方後円墳で、後円部の横穴式石室は全国第4位の規模を誇る巨大な石の組合わせて造られている。
この古墳は仁徳天皇に愛された吉備の黒媛の墓とされ、黒媛塚古墳と呼ばれていた。
しかし、仁徳天皇の時代とは100年以上も隔たりがあることがわかり、石室内に蝙蝠が多かったのでこうもり塚古墳と呼ばれるようになったという。
聖武天皇の詔により築かれた備中国分尼寺跡を訪れる。
東西108m、南北216mの広さで、伽藍配置は南から北へ南門・中門・金堂・講堂などの建物が一直線上に並ぶもの。
いつも思うことだが、築地塀だけでもあったら雰囲気が全然違うのになどと頭の中で空想を広げてしまう。
  

備中国分寺跡尼寺跡には、創建寺の金堂の礎石がきちんとした形で残っている。
奈良時代の天平13年(741)、聖武天皇は仏教の力で災害、疫病、そして外敵などから国を守るために、全国に僧寺や尼寺を建てるようにと詔を出している。
国府に近い場所を選び、「金光明最勝王経」や「法華経」の写経各10部と聖武天皇直筆の「金光明最勝王経」を七重塔に安置することなどとされている。
備中国分寺跡は、中門・南門の礎石と井戸の跡のみしか残っていないのが残念だが、江戸時代に再建されたという五重塔がそれを補って余りある景観を見せている。 
   

尾道にある林芙美子の銅像を見やる。
幼少時代を尾道で過ごした林芙美子は、生涯この町を愛したという。
「放浪記」の「海が見える、海が見えた、五年振りに見る尾道の海は懐かしい」の一節は有名。
 

尾道は寺が多い、ということで一日に回れる時間のすべてを使って古刹を巡ることにする。
説明は省略するが、持光寺の「臥龍の松」、光明寺の第12代横綱陣幕久五郎の墓と手形の石碑、そして海福寺の三つ首さまに注目する。
  

尾道ゆかりの作家ということで、志賀直哉旧居では彼が「暗夜行路」の草稿を執筆した当時の部屋を展示、文学記念室では林芙美子の書斎を再現している。
千光寺公園からは、尾道の街、そして瀬戸内海の眺めが一望できる。
 

創建当時は五重塔だったという三重塔を見やりながら、天寧寺の本堂に入ると、豪快に描かれた獅子をあしらった立派な襖絵が目に入る。
座禅堂の五百羅漢像は、その造りから表情まで一体ずつが異なっていて、じっくり見ていると時の経つのを忘れてしまう。
  

浄土寺は616年に聖徳太子の創建と伝えられる古刹で、足利尊氏が九州平定や湊川の戦の際に戦勝祈願をした寺としても有名。
国宝の多宝塔は鎌倉時代の代表的な多宝塔で、中世のものとしては規模が比較的大きく均整がとれており、高野山金剛三昧院、石山寺と共に日本三名塔の一つと云われている。
 
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とっておきの名盤 その152 ショパン 4 スケルツォ

 
今回、「とっておきの名盤」としてこの盤を取り上げたのだが、ポゴレリチについての褒め言葉は過去のブログの中で十分に述べているので、まずはその演奏の素晴らしさを書きたいと思う。
たまたまCDの名盤紹介の本を読んでいたら、ショパンのスケルツォの名盤について敬愛する音楽評論家・宇野功芳氏のコメントに遭遇、その説明がとても素晴らしく、それ以上の表現は私などにはどうしても浮かんでこない。
ということで、そのコメントをそのまま使わせていただくのが一番だと勝手に決めてしまう。
「・・・スケルツォはポゴレリチ<G>だ。強靭なタッチと胸のすくようなテクニックを駆使し、鮮やかな手練の技を聴かせてくれる。表情の変わり身の速さ、最高のリズム感、そこではすべての音がドラマを語りかけており、感情の振幅は極大である。一個の表現者として、まことに彼は端倪すべからざる存在といってよい・・・『クラシックCDの名盤』 宇野功芳 中野雄 福島章泰 <文春新書>」。
たしかに、この盤の最初の曲(スケルツォ第1番)を耳にした瞬間から、聴いた者の心を最後までしっかりと掴んで離さない彼の説得力の強さにはとにかく驚かされる。
そんなことで、しばらく途絶えていた「とっておきの名盤」に新しい一枚が加わったことを嬉しく思っている。
ほかにアラウ、ポリーニなどの簡単には無視できないCDがあることにも注意。
・イーヴォ・ポゴレリチ<P><Grammophon>
・クラウディオ・アラウ<P><Philips>
・マウリツィオ・ポリーニ<P><Grammophon>
とっておきの名盤 その133 モーツアルト ピアノソナタ第11番イ長調K331「トルコ行進曲」他
とっておきの名盤 その101 ショパン 24の前奏曲 作品28
とっておきの名盤 その15 チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品23
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武蔵野の面影を求めて〜善福寺池から妙正寺へ

