毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

鴻池朋子「皮と針と糸と」

2017年02月12日 22時34分42秒 | 出会ったものたち


 去年横浜で開催された鴻池朋子「根源的暴力」。非常に大きなインパクトを与えてもらいました。そして今回、新潟県立万代島美術館で開かれている「皮と針と糸と」に滑り込みで入場できました。相変わらず私たちの根源的な部分に掴みかかるような作品たち。
 デカルトの命題にもはや立脚できない私たちは私たちの主体を担保するものを模索する。たとえば皮膚によって内と外を隔てられたかに見える肉体にその役割を担わせようとする試みはどこまで有用だろうか。私の身体は果たして私という存在の基盤になりうるのだろうか。むしろ、肉体は「私」が最初に出会う自然的存在であり、最初に出会う他者であると言ってもいいのではないか。一時期ぼくは必要以上に山を縦走したり、自転車で山を登ったりしていたことがあった。そんな時にぼくの身体がぼくのまったく予想しない振る舞いを見せるその様が面白くてならなかったからだ。自分の身体だと思っていたものが、実は自分のまったく思うとおりにならない肉体だということが不思議でそして興味深く面白かった。
 あるいはまた、この身体の中には本当にぼくだけが存在しているのだろうか。身体の中に身体化された他者や歴史、自分のものではない記憶や他者の欲望が内包されているのではないだろうか。
 であるならば、屹立した自己同一性など実は存在せず、曖昧な主体と曖昧な肉体が存在しているだけなのではないか。そして、実はその曖昧さこそ、人間の多種多様な文化を生み出す多種多様な想像力の源泉なのではないだろうか。曖昧な「私」は常に他者の存在によって変わり続ける。小さな死を経て、新しい自分が誕生する。他者の肉体との接触によって私たちは小さな死を経験する。もちろん、その他者が人間であるとは限らない。民話的世界において動物と人間は常に入れ替わることの可能な対称的な存在であった。その世界において私たちはある時には動物を食べ、ある時には人間に変身した動物と交わった。他者の肉体を食べること、交わることによって、曖昧な主体である私たちは小さな死を経験する。
 さまざまな存在が入り混じり、そして変容していく様は圧巻の一言。
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アピチャッポン・ウィーラセタクン「亡霊たち」 東京都写真美術館

2017年01月12日 23時21分10秒 | 出会ったものたち
 去年、瑞牆山に登った帰り、バスの中でランダムにiPhoneが選曲したのが三宅純の「veins」という曲で、点在する街の光が車窓を後方に滑りながら明滅している中、その音楽はなんだか幻想的である一方、ある種の感興を催させた。バスは繋がった夜の中をどこまでも音楽と光を携えて走っていく。静かな夜の暗さに包まれて、このままバスがずっと走り続けていたらどれだけ素敵だろう。
 東京の夜とは違う、点在する光。その時ぼくは都会の夜ではなく、光がほとんどない、ないしはまばらな光が点在しているだけの寂しい夜がまとっている生々しい匂いに強くひかれる自分を発見した。都会とは違う。それでいて完全な闇とも違う。ぼくの乗るバスはそのちょうど真ん中くらいの光と闇の中を進んでいく。それはぼくをすごく興奮させたし、多幸感さえもたらした。
 アピチャッポン・ウィーラセタクンの描く夜を見ていて、ぼくはそんな瑞牆山の帰りを思い出した。知らない街に灯るまばらな光。そこには人工と自然の境界があった。未知の街と未知の人々と未知の地理があった。そこにはだからぼくの知らない異界と境界があった。「ナブア森のティーン」はまるで東松照明の写真のようにぼくの心を打った。異界からのぞくその存在は折口信夫の言うマレビトであり、まさに境界上に存在していた。
 その境界の不気味であると同時に魅惑的な佇まいはぼくたちの根源的な感情と結びついているような気がする。
 かつて映画「ブンミおじさんの森」でぼくたちを熱狂させたアピチャッポン・ウィーラセタクンの作品とまた出会えて、言葉にする以前にその世界に浸ってる。
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2017年の鍋焼きうどん

