Crazy For dos and don'ts

音を楽しむことを。日々の無常を。心の遊びを。

遅くなりましたが、、、

2013-01-20 22:13:33 | Weblog
明けましておめでとうございます。
昨年も大変でしたが、皆様のおかげで年を越せました。

今年は、月に何回かブログをアップできるようにします。※コメント欄参照
書く内容でいっぱいいっぱいだったため、年始の挨拶忘れておりました。
すみませんでした。

今年も、どうぞよろしくお願いします。
今年も大変そうです。

今回は、音楽については先週のエントリーで小休止して、
息抜きに行った美術館のことを書きます。

エル・グレコの世界
クリエーター情報なし
新人物往来社


東京、上野の東京都美術館に
「エル・グレコ展」を見に行った。

車で上野に向かったのだが、午後に行ったのが甘かった。

上野公園前の駐車場はどこも満車で、
車の長い列ができていた。



上野公園から、離れたところにあるコインパーキングに車を止めて歩いた。
歩いて5分くらいだから、それほど苦でもなかった。
雪がところどころに残る道を、注意して歩いた。

晴れているが、冷たい風が強く吹く。

しばらくして、上野公園入口に着いた。



この奥に、東京都美術館がある。
この前に来たのは、フェルメール展
「光の天才画家とデルフトの巨匠たち」

見に行ったときだから、5年ぶりくらいだ。

途中看板を発見。



そうこうしている間に、
東京都美術館に到着。



地下1階に行くエスカレーターで降りて、
エルグレコ展に向かう。
東京都美術館では他のフロアでも別の展示が行われていた。

それほど、混んでいない。
すぐに中に入れた。

500円で音声ガイドレコーダーを借りた。

四部に展覧会が分かれていて、絵の横に書いてある番号を
レコーダーに打ち込むと音声ガイドがヘッドフォンから流れる。



最初は、エル・グレコ本人の自画像と言われる
肖像画から展覧会は始まる。

理知的な目が印象的な肖像画は、すごく印象に残る。

音声ガイドの説明が的確で、うなずいてしまう。

ほか、色々な人物のエルグレコ画の肖像画が、まず並んでいる。

憂いや苦悩などの内面を映し出すその
肖像画のスタイルは、その当時から特別なものであったろう。

ある絵画の一つは、同一人物の肖像画で、別の画家のものと並べて展示してあり、
エルグレコ画の肖像画の特色がよくわかるようになっている。

エル・グレコとは、「スペイン語の男性定冠詞エル(El)と、
ギリシャ人を意味するイタリア語グレコ(Greco)との合成による
あだ名にすぎず、本名をドメニコス・テオトコープロス
(Domenikos Theotokopoulos)と言う。」(「エルグレコの世界」P135)



1541年ギリシャ クレタ島の首都カンディア(現イラクリアン)で生まれる。

「特に注目すべきは、画家としての出発が『イコン(聖像画)画家』
であったという事実である。」(同135P)

その後、エルグレコの絵は、「無原罪のお宿り」(↑のエルグレコの世界の表紙
になっている絵、ポスターの絵)のような画風に
たどり着くが、それまでの過程の絵が多数展示してある。

「盲人を癒すキリスト」や「聖衣剥奪」の小さいバージョンや、
「受胎告知」「聖マルティヌスと乞食」などが展示してある。

途中良かったのは、丸い大きな絵「受胎告知」などが3点並んだ
もの。すごく誇張された手などがリアルに見える。

「芸術の理念は、ルネサンスの基本原理である自然の客観的な模倣よりも、
続くマニエリスム時代の『内なるディゼーニョ(素描)』に重きをおく、
主観的な創造性に移行していたのであり、それこそが、
エルグレコの後半生、トレード(スペインの都市)時代の
基本的な制作態度となった。」

「彼にとっては、美は規範や公式からは生まれず、
絵画も建築と同様に、『視点の移動によって
多様性と装飾美は達成される』のであった」(同139P)