コース順路:コース満足度★★★
JR西荻窪駅 → 東京女子大学 → 善福寺公園 → 井草八幡宮 → 浅間神社 → 観泉寺 → 妙正寺 → 妙正寺公園 → 天祖神社 → 井荻駅

友人が子供の頃に毎日のように訪れよく遊んだという善福寺公園、八幡宮、それからお寺などを訪ね、昔の思い出話などを聞きながら散策を重ねる。
東京女子大学の初代学長は「武士道」の著作で有名な新渡戸稲造、「われ、太平洋の橋とならん」の言葉でもよく知られている。
日本に女子の大学教育がなかった時代に、国際社会を見据えた女子高等教育をここから始めたと言ってよい。
昭和6年(1931)に建てられた東京女子大学の本館はアントニン・レーモンドによる設計で、のびやかな軒の形が特徴とされていて見学したかったのだが、残念ながら要予約ということで門前払いの憂き目に合う。
すぐ先の善福寺公園に到着、中心をなす善福寺池は古来より武蔵野台地からの湧水池として知られていて、まだ農村だった江戸時代には、貴重な水源とされていた。
善福寺の名は、池のほとりにあった寺の名前に由来しているが、その寺は江戸時代に廃寺となっている。
ややこしいことに近辺に「善福寺」という名の寺があるが、これは福寿庵という元々違う名前だった寺で、本来の池の名前の由来にはなっていない。
 

源頼朝が奥州征伐の際にこの地に宿陣、飲水を探して弓筈で各所に穴をあけたが水の出が遅かった。
ここの地の旧名が「遅の井」と言われた所以とされている。
弁財天に祈りやっと水を得たという言い伝えにならい、建久8年(1197)に江ノ島弁財天を勧請したのがこの市杵島神社の始まりで、旱魃の折には雨乞い祈願に、近隣の練馬や中野の村から多くの人が訪れてきたという。
井草八幡宮は旧上、下井草村の鎮守とされ、明治時代まで遅野井八幡宮とも呼ばれている。
源頼朝が奥州征討の戦勝を祈願して手植したという境内の大きな松を探したが見当たらない。
説明板によると、残念ながら枯れてしまったらしい。
 

戦国大名の今川家の菩提寺で、累代の墓所があるという観泉寺を訪れる。
菩提となった経緯を調べてみると、「・・・今川氏は室町戦国時代は駿河国などを治めた一大大名であったが、桶狭間の戦いで今川義元は織田信長に敗れてしまう。義元の子、今川氏真は徳川家康の庇護を受けて京などで暮らし、後に江戸で没する。氏真の孫、今川直房は高家として江戸幕府に仕え、朝廷との交渉の功績により徳川家光から井草村を含む知行地を与えられる。江戸時代の観泉寺は、今川氏の知行地支配の拠点となり、領民からの年貢の取立てや裁判などを寺の門前で行っている。その今川氏も明治時代に断絶してしまう。・・・」とあり、ここの地名<今川>の由来となって、今川氏はその名を残している。
 

最後に、文和元年(1352)の創建で三十番神堂として知られる日蓮宗の寺、妙正寺を訪れる
三代将軍徳川家光が鷹狩りの際に立ち寄り、神前に武運長久を祈願して葵の紋幕と朱印地五石を寄進し、以来「御朱印寺」として有名になっている。
近くの天祖神社の由来を見ると、「・・・新編武蔵風土記稿・多摩郡下井草村の条に”十羅刹堂”とあり、妙正寺御朱印地ノ内ナリ即此ノ寺ノ持・・・」と記されている。
十羅刹とはもとは人を食う悪魔だったが、後に法華経を守る守護神となった十人の羅刹女といわれている。
日蓮宗の妙正寺がここに十羅刹を祀った言われがよくわかる。
 
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ファッションストリートの街、恵比寿から代官山の古き面影を訪ねる

コース順路:コース満足度★★
JR恵比寿駅 → 恵比寿神社 → 代官山アドレス → 猿楽古代住居跡 → ヒルサイドテラス → 猿楽塚 → 西郷山公園 → 氷川神社 → 井の頭線駒場東大前駅