2017年01月09日 17時16分48秒 | 観光
 大倉尾根はおおむね営業しているものの、鍋割山荘は休業。計画の大要そのものの危機です。鍋割山荘がないならよそで鍋焼きうどんを食べればいいじゃないの。心の中のスモール・マリ・アントワネットがささやきます。そうだ、鍋割山荘の有無にかかわらず、とにかくおれは明日、丹沢で鍋焼きうどんを食べる。それが2017年への挨拶だ。頭が煮えていたのか、よくわからない理屈で勝手に高揚して再び床につきました。
 翌朝早く新宿から小田急線に乗り渋沢へ。
 初日の出は渋沢駅のコンコースで眺めました。


 鍋割山荘をはなから諦めたぶんだけよけいな欲が発生してきました。鍋割山、塔ノ岳は登ったことのある山だけれど、塔ノ岳の奥の丹沢山はまだ未踏。標準コースタイムで積算すると大倉バス停8時出発で丹沢山までピストンで行って帰って戻りは午後6時。この時期の午後6時は完全夜。あまり山の中を歩きたい時間ではありません。それで今まで未踏だったのですが、こないだ谷川岳登って、雪山でも標準タイムよりだいぶ早く登れる自信がつきました。こういう時期が一番危なかったりするんだけれども。
 とりあえず塔ノ岳登ってみて、そのタイムが早いようなら未踏の丹沢山を目指してみようかな、と。
 この日はいい天気。北を見れば富士山(裾野までばっちり)から北アルプスまで見渡せ、南を見れば江ノ島や大島まで直下に眺めることができました。



 バカ尾根を延々登り、そろそろいい加減飽きたところで塔ノ岳到着。標準コースタイムより1時間半ほど縮めての到着です。


 これに気をよくし、丹沢山を目指すことにします。でも、今回の大きな目的の一つ、鍋焼きうどんを食べねばなりません。それを忘れては、なんのために山に登ったのか、そもそもの意義すら問われかねません。コンビニで買ってきた冷凍の鍋焼きうどんをバーナーにかけて加熱、あっという間に冷めていくうどんと本気の競争を繰り広げつつ食します。


 塔ノ岳からはアイゼンをつけて歩行するのですが、これがまあ超快晴で、雪は溶けるし、道はぬかるし、木道はむき出しになるし、とてつもなく歩きにくい。サクサクと雪の上をアイゼンで進んでいくあの気持ちのいい感触はほとんど味わうことができません。
 こういう木道をアイゼンつけて下るのはなかなか面倒くさい。


 そして初めての丹沢山。


 もと来た道を引き返し、大倉バス停には結局標準タイムを2時間半近く縮めてのfinish。1月1日の登りぞめには上出来の満足で下山。バス停で飲んだ缶ビールが全身を巡ったときの快感については言うまでもないことでしょう。
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ようこそ、2017年!

2017年01月02日 22時08分39秒 | 観光
 ある目的がかなえられないことがわかったときに、それをすっぱり諦められる人間がいる一方、同じ方向で次善の満足を得ようとあがく人間がいる。などというような二項対立的な物言いはなんだか偉そうだから、それほど大したこと言っていなくてもなんだか正しいっぽいから便利かもしれない。
 それはそうと、その2つの選択肢で人を分類するならば、ぼくは断然後者にあたる。
 年も押し詰まった12月31日。のんべんだらりと2016年のくたびれた後ろ髪を眺めながら、仮想こたつの中で仮想猫などを愛でつつ酒を飲んでいると、2017年の目標だの問うべき姿勢だのはずっと後ろに退き、浮かんでくるのは明日なに食べようかなどという浅はかなよしなしごとばかり。
 寒さをバックに食べ物を考えるとだいたい鍋に行き当たるのだけれど、谷川岳で後悔した記憶もまだあたりに濃厚に漂い、そんな状況下ぼくの脳が次善の満足として叩き出したのが鍋焼きうどんだった。浅はかにして中途半端、それが俺流。今年の総括とか来年の展望とかそんなものは狼に食われてしまえばいい、とにかくおれは明日、劇的な形で鍋焼きうどんが食べたいのだ。ぱっぱとi386並の優れたぼくの頭脳はその手段を叩き出し、出た答えが早朝小田急線で新松田まで行き、そこから鍋割山に登って鍋割山荘で名物の鍋焼きうどんを食べる。「ごちそうさまでした」とどんぶりを返すや、天狗のように尾根を飛び歩き、塔ノ岳で不敵に微笑み、大倉尾根を経て小田急渋沢へ帰るという鉄壁な登山ルートだった。鍋焼きうどんを食べたいという欲望と登りぞめの2つを備えたハイブリッドプラン、さすがi386、32bit演算だってちゃっちゃっとこなします。
 おやすみなさい、2016年、きみはなかなか素敵な年だった、いつかまた出会いたいくらいだ。一陽来復を恵方に貼り付け、床につきます。おとなしく眠るぼくのまわりをいつしか2017年がやさしく包んでささやきます。「起きなさい、あきらよ、起きなさい、いいですか?」なんだか声が聞こえたような気がしますが、面倒くさいのでそのまま眠っています。「だから起きなさい、起きろって言ってんだよ」眠い目をこするぼくに2017年はこう忠告します。「年末年始は店やってかどうかちゃんと確認しなきゃだめだろ?」

