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古代のみやこ

2009-10-19 23:24:17 | 大和し、うるわし
   平城宮跡の「南大門」を見る時、われわれは朱塗りの壁と漆黒の瓦を乗せて立ち並ぶ壮麗な都城を自ずと想像するが、その建設の詔を発したのが43代の元明天皇だったことは前に述べた。

   では初代の神武天皇から43代天皇までは約700年あるが(昭和15年
=1940年=紀元2600年説は採らない)その間の「みやこ」=皇居は何処にあり、どんな様子だったのだろうか?

   神武の次の(欠史8代=三輪王朝)と河内王朝時代を除いて「みやこ」は
大体奈良南部の(飛鳥)地区中心に分布していた。21代雄略の泊瀬宮、33代推古の小墾田宮、40代持統の浄御原宮、等のように天皇の代替わり毎に「みやこ」はかわっていた。

   それは「死去」という(けがれ)を忌むという天皇家の宗旨である「神道思想」に由来するといわれている。いまひとつはこれらの宮殿の屋根はほとんど(藁葺き)か(茅葺)であった為燃えやすく、また長持ちもしなかった為でもあったろう。現に元明天皇の祖母である36代斎明天皇は盛んに土木工事を興したので人民から「土木気違い」だと呪訴されたほどだったが、住む皇居は(板葺宮)でしかなかった。


平城遷都

2009-10-08 10:41:11 | 大和し、うるわし
   後二ケ月もすれば平城遷都 1300年になるので、この稿も
しばらくはこれに因んだ話題を採り上げたいと思う。先ず「遷都」という言葉だが、確か平安京1200年祭(1994年)のときは"建都”といったように思ったので、「遷都1300年協会」に問い合わせたところ、推古天皇に次ぐ女帝である元明(げんめい)天皇がAC710年3月に(藤原京より奈良へ)との"遷都の詔”を出されたことに由来するという。

   ともあれ本邦最初の律令国家体制の下、唐の長安を模した平城京はその後七代の天皇、七十年の長きに亘って大いに栄えた。
      
      奈良七重 七堂伽藍 八重桜