最新のファッションストリートと言われる恵比寿から代官山、そんな街にもあるはずの古き面影を訪ねる。
「恵比寿」の地名は、この地に置かれた日本麦酒醸造会社の工場に由来するという。
明治23年(1890)、ラベルにえびす様をあつらった「恵比寿ビール」が発売され、ビール出荷専用の貨物駅として山手線に恵比寿駅が開設されてから、徐々に周辺が「恵比寿」と呼ばれるようになったらしい。
そういうことで、まずは、家内安全・無病息災・五穀豊穣の神々を祀った「恵比寿神社」を訪れる。
元々は「天津神社」という神社で、「大六様」と呼ばれていたところ。
関東大震災後に建設された全36棟の同潤会アパートを取り壊した跡地に建てられた超高層住宅や商業施設、ニューヨーク近代美術館も手がけたR・ザイオン氏デザインによる代官山アドレスに立ち寄る。
猿楽古代住居跡公園は弥生時代後期の古代住居跡で、壺や甕、高坏などの破片が出土したところ。
復元された古代住居が焼失してしまったので、現在はコンクリートで固められた住居跡が保存されている。


昭和44年(1969)から20数年かけて完成されたという、ギャラリー、カフェ、レストラン、オフィスなどが建ち並ぶヒルサイドテラスを訪れる。
低層で周囲の風景を圧迫しない広がりのある建築デザインが特徴なのだという。
すぐ先にある猿楽塚は、六〜七世紀の古墳時代末期の円墳で、死者を埋葬した古代の墳墓の一種とされている。
円墳が二基あって、高さ五メートルほどの大型の方を昔から猿楽塚と呼んでいて、この辺の町名(猿楽)の起源となっている。


展望が素晴らしい西郷山公園は、江戸時代には「荒城の月」で知られる豊後の竹田城主・中川候の抱え屋敷だったところ。
明治になって、西郷隆盛の弟・従道が、郷里鹿児島に帰った兄の再起を願い、約6haにおよぶこの地を購入する。
隆盛が西南戦争で敗れ他界した後、従道はここに別宅を構え、木造二階建ての洋館や、書院づくりの和館などを建てる。
池を中心とした回遊式の庭園も設けられ、明治天皇も訪れたほどの東洋一の名園だったという。
残された洋館は昭和38年に愛知県犬山市の「明治村」に移され、その後、国の重要文化財に指定されている。
上目黒の氷川神社は、天正年間(1573〜1592)に旧家加藤氏が甲州上野原の産土神をこの地に迎えたのが始まりとされている。
祭神は素戔嗚尊、天照大御神、菅原道真が祀られており、氏子たちは疫病を知らずと言い伝えられて地域の人々の信仰を集めてきたという。
富士講が盛んだった江戸時代には目黒富士が築かれたが、それを示す石祠や碑が境内に移されて残っている。



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韓国ドラマ、気になる話 その10(追加補足編5)

最近のBS放送は韓国ドラマの花盛りで、この状況は一昔前には想像も出来なかったほど。
確かに歴史ドラマを見ていると、内容が史実をきちんと踏まえていてしっかりとしている、俳優の演技が端役に至るまで上手、風景から役者の服装まで素晴らしい、などなど多くの視聴者の目を引きつける理由もよく理解できる。
これまでに韓国歴史ドラマの紹介を制作年度順に何回かに分けて掲載をしてきたが、今回はその10回目になる。

71.九尾狐伝〜愛と悲しみの母: <朝鮮王朝中期> <監督:イ・ゴンジュン> <主要キャスト:ハン・ウンジョン、チャン・ソンヒョン、キム・ユジョン、ソ・シネ、キム・ジョンナン> 2010年 全16話
番組ガイドの紹介に、「・・・美しき九尾狐(クミホ)母娘の儚い運命を描いた時代劇、母娘の愛情と苦難、復讐を描く新九尾狐伝説」とある。
ハン・ウンジョンの九尾狐も役にはまっているし、トンイの子役を演じていたキム・ヨジョンの娘ヨニがとても可愛い。
  

72.相棒: チャクべ <朝鮮王朝末期> <監督:イム・テウ、キム・グンホン> <主要キャスト:チョン・ジョンミョン、イ・サンユン、ハン・ジヘ、ソ・ヒョンジン> 2011年 全32話
ストーリーは、韓国ドラマでよくある、「・・・激しい雷雨の夜、両班の家と乞食小屋に男の子が生まれる。両班の妻は難産の末に亡くなり、乞食小屋で出産したマクスンは乳母として両班宅に入り込むが、わが子の運命を嘆いて子供を入れ換えてしまう。2人の子供の今後の運命は・・・」というものだが、真に描かれているのは、官僚、商人、奴婢、乞食など、さまざまな市井の人々の個性に着目した朝鮮末期の社会状況なのだという。
   