 次回、鍋割山荘は年末年始がお休みだったの巻、どうぞよろしく。え? そもそもの鍋焼きうどんは?
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天皇杯準々決勝 横浜Fマリノスvsガンバ大阪

2016年12月26日 16時13分06秒 | 
 リーグ戦はあまりいいところがなかったわが横浜Fマリノスでありますが、天皇杯は順調に勝ち上がり、12月24日準々決勝戦が日産スタジアムで行われました。


 菊名からスタジアムまでの道、くっきりと姿を現した富士山がなんとなく勝利を予感させます。


 今シーズンで退団が決まっている小林祐三とひと試合でも多く時間を過ごすためには勝つしかありません。年を越して元日の決勝戦まで一緒に戦っていきたいものです。

ガンバ側
マリノス側
 ガンバ側ゴール裏にはヤンキー臭がたちこめ、わがゴール裏はどこの国だよと思う人もいるかもしれないカラフルなトロコロールが翻っておりました。


 試合は2対1で勝利、勝利の傘回しが起こります。次は29日準決勝、鹿島アントラーズとの対戦です(残念ながら大阪へは行けません)。
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谷川岳三昧

2016年12月21日 12時51分48秒 | 観光
 一人旅が好きです。いえ、決して一緒に行ってくれるような友だちがいないとかそういうことではなく、いや、ただ単に一人旅が好きなんです、だから、ほんとですって、違います、え? やだなあ、違いますよ、ええ、泣いてなんかいませんよ。
 そんなわけで冬の一泊旅行は一人で雪三昧。先週土合に行って、あ、ここ泊まれるじゃんと見つけた天神ロッジに一泊して、初日はのんびり(前日が忘年会だったので)、ワカンをはいて一ノ倉沢を見に行き、2日目に谷川岳に登るという、たぶんもう雪が嫌いになっちゃうんじゃないかというくらい雪まみれの2日間。いいえ、ごめんなさい、雪は嫌いになりません。

 
 2週続けて土合駅。なんだか奥深い色彩が舞台美術を感じさせる様相です。

 
 天神平ロープウェイ駅に着いたのがもう昼過ぎ。ラーメン食べたり、ビール飲んだり、初日はのんびりスタート。ワカンを履いて一ノ倉沢目指します。この日は吹雪。風と雪が容赦なく叩きつけてきます。

 
 吹雪にけむる一ノ倉沢。幻想的でまさに魔の山という印象です。魔の山の最大の特徴は魅惑的ということでしょう。ただ怖いだけならば人は近づきません。危険と同等以上の魅惑に人は惹きつけられるのです。
  一ノ倉沢に着くまで聞こえる音といえば風の音と自分の踏みしめる足音だけ。自然の音と自分の音。ほかの音が消え、そこには自然と人間の際のような境界が立ち現れます。熊すら現れない死の森の中にただ一人いることの感覚は都会にいては味わうことのできないものです。
 ふとかつて似たような感覚を覚えたことを思い出しました。あれは10年以上前、伊勢へ旅した際に訪れた月出露頭でのことでした。まあ、10年たってもおんなじようなことしているんだと我ながら持続する志。