展示で最後に、巨大な3メートルを超える「無原罪のお宿り」
が出てくる。9、10等身のマリア様が中央に描かれる。

9、10等身の人間なんていないのだが、そのデフォルメされた身体の
図柄が躍動感に満ちて目に飛び込んでくる。

視点の置き方で、天使が動いて見えたり、
上からふりそそぐ光の構図がすばらしい。

ほとんどすべてで、キリスト教に関する絵ばかりだが、
それを超えて、芸術家エルグレコのすばらしい才能が爆発している
展覧会であった。

「無原罪のお宿り」はスペインのトレードという都市のサンタクルス美術館所蔵らしい。
トレドは、エルグレコが死ぬまで30年以上いた場所で、
世界遺産に登録されている。
ウィキペディアによれば、奈良市と姉妹都市らしい
トレドの写真や、地図が展示され、トレドに対して興味が湧いた。

集中して絵を見て、2時間ほどで見終わった。
エルグレコの絵を見たという充実感でいっぱいになる。

すばらしい展覧会であった。

展覧会を出て、1階のカフェでお茶をした。

スマホでニュースをチェックしたが、
アルジェリアの人質事件は情報不足で人質にされた方たちの
安否がよくわからない。


自分は、
自分のできることを、コツコツやっていくしかない。

冷たい風が吹く中、
夕暮れ前の東京都美術館をあとにした。



追記

「エルグレコ展」を選んだ理由は、
苦闘している人が見ることができる「光」を見たかったためでもある。

その「光」は、キリスト教を超えて普遍的な意味があるようにも思える。
今日本では、現在進行形の苦悩・逆境・終戦にも似た状況がかんがみられる。

苦悩する彼らにエルグレコの「光」はどう映るであろうか?

「聖イルデフォンソに法衣をもたらす我らが聖母の
物語において、その飾りとして、また人物たちを大きくするために、
私は彼らが天上的存在であることを利用したのです。
光の中では、遠くから見れば、たとえ小さくとも
我々には大きく見えるからです」とエルグレコは書く。(「エルグレコの世界」P139)

見ようとしなければ、「光」は見えないかもしれないが、、、、



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ポップスになってしまったジャズ

2013-01-13 13:13:33 | Weblog
ジャーニー・トゥ・ジャーニー
クリエーター情報なし
ユニバーサル ミュージック クラシック




先週末、新宿初台の東京オペラシティで、
山下洋輔プロデュース「狭間美帆のジャズ作曲家宣言」を見てきた。

今とは言わず、もう長い間巷で流れているジャズが、
陳腐化してしまって、ポップスとなってしまっているような
気がする。飲み屋やバー、レストランで流れるジャズと言われるもの
は聞きやすく、聞き触りのよい曲ばかりのようだ。

そして往年のジャズファンの中には、昔聞いたジャズがそのまま残っていることを
熱望し、それ以外を認めない方もいらっしゃるような気がする。

しかし、このコンサートで見られた音楽は、
そういうものとは一線を画していた。

確かにキャッチ―な旋律は垣間見られ、
ストリングスのアレンジも独特の甘い感じもある。
(この独特の甘い感じのストリングスのニュアンスは、
デビューアルバム「ジャーニー・トゥ・ジャーニー」にも
見られた。)一見して聞きやすい感じもある。
ただ、その構成や、リズムの変化や、ストリングスのいななきや、
メロディの説得力を見てみると、うならざるを得ない。

フリーライター前原政之さんのmm(ミリメートル)のブログエントリーで、デビューアルバム「ジャーニー・トゥ・ジャーニー」
についてこうある。

「とてもアカデミックで、緻密な計算のもとに作られたジャズ、という趣。
 いかにも、クラシック音楽の豊かな素養の上にジャズを学んだ人が
作曲しているという印象。すこぶる知的で上品。
それでいて色彩感豊かなジャズ。
とくに、ストリングスとホーンの使い方は、細部に至るまで絶妙にオシャレ。」

その時代時代の「おしゃれ」って、すごく飛びぬけた存在でなければならない。
そのとびぬけ方が、鮮烈ですばらしい。

このコンサートは、デビューアルバムとは違って、ドラムスやベースがないので、
表立ってリズムが前に出てこない。その点でジャズと異なるようだが、
随所にジャズ要素が詰まっており、すごく面白かった。