73.王女の男: <朝鮮王朝初期> <監督:キム・ジョンミン、パク・ヒョンソク> <主要キャスト:パク・シフ、ムン・チェウオン、イ・スンジェ、キム・ヨンチョル、ホン・スヒョン> 2011年 全24話
2011年度の韓国歴史ドラマの最大ヒット作だというから、早くの日本での放送<ただし無料>が待たれる。
ドラマの紹介文によると、「・・・朝鮮時代の”癸酉靖難”を新しく解釈した作品で、大臣キム・ジョンソの息子キム・スンユ<パク・シフ>と首陽大君の娘セリョン<ムン・チェウォン>との悲劇的なロマンスを描いた朝鮮版”ロミオとジュリエット”」とある。
※癸酉靖難(ケユジョンナン)とは、第6代国王・端宗の即位1年後に、幼い国王の叔父にあたる首陽大君<後の第7代国王・世祖>が、ファンボ・イン、キム・ジョンソらの大臣を殺害して政権を奪った事件のこと。
   

74.階伯 ケベク: <百済王朝後期> <監督:キム・グンホン、チョン・デユン> <主要キャスト:イ・ソジン、チェ・ジェヒョン、オ・ヨンス、ソン・ジヒョ、チャ・インピョ、イム・ヒョンシク> 2011年 全36話
イ・ソジン演ずる百済最後の将軍、階伯<ケベク>の生涯を描いたスペクタクル時代劇というのが、このドラマの謳い文句。
韓国でケベクを知らない人というのは、日本で武田信玄を知らないレベルの人なのだという。
NHKは「トンイ」の次に、このドラマを放送する予定という記事をどこかで読んだのだが、どこまで本当かは不明。
演出は「朱蒙」の制作スタッフというのも最大の楽しみだし、「イ・サン」のイ・ソジン、「朱蒙」のオ・ヨンス、ソン・ジヒョが出演するので、どんな演技を見せてくれるのかも楽しみの一つ。
   
韓国歴史ドラマ、気になる話 その9
韓国歴史ドラマ、気になる話 その8
韓国歴史ドラマ、気になる話 その7
韓国歴史ドラマ、気になる話 その6
韓国歴史ドラマ、気になる話 その5
韓国歴史ドラマ、気になる話 その4
韓国歴史ドラマ、気になる話 その3
韓国歴史ドラマ、気になる話 その2
韓国歴史ドラマ、気になる話 その1
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湘南を代表する景勝地、「江ノ島」を散策

コース順路:コース満足度★★★★
江ノ島神社・辺津宮 → 江の島神社・中津宮 → 江の島神社・奥津宮 → 山田検校の碑・八方睨みの亀 → 江ノ島岩屋

江ノ島は言わずと知れた湘南を代表する景勝地で、江戸時代後期には庶民の行楽地として大山 - 江ノ島 - 鎌倉 - 金沢八景を結ぶ観光ルートが流行したという。
福岡の宗像大社や広島の厳島神社と同じく、江ノ島神社は天照大御神が素戔嗚尊と誓約された時に生まれた三人姉妹を祀っている。
平日にも関わらず、田寸津比賣命を祀る辺津宮と弁財天を祀る奉安殿には、多くの観光客が訪れて参拝を欠かさない。
 

市杵島比賣命を祀る中津宮、そして多紀理比賣命を祀る奥津宮へと足を進める。
ここでは、北条氏の「三つ鱗の紋所」の由緒となった龍神伝説に触れないわけにはいかない。
『太平記』によると、「・・・鎌倉時代の初め、北条時政は子孫の繁栄祈願のため、35日間江ノ島に参龍します。満願の夜に赤い袴の弁財天が現れ、龍になって海中に姿を消します。時政は残された3枚の鱗を手に取り祈願成就と喜び、自分の旗印とします」とあります。
 

奥津宮の境内には、山田流琴曲の開祖・山田検校の碑が置かれている。
彼の代表作には、江ノ島に滞在して構想を練ったという「江の島曲」があり、そんな関係で碑が建てられたという。
奥津宮拝殿の天井には、どの方向から見てもこっちを睨んでいる様に見える、八方睨みの亀の絵が掲げられている。
 

江ノ島岩屋は海水の浸食によってできた洞窟だが、弘法大師や日蓮上人が修行し、源頼朝が戦勝祈願した場所としても有名で、ここを寄らないで江ノ島を離れる訳にはいかない。
 
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