 
 翌朝は快晴。宿のスタッフが初めてここに来た年は、12月から2月まで1日も晴れ間を見たことがなかったというほど、冬の快晴は珍しい。なんてラッキー。谷川岳に登る者、ロープウェイ駅付近で雪崩遭難時のビーコン操作を練習する者、滑落した際の姿勢や動きを練習する者、スキーヤー、ボーダー、いろんな人々が天神平に集います。そんな中粛々と天神尾根を進みます。ところが右足にすでに靴ずれが。ほんの小さな傷ですが、これが曲者の痛さ。一足ごとに顔をしかめながら登っていきます。

 
 肩の小屋付近のケルン道標。時折吹き付ける風に痛めつけられながらもここまで来れば頂上はもうすぐ。

 
 強い風が積雪に風紋を形作ります。これはこれで美しい景色なのですが、この風を受ける人間には厳しいものがあります。

 
 そしていよいよ頂上。足の痛みは続いていたのですが、気持ちが違います。一応ラーメンを作れるよう道具は揃えてきたのですが、寒くてお湯を沸かす気にすらならず下山します。止まって調理などは厳しいのでやはりおにぎりなどの行動食がほしいところでした。反省。

 
 途中まで降りて振り返ると今登った谷川岳が見えました。ああ、あそこのてっぺんに立ったんだなと思うと感慨無量でした。しかもこんな晴天に恵まれて、なんという幸せ! そんな雪まみれの2日間でしたが、帰りの電車で雪山の新しい道具を検索したりして、雪に飽きるどころかますますはまっていく始末。次はもうたぶん今年の登り納め。さて、どこに登ろうか、わくわくしながら計画中です。
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フランス2

2016年12月17日 20時32分39秒 | らくがき


 先日、フランス2夜8時のニュースを見ていて感心したことが2つ。一つはギリシアの年金問題で、緊縮財政中のギリシアが低所得者に一時給付金を出すという報道。これに対して「ギリシアはサンタクロースの役割をするのでしょうが、他のEU諸国は鞭打ち爺さんの役割を果たすことになるでしょう」と。気前のいいギリシアとそれを懲らしめるEU諸国ということを言い表しているんだけれど、これは、戦後サンタクロースがクリスマスに台頭する以前は冬至という光が最も弱まる時期には異界から異神が立ち現れて秩序を混乱させ、そして冬至から光が徐々に強まるにつれ消えていくというヨーロッパの古い伝承に基づいていて、その中の鞭打ち爺さんは、子どもたちにプレゼントをあげるなどもってのほか、子どもたちを貪り食らうサトゥルヌス神が原型(ゴヤにすばらしい作品がありましたね)という恐ろしい異神。しかしその中にアンビバレントな存在として子どもを守る部分がセットとしてあって、それが…… という話は興味のある方はレヴィ=ストロース「火あぶりにされたサンタクロース」を是非。そうした古い伝承が比喩として現在でも通用することに感心したのでありました。
 もう一つはラスコー4完成のニュース。ラスコー洞窟の完全な複製洞窟がいよいよ完成と(いま日本に来ているのは巡回型のラスコー3)。これが日本のニュース番組だったらヘルメット被った女子アナがラスコー4の中で、解説役の中高年の男性から説明を受けて、感心してびっくりするという地獄絵図が展開されそうなのに、ナレーションで淡々と、しかし、なかなか深い内容の解説をしていて大変感心したものでありました。
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寒いところでごちそうお鍋

2016年12月12日 12時55分16秒 | 食べ物
 12月ももう2週目。冬が深まって参りました。冬といえばお鍋の季節。仲間や家族、あるいは一人でも熱々のお鍋がおいしい季節です。
 でも、なぜ冬に鍋なんだろう。たぶん、外の寒さに対比して鍋のあったかさがよりおいしさを加えてくれるからかもしれません。であるならば、寒ければ寒いほど鍋はおいしいのではないか。
 そんな素朴で小さな疑問からこの旅は始まったのでありました。そう、「寒いところで鍋を食べたらおいしいんじゃないか」という仮説を実証するための大人の社会実験。雪の中で鍋を食べに行こう。
 早起きして、上野東京ラインで高崎に向かいます。快晴の高崎、雪一つありません。もしかしたらこの実験は失敗なのではないか、多少の危惧を胸に水上行きの上越線に乗り換えます。しばらく走っても雪はありません。後閑を過ぎたあたりから景色は一変、一面の雪景色が広がっています。よしよし、こうこなくちゃ。水上で長岡行きの電車に乗り換えて土合に向かいます。