その分、東京フィルとピアノとの関係に、テンション(緊張感)があり、
聞きごたえがある。

パンフレットと、3日前に聞いた音の記憶で、このブログエントリーを書いているので、
ほぼ白紙にその日の聞いた音の模様を書いているため、はなはだ心もとないが、
自分の感性の記憶に従って、書いてみる。


第一部は、狭間美帆編曲のSelections from "CANVAS in QUIET"
狭間美穂のピアノと東京フィルハーモニーのストリングスで
聞かせた。

パンフレットにこうある。
「原曲は、山下氏が1996年に発表した同名のアルバムである。
このコンサートにお誘いいただいた直後から、この作品に取り組みたい
と思っていた。松井守男氏の絵画にインスピレーションを得た山下氏の作品と、
コルシカ民謡が交互に登場するこのソロピアノ・アルバムは、
ジャズの要素だけにとらわれない作品が多いこともあって、
過去のニューイヤーでも何度か登場した。
今回は松井守男×山下洋輔作品から7曲を抜粋し、オーケストラとピアノで
絵画の持つ色彩感とパワーの表現に挑戦する。」

画家の松井守男氏もコンサートにいらっしゃっていて、
山下洋輔氏は「私はレジオンドヌール勲章を取った画家の絵
をアルバムのジャケットにした初めてのピアニストだろう」
と言っていた。

コルシカ歌謡が出てくるので、日本の歌謡曲に似たコブシを感じさせる
メロディが随所に出てくる。「ニューシネマパラダイス」を生んだ土壌が
イタリアにあり、湿度を感じさせるものだ。コルシカ島は地中海に囲まれており
なおさら湿度を感じさせるのだろう。
「ジャーニー・トゥ・ジャーニー」もそうだが、
山下洋輔氏のリズムと異なり、若干歌謡曲的なリズムを感じさせる部分が
狭間氏の音楽にはある。実際山下洋輔氏の音楽も、日本的なリズムだが、
狭間氏の音楽は、もっと日本的な感じがする。
湿度を感じさせる。この対極にあるのがドライだが、この湿度が全体構成の中で、
狭間美帆らしさを生んでいるような気がする。

狭間氏は、真ん中である時はピアノを弾き、またある時は、
立ってオーケストラを指揮していた。

ただ、前半は、狭間氏も東京フィルも緊張していたせいか、
どこかこじんまりとまとまってしまった印象があり、
観客の反応もそれほどではなかった。
が、自分はなかなか良いと思っていた。
こういう感じも、生きた音楽という感じがして良い。

<15分の休憩>

第二部は
狭間美帆の書いた、Suite"Space in Senses"だ。
管楽器・打楽器も含めたフルオーケストレーションで、山下洋輔氏と狭間美帆氏の
2台のピアノが向き合う。

図形をイメージした曲の連なりで、聞きごたえ十分だ。

山下洋輔氏は、ピアノに専従し、狭間氏は、ピアノに向き合ったり、
オーケストラに向かって指揮をしたりしていた。

40分の長尺の第二部だが、徐々に音が熱を帯びてきた。
音が生き生きとしてきた。
ストリングスの跳ねる音、トランペットなどの管楽器の鮮烈な音、
打楽器の破裂音。東京フィルの音が、鮮やかに耳に飛び込んでくる。

山下洋輔氏のピアノも炸裂する。狭間美帆氏の指揮やピアノも
熱を帯びる。

すばらしい演奏で、フィナーレに向かう。



満場の拍手・歓声だ。
皆狭間美帆氏の才能を認めて、歓声・拍手を送る。

アンコールは、ジャズの「スウィングしなけりゃ意味がない」(多分メロディがそうだった、確かではない)
をオーケストラ総立ちで演奏する。派手なエンディングだ。

すばらしかった。狭間美帆氏の才能・気合、山下洋輔氏のピアノ
東京フィルの音すばらしかった。

終演後、狭間美帆氏のサイン会があったので、
CDを買って並んだ。

多くの人がサイン会に並んでいた。

間近で見る狭間さんは、とてもチャーミングで素敵な女性だった。

今年のニューイヤーコンサートも素晴らしかった。

ジャズもクラシックも生きている。そう実感するコンサートだった。




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山下洋輔ニューカルテットライブ

2013-01-08 20:45:33 | Weblog
<今週末は山下洋輔プロデュース ニューイヤージャズコンサートがある。以前の模様はここ
今回は、昨年山下洋輔ニューカルテットを見に行った時の模様を書く。>


