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菅原寺 (行基 2) 

2010-07-08 19:04:00 | 大和し、うるわし
   天平21年(AC749)僧 行基は82歳という高齢で、当時の平城京三条通り西にあった菅原寺で、その輝かしい生涯を閉た。千数百年を経た平成の当寺は車の行き交う阪奈道路の直ぐ北にあり、奈良の人々には(喜光寺)といったほうが「通り」がよいかもしれない。その本堂が東大寺の大仏殿によく似ていると言う。
 
(菅原寺)   

   彼の生まれは今の堺市の南東部にある旧蜂田郡の家原寺で(堺市土師町にある)その付近に住いする土師氏(御陵などをつくる渡来系氏族)が両親の出自であった。(天神さんの菅原道真公もこの氏族の流れである)15才になって奈良の大官大寺(官立の大寺院)で唯識論などの仏教教学を学びその俊秀を讃えられた。 出家受戒後は飛鳥、金剛、葛城などの各地を廻って修行、ついには生駒山麓に草庵を結んで母親に孝養を尽くしたといわれている。(行基年譜)当時の奈良は平城京造営の最中で、諸国からの租税や貢物を持ってくる者や工事に携わる労務者などで活気に満ちていた。 が反面その過酷な徴税と厳しい労役に耐えかねて逃亡、帰国、行き倒れする者が跡を絶たず、加えて天災、飢饉が各地に頻発した。 (聖武帝による東大寺建立
発願の大きな理由のひとつである)

   このような民衆の苦しみを目の当たりにして、行基はついに下山、仏の教えを易しく説くとともに布施屋(簡易宿舎)を建てるなど大いに社会福祉活動をして廻った。 彼の行くところにはいつも
多くの信者が集まりある時などはその数が一万人に達したという。
時の政府はこのような行基の活動は僧尼令に反し、社会を乱すものだとして、しばしば彼を拘束し罰したと記録されている。(続日本記)