 土合駅の下り線ホーム。486段の階段を上り、地上に出るまで10分くらいかかるといわれる通称「日本一のモグラ駅」。登山は駅から始まっていると言っても過言ではありません。



 確かに多少の雪は期待していたものの、明らかにオーバーワーク。行くも地獄、引くも地獄の鍋行脚が続きます。「これがホントの氷結」、ただこれをやりたいがために三脚に缶チューハイを持参したものの、思ったほど面白くなくてがっかり。それにしても状況的には鍋をやりに行くというより遭難していると言った方が的確もしれない、外は吹雪。気温は零下。しんしんと降り積もる雪が足あとを消していきます。行方不明なんて言葉も浮かびます。今1番近い状況は映画「八甲田山死の彷徨」で高倉健ではなく北大路欣也の方が率いる部隊、あれに近いかもしれません。雪が吹き込んでくるので目をあけているのも辛い…… 鍋担いで、おれ、なにやってんだろう。人生の根本的な疑問すら浮かんできました。思えば小学校5年をピークにおれの人生は負け続けだったかもしれない。かつて切った没落の約束手形の回収に残りの人生すべてを費やしているんじゃないか、降り積もる雪の中で静かに絶望が心を染めていきます。



 それでも鍋をやるんだよ。鍋をやるためにここに来たんだ。あたりを踏み固め、整地します。リュックから鍋やバーナーを取り出そうとする気持ちと、決してこの手袋を脱ぐものか、脱いだら凍えてしまうという切実な現実が火花を散らします。泣く思いで手袋をはずし、かじかみ震える手で用具を取り出します。冷たくて触るのもためらわれるほど凍てついた鍋が容赦なく手のひらから人間の暖かみを奪い去っていきます。ようやくすべての用具や鍋の具材を取り出したところでぼくの気力は底を尽きます。「天はわれを見放した……」心が振り絞る静かな慟哭の声を聞きながら撤収を決意します。



 駅へ向かう後ろ姿もどこか悲しげです。



 土合から水上へ、そして水上から朝と逆に上り電車で高崎方面へ向かいます。敗北感と挫折感がやすりがけした心はざらつき、悲しみが群馬全体を覆い尽くすようでした。そんな時、闇を払う光の一閃が脳内を貫きます。そうだ、新前橋なら利根川に近いから利根川の河原で鍋をやればいいんじゃないか。雪こそ降ってはいませんが、そこは前橋、寒さは東京の比ではありません。寒い中鶏鍋を作ります。上州名物からっ風が北から吹きすさぶ中、はふはふ言いながら熱いお鍋を食べます。鶏肉が、鶏団子が泣きたくなるくらいおいしい。寒い中で食べるお鍋、おいしいと同時に、生命をつなぐ糧という感じ。


 今回の教訓は、何事もやり過ぎはよくない、中庸こそが人生を楽しむのに一番の近道だということで、凍えたり、泣きそうになったりした割には、得たものが案外普通のことで、まあでも、そういう普通のことこそがかけがえのないものなんだよ、と薄っぺらな曲の歌詞みたいな着地点に行き着いてしまって、まだまだ修行が足りないな、と自分への反省ひとしきりの週末でありました。
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子の権現~竹寺

2016年12月05日 14時49分35秒 | 観光
先日山で転んで大腿部を強打(これについてはまた後日)、痛さのあまり歩き方がしばらくおかしいままでした。そうだ、足が良くなるように足にご利益があるといわれる子の権現(「ねのごんげん」と読みます)に参ろう、そしてついでと言っちゃなんだけれども、インフルエンザも流行りつつあるので、疫病予防の神様牛頭天王を祀る竹寺まで足を伸ばそう、そんな神仏頼りの巡礼行脚。冬もすぐそこ。西武池袋線西吾野駅からえっちらおっちら子の権現を目指します。
 

 その前の週、2週続けて2000m以上の山に登っていたので、今日は軽い寺巡り、そんな週末もよいではないか、と思って臨んだら、あにはからんや、いつもと同じような山道。まあ、軽いお散歩で済む話じゃないってことは薄々わかっておりましたの、わたくし。それでもなんだか楽しい道。古い信仰の道がもってる雰囲気がたまらなくいいんんです。