昨日は、雨だったが、新宿ピットインに山下洋輔ニューカルテットを聞きに行った。

新宿まで車で行きホテルに泊まって、
新宿ピットインに行くことにした。

昼間の2時過ぎに、ホテルにチェックインして、
ホテルのカフェでエスプレッソを飲んで、一息ついた。

泊まったホテルは、初めて泊まったところだが、
一泊13000円の中堅ホテル。
部屋はこじんまりしたシンプルなシングルルーム。

夜8時からのライブまでまだ大分時間があるので、
持ってきた四冊の本を、部屋で同時平行的に読み出した。

競馬予想の本、金融入門の新書、
アメリカ人のリービ英雄が書いたノンフィクションの日本語の本、
それに阪神大震災を経験した日銀神戸支店長のノンフィクションを持ってきた。

中でも、素晴らかったのはリービ英雄のノンフィクション
オバマ大統領の苦悩を中心にアメリカ大陸のことや、
中国大陸について書いた「大陸へ」だが、
アメリカ人が書いた日本語の本と言うより、
日本語の本として、素晴らしい内容で驚いた。
ピリピリした緊張感を感じさせる文体で、素晴らしい。

ホテルの部屋にいるのに、ある時はワシントンDCに、
ある時は米国南部の町に、またある時は、
中国河南の都市にいるような感覚を感じさせてくれる本で、
すごい充足を覚えた。

三時間ほど部屋で本を読んで、
ホテルのレストランでイタリアンを食べた。
なかなか美味しいイタリアンで、
ペスカトーレリゾットや岩手の豚肉のソテーなどを食べた。
酒はグラッパと赤のグラスワインで、
これもなかなかの味わい。
一人で7300円だったが、たまにということで、若干奮発。
満足感満点で、ホテルからタクシーで、
新宿二丁目が目とはなの先の新宿ピットインに向かった。

着いたのは7時すぎで、まだ店の外では、
誰も並んでいなかった。
店の外で椅子に座って時間を潰していたら、
「あの顔で」という渋い声とともに山下洋輔氏が店から出てきた。
70を越えているというのに若々しい。
今日の演奏も期待できそうだ。

開演30分前には、人だかりができた。
予約の順番で店の中に入った。
なかなか早い順番で入れた。

いつもの右端のポジションで席を確保。
ビールを飲みながら開演を待った。
百人ぐらいで満杯の店はほぼ満席。

「パチパチッ」満場の拍手の中、四人が登場。
山下洋輔以外は若手で組まれた、
カルテットの姿を見るのは、もうかれこ20回くらいになるだろう。


この日のライブも素晴らしく、何度聞いても飽きさせない。

こういったライブを、文で表せたならと思うが、
なかなかこれを表す言葉が見つからない。

今の日本を取り巻く状況は複雑で(昨年半ばあたりのこと)
その状況の中で発せられる音は、
歌詞を使うJPOPとは、一線を画するが、
とても饒舌な感じがする。

ドラムの小笠原拓海、
ベースの柳原旭、
アルトサックスの米田裕也、
そしてピアノの山下洋輔。

テーマに乗っとって、
またテーマを越えて破綻しそうになりながら
1歩踏みとどまるバランス感覚に、
タイトロープを渡るようなギリギリの快感を感じる演奏だ。
※コメント欄で補足