 子の権現到着。仁王様がにらみをきかせる中入っていきlます。
「早く足が治りますように、これからも山に登れますように」切実な思いでお参りします。


 足にご利益があるお寺ならでは、鉄のわらじが奉納されていたりします。


 絵馬すらわらじ。もはや絵でも馬でもありません。


 子の権現を出て見晴らしの良いところで食事の準備。ちょうどその日トレランの大会が開かれていて、通るランナー、通るランナーにいじられます。食事をしながら100人ほどの人間にいじられるという人生において貴重な体験をしたランチでした。ところでランチにも関わらず、じゃがりこが置いてあるのに疑問をいだいた方もおられるかもしれません。実はじゃがりこにお湯を注いでマッシュポテト状にしたものを入れるとたいへんコクのあるおいしいシチュウができあがるんです。


 これがそのシチュウ。ワインとシチュウ、それにこの日はチキンのトマト煮、餃子の皮を使ったピザで優雅な山ランチ。


 竹寺到着。以前竹寺に関してこのブログに書いたことがありました。「竹寺 東西の来訪神」 いや、あれからもう6年経ってるんですね。やれやれ年をとりました。やってることはあまり変わらないのに………
 帰りは名栗まで歩いて温泉に浸かって一日の疲れを癒やします。古径を経ての神仏散歩。たまにはこんなのんびりした休日もいいもんです。

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あいちトリエンナーレ 2016

2016年11月29日 23時24分30秒 | 観光
 後発のひかりの方がちょっと先着することを知っていながらも、新横浜のホームにこだまが滑り込んでくると我慢できずに乗ってしまいます。当直明け、崎陽軒のシウマイとビールを片手に豊橋へ、わくわくドキドキ一泊二日のあいちトリエンナーレ旅へ出発です。
 3年に1度愛知県で開かれる芸術祭、あいちトリエンナーレ、2016年は岡崎、名古屋に加えて豊橋もその会場となり、より大規模に多彩に開催されました。どの会場に何が展示されているか、ちゃんと予習して出かけたりせず、今回はほぼノープラン。1日目豊橋と岡崎、2日目名古屋とおおまかな枠組みだけ決めて、事故的に作品と出会いたい、あらかじめそこに何があると知って出会うのではなく、意識することなく事故みたいな感じで作品と出会いたい、そして突然非日常の世界に叩き込まれるような感覚を味わいたいと思ったのでした。
 結果、その思惑が大当たりし、大変実り多い旅行となりました。
 今回はその中でも大変感銘を受けた大巻伸嗣さんの作品を3つご紹介しましょう。


大巻伸嗣《重力と恩寵》
 
 豊橋最初の会場で、雨予報だったのにも関わらず、晴れ上がった空に作品が映えます。中のLEDがまばゆい光を放つ、まさに光の芸術。 


大巻伸嗣 《Liminal Air》
会場に入るとしばらく何も見えません。目が次第に慣れてくるにつれ、何か動いている気配を感じます。感覚が次第に鋭敏になってきます。普段の自分の知覚とは別種の知覚が芽生えてくる気がします。すると、自分の座っている前方で幽かな光をまとった布がはためいているのが見えるようになってきます。自分が何かすごく古いものに触れている感じ、自分自身の中にあるものすごく古い部分が目覚める感じ。DIC川村記念美術館のロスコルームでマーク・ロスコのシーグラム壁画に囲繞された時の感覚に近いものを感じます。


大巻伸嗣 《Echoes Infinityー永遠と一瞬》
 そして愛知県美術館での大巻伸嗣。450㎡の面積を要する色彩溢れる大作です。しかもその作品の上は自由に歩き回れます。観覧者が歩行によって作品に歴史を刻み込みます。
 今回まったく傾向の違う大巻伸嗣の3作品を見ました。しかし一見まったく違うようではあるけれども、どれも普段意識していない感覚をそこに立つ者に呼び覚まし、非日常的なインパクトによって日常を刷新するような作品でした。3年後、たぶんまた愛知に行くでしょうが、そこでまたどんな作品と出会えるのか楽しみです。
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ラスコー展

2016年11月24日 21時04分15秒 | 観光


 当直明け、外は雪。一日を満喫するには最高の滑り出し。そそくさと上野へ向かい、上野駅中央地下通路。台東区長奨励賞を受賞した佐宗乃梨子さんの「IZANAMI」を見る。以前藝大の卒展・修了展で彼女のゾンビ造形を見て強く心揺さぶられたことがあって、今回は「IZANAMI」。イザナミもまたゾンビだし、彼女の言う通り「生と死の外側」に。左頬を伝うウジのような造形がすごい。
 それから国立科学博物館でラスコー展。
  
  
  


 もう、最高。いよいよ来月フランスにオープン予定のラスコー4に行きたくて行きたくて。かつてならバタイユを想起したところだけれど、今回は港千尋さんのこんな文章を思いながら見ていた。「イメージには人を沈黙させる力がある。すべてのイメージがそうなのではない。むしろ現代は沈黙させないためのイメージのほうが圧倒的に多い。現代人が一日中見せられているイメージはすべて意味と理解を要求するものばかりだ。その世界にどっぷりと浸かっている人間にとって、洞窟芸術の世界は理解を超える。どれほど知ろうとしても、知りえない、語りえないイメージ。わたしたちが知る何かに対応するものをもたない、意味以前の世界。それがこの世界のどこかに存在する。その奇跡を受け入れなければ、沈黙を護ることはできない。
 闇の奥のそのまた奥で、かすかな灯りに照らされてその人は壁に手を置き、細かく砕いた土の粉を、勢いよく吹きつけた。闇に向かって息を吹きかけるように、誰かに向かって囁くように。
 そして炎は遠ざかる。闇に残るのは滴る水の音ばかり。永い時の彼方に、それをふたたび誰かが見る時が来るかもしれない。いや来ないかもしれない。「永遠と関係をもつこと」は、このイメージとともにはじまったのだろうか」(港千尋「闇への憧れ」)
 実は先日あいちトリエンナーレへ行ってきて、これはそのコンセプトブックにあった文章。なんだかいろんなことがつながりをもっていて、毎日が結構ワクワクどきどき。
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平安の秘仏 上野東京国立博物館

2016年11月24日 01時23分53秒 | 観光
 常々、浄土真宗と一神教はどこか通底する部分があるように思ってきた。ほかの何ものにも目もくれない阿弥陀如来への帰依(南無阿弥陀仏)、そしてときに一向一揆にまで発展するその折れない信仰心。たとえば、長島一向一揆に島原の乱の先取りされた幻影を見ることはできないだろうか。
 その浄土真宗が染み付いた土地に生れ、信仰心と商業を高いところで見事なバランスをとって成功したのが、近江商人と呼ばれる人たちだった。信仰心にもとづき、「自利利他円満」「勤労公正」を旨に活動した結果、彼らは経済的に成功を収め、それを寺や仏像の寄進という形で還元した(ぼくはそこにマックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を重ね合わせたい欲望に駆られる)。
 そんな彼らが信仰した櫟野寺の改修にあわせた今回の東京国立博物館での展示。丈六の十一面観世音菩薩座像をはじめ、さまざまな仏像たちが立ち並ぶ偉容は見もので、2ヶ月足らずで入場者数が10万人を突破する企画となったことも納得いくし、十一面観世音の一つ一つの顔の説明など見る者にも大変親切な見せ方も素晴らしい。こういう親切な解説に対して「いまさら?」などと言う人間に災いあれ。丈六の観音像がメインであることはもちろんだけれども、右に侍った毘沙門天もまた素敵だった。
 東京国立博物館で12月11日まで
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文豪旅

2016年09月12日 14時36分05秒 | 観光
 ごぶさたしております。
 そこそこ忙しかったせいもありますが、ここまでごぶさたしたのには訳がございます。
 なんと、パスワードを忘れたうえに、連絡用のメールアドレスも忘れて自分のブログに入れなかったんです………
 
 さて、気を取り直して。
 夏もいよいよおしまいという9月12日、本日より夏休みを取りました。今回の夏休み、何をしようか、といろいろ思い悩んだ挙句、そうだ! 何をしようじゃない、何もしない、だ。逆転の発想。
 何もしない夏休み。よく文豪が何をするでもなく、温泉旅館に逗留するじゃないですか。あれ。あれをやってみようか、と。
 ひとり温泉宿で何もしない。何もしないひとり文豪旅。
 行くは西伊豆堂ヶ島温泉。
 さてさて、どんな旅になることやら。
 また、どうぞよろしくお願いします。
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第19回文化庁メディア芸術祭