狂おしい「クルディッシュ・ダンス」の後、
アンコールで一曲やって、
山下洋輔ニューカルテットのライブは終わった。

今回もやられた。なん十回も聞いている曲だから、
毎回退屈になるんじゃないかと思ってしまうのだが、
その感覚をいつもボコボコにやられてしまう。

また凄かった。いつも山下洋輔ニューカルテットには、
降参してしまう。

いつか、ライブ後のこの感覚をガッツリ文章で掴みたい。
今日ホテルで読んだリービ英雄の本のように
空気を感じさせる文章を書きたい。

充足感と若干の疲労を感じながら
雨の新宿ピットインを後にした。

追記
1年も経ってないのに、この文章は
昔の自分を思い起こさせる。
この1年で随分自分の周りも変わった。

「今」は音楽の、時代を超えた普遍性に賭けたい気分だ。
コメント (2)
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うつろいゆくもの

2013-01-06 13:33:03 | Weblog
ミッドナイトラン [DVD]
クリエーター情報なし
ジェネオン・ユニバーサル


ミッドナイトラン 1988年作品。

映画のあらすじは、
元警察官で、バウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)の
ジャック・ウォルシュ(ロバート・デニーロ)。
ある日彼は、保険会社から一人の男の捕獲を依頼される。
その男の名はジョナサン・マデューカス(チャールズ・グローディン)、
通称デューク。彼はL.A.を牛耳るイタリアン・マフィア、
ジミー・セラノ(デニス・ファリナ)の元会計士で、
セラノの財産の1500万ドルを奪って逃走中だった。
報奨金10万ドルを条件に、依頼を受けたジャックは、
デュークがN.Y.にいることを突き止め、
いとも簡単に逮捕に成功。意気揚々とL.A.行きの
飛行機に乗り込むが、なんとデュークは
大の飛行機恐怖症で大パニックに。
乗機拒否を受けてしまった二人は、
列車でL.A.に向かうことになるが…。

一部テレビで見たシーンがあり、初めて見たとは言い難いが、
この作品には、時代性が満載で、今の自分には、
うつろいゆくものが多く見られたような気がする。

まず設定からして、1980年代だ。
せちがらいこの世の中では、
ギャングの金を慈善団体に寄付して、
逃亡生活を送る会計士なんて、
フィクションであっても、なかなかすんなりと受け入れがたい。

世の中で見受けられるのはその反対で、
慈善団体の金を横領してギャングに上納するというのが、
リアリティがあるような気がする。

寄付をつのった金を横領するというのは、
少なからず見かけることだからである。

今は、なんとなく底が抜けてしまった感じがある。
みんなギャングの恐ろしさひどさを知ってしまったために、
こういう物語をすんなり受け入れられなくなくなるかもしれない。
ただネット上では、この映画の評判はすごぶるいい。

また、途中のジョークにしても、
今はまったく笑えないようなものが、
列車の中でジャックとデュークがたき火を囲んで
談笑する場面で見かけた。

その当時の状況では鉄板でも、
今はまったく笑えない状況なのだ。


FBIの捜査官モーズリのずっこけも、
今では笑えない。捜査官モーズリは、
アフロアメリカンであるが、道化師のような役割を
最後まで貫くのだが、今は笑えない。
オバマ氏が大統領として二期目を迎える
今では笑えない。

オバマ大統領がミシェル夫人と初めてデートで見た映画が、
スパイクリー監督の「ドゥーザライトシング」(1989)で、
この映画の1年後だ。

ちょうどこの映画は、オバマ大統領が、
「ハーバードローレビュー」の編集長をやっていたころだ。
その時、この映画のことをオバマ大統領は
どのように聞き感じていたか。

また主人公他多数チェーンスモーカーばかりなのも、、
それも時代性だろう。デュークのみ非喫煙者の立場を代弁し、
その当時はそれが笑いの空気を生んでいたのであろう。

うつろいゆくものが、見て取れて、
なんとなく笑えない映画であった。


ただ、この監督の「セント・オブ・ウーマン夢の香り」
すごく好きな映画だし、「ビバリーヒルズ・コップ」も好きだ。

「ミッドナイトラン」で笑えなくなった自分もやはりうつろいゆくもの
なんだなと痛感した。

何か、終戦のような大きな大転換の中で映画を見ているようで、
自分自身もそのうつろいゆくものの中で、
生き抜いてきているのを実感した映画だった。
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