2016年02月11日 16時48分16秒 | 観光

 みんな大好き、国立新美術館。今日は第19回文化庁メディア芸術祭受賞作品展を見にやって参りました。ご無沙汰しております。普段ぼうっと生きている生活に毎年新たな刺激を与えてくれるこうした機会はほんとうにありがたい。ほんのすこうしだけ、脳みそのシワが増えそうな気がします。気だけだけど。
 ART部門、ENTERTAINMENT部門、MANGA部門、ANIMATION部門、4部門それぞれの大賞や優秀作品を見ていくにつれ、日常では使わない思考や考えに耽り始める自分に気づきます。そしてそうした自分の思考が今度は自分を変えていく。非日常的な思考が日常的な自分をこねくり回す感覚です。


 会場の雰囲気はこんな感じ。
 静寂が包み込む展覧会とは違って、あちこちから音や音楽がもれ、観客のワクワク感が伝染してきます。



 アート作品で心打たれたのは、長谷川愛さん出品「(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合」。
詳しい経緯や手法は長谷川愛さんのオフィシャルページ(http://aihasegawa.info/?works=impossible-baby-case-01-asako-moriga)を見ていただければ幸いです。一言で言えば同性カップルの出会えるはずのない子どもを遺伝情報をもとに想像し、家族写真を構成するというプロジェクト。去年の秋、NHKで放送されて大変な反響があったらしいのですが、残念ながら未見。今回初めて接して、たとえば興味本位の占いのような態度で(同性に限らず)二人の間の子どもを予想して楽しむというレベルから、欲しくても子どもが持てない切実なレベルまでさまざまな希求があるかもしれないけれど、その切実さの度合いが増せば増すほど、この試みは喜びとともに喪失の深刻さが増すのではないかと思いましたた。新たな喪失の物語を生み出すかもしれないけれど、それは悲劇的な側面だけではない。そこが、その複雑さが何より魅力的なプロジェクトのように感じられたのです。



 エンターテイメント部門は、がらっと変わって、2.5次元マスク(http://2-5dmask.tumblr.com/)が印象的でした。パブリックドメインとなっているアニメのようなマスクをそれぞれ自由にダウンロード、プリントアウトして作成したマスクをつけて自撮り。個人的な楽しみでやってもいいだろうけれど、ハッシュタグ(#2_5dmask)をつけてSNSにあげて共有することで広がりがましていく試み。実際の写真はかなり面白くて、こういう新しい遊びは大好き。

 ほかにもマンガ部門、アニメーション部門も面白い作品が目白押しであっという間に2時間以上美術館をうろついておりました。ただエストニアの犬アニメ、あいつは鬼畜だ………やられたよ、ぐふっ……
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長谷川等伯「松林図屏風」

2016年01月07日 19時09分34秒 | 観光
 1月もすでに7日、いわゆる松の内があけようとしています。みなさま、どのようなお正月をお迎えされましたでしょうか。ぼちぼち静かな正月を迎えていた1月4日、何気なくこのブログにアクセスしてみたらアクセス数がいきなり4000越えていて、いったいなにがあったのか、と。どうやら嵐の二宮くん主演の「坊っちゃん」が放送されてそれでなんだかヒットしたみたいです。そんな波乱で始まった今年の年明け、今日はみんな大好き長谷川等伯「松林図屏風」を見に東京国立博物館へ行って参りました。


 まるで霧の中、向こうから何かが立ち現われてくるかのような松林図屏風。それはこの世界になかったものがどこか異界から姿を現してくるような不思議な神々しさを感じさせます。仏像や神像があるわけでもなく、ただ松だけが描かれているこの絵がどこか高い宗教性を感じさせるのはそんなせいなのかもしれません。毎年1月多くの人がここを訪れこの絵に接し、新年を寿ぐのもわかる気がします。この絵の前に立ち尽くした人々は、各々向こうの世界から松が姿を現すその瞬間に立ち会うのです。霧に包まれ、茫漠とした景色の中、姿を現した松の持つ対照的に力強い描線に圧倒されます。長谷川等伯 国宝「松林図屏風」、東京国立博物館2階国宝室で1月17日までの展示です。
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