平安夢柔話

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柔子内親王 ~守られた斎宮

2018-01-28 11:25:26 | 小説風歴史人物伝
 古代から中世まで存在した、天皇の名代として伊勢神宮や賀茂神社に仕える未婚の皇女、斎王。
 便宜的に、伊勢神宮に仕える皇女を「斎宮」、賀茂神社に仕える皇女を「斎院」と呼ぶこともあります。本記事でも、このあとは「斎宮」「斎院」で通させていただきます。 

 このうち、斎院は天皇の代替わりごとに交替する決まりは特になかったようですが、斎宮は天皇が変わるごとに交替する決まりになっていました。
 しかし、父母の死や本人の病気や死亡で交替することもあり、必ずしも天皇1人に対して斎宮1人というわけでもなかったようです。
 歴代斎宮の平均在任期間がどのくらいだったのか、資料がないので断定は出来ませんが。多分、在任期間十数年という斎宮が多いのではと思います。

 では、実在が確認できる斎宮の仲で最も長く斎宮を勤めた皇女は?

 その斎宮こそ、今から紹介する宇多天皇の皇女、柔子内親王(892?~959)なのです。
 彼女は兄の醍醐天皇御代の斎宮で、寛平九年(897)から延長八年(930)まで、足かけ34年、斎宮を勤めました(実際に伊勢にいたのは899年から930年)。
え、そんなに長く都を離れて伊勢に。お気の毒に…、と思うのはちょっと待って下さい。
 彼女は斎宮在任中も、斎宮を退下して都に帰ってからも、多くの親類縁者に守られ、結構楽しく生活していたようなのです。
 それに加えて彼女自身も、社交的で明るい性格だったのではと。
 そんな柔子内親王の生活の一場面を切り取って、短編小説風人物伝にしてみました。


 前斎宮、柔子内親王の1日は、絵を見たり物語を読んだり、女房たちとおしゃべりしたりして静かに暮れてゆく。
 彼女の何よりの楽しみは文のやりとり。
 但し恋文ではない。専ら縁者たち、兄弟姉妹やいとこたち、甥や姪たちともやりとりすることがある。
 30年余りも伊勢で斎王を勤め、退下して5、6年。都の生活はなじめないのではと心配だったが、そんなことはなく、縁者たちとの文のやりとりで結構楽しく過ごせていると思う。そして、時にはそんな縁者たちが彼女の邸宅を訪ねてくることもあるのだった。しかし、暮れも押し詰まったこの時期は専ら文のやりとりが主になる。

 今日の文の相手は藤原能子。
 能子は先帝だった兄、故醍醐天皇の妃の1人で、母方のいとこにもあたる。先帝が崩御されたあと、先帝にとっても柔子にとっても弟である敦実親王が、彼女の邸に住み込むようになったという。
 兄の次は弟だなんてはしたないと、まゆをひそめた人もいたが、柔子は、
「いいんじゃないの?」
と思ったのを覚えている。
「先帝に崩御されて能子どのもお寂しかったのよね。だから、先帝とよく似ている敦実が愛しくてたまらなかったのでしょうし。能子どのは魅力ある人だから、敦実も夢中になったのよね」

 しかし最近、柔子は妙な噂を耳にしたのだった。
「敦実親王は能子どのの許からいなくなったらしい」
 そこで心配になり、「この頃、敦実とはどうなっているの?」
と、文をしたためることにしたのだった。
 冬の暮れは早い。文をしたためているうちに部屋の中が薄暗くなってきた。ああ、今日も無事に終わる。

 翌日、能子から返事が送られてきた。
 季節の挨拶や最近の出来事と一緒に、こんな歌がしたためられていた。

しら山に雪ふりぬればあとたえて今はこしぢに人もかょはず
 白山に雪が降ったら人の足跡も消えてしまい、今は越の国への路に人が通わないように、あの人も私のところに通ってこないのです。

「まあ!敦実はいったい何を考えているのかしら。一度、呼び出して詰問しなくては。」

 柔子は早速、、敦実に、ご機嫌伺いに来るようにと文をしたためた。
 しかし敦実は、「弟子に笛の恵子をつけなければならなくて忙しい」とか何とか理由をつけて、なかなか柔子の邸に現れなかった。敦実は当代、並ぶ者がないといわれる笛の名手で、弟子もたくさんいるらしい。そんなわけで、笛で忙しいと言われれば待つしかなく。

 敦実がようやく、柔子を訪れてきたのは年も明け、梅が咲こうとしている頃であった。

「姉上、久々に私の笛をご披露しとうございます」 
と言い、自慢の笛を奏で始める。いつもならうっとりと聞き惚れるところだが、能子のことを考えると気が気ではない。
 それでも弟の増えにじっと耳をかたむける。
 ようやく笛が終わり、柔子は切り出した。
「そなた、最近、能子どのとはどうなっているの?邸からいなくなったという噂もあるし、能子どのも嘆いておりましたよ」
「ああ、そのことですか」
 敦実は悪びれた様子もなく答えた。
「あの女とは、昨年の秋に切れましたよ。どうやら藤原実頼どのと文のやりとりをしていたみたいでね。」
 敦実はさらに続ける。
「近いうちに実頼どのの邸に迎えられるそうですよ」

 びっくりした、能子が藤原実頼どのとそんなことになっているなんて。
 6歳の時に斎宮に穆上され、8歳で伊勢に下向してから三十数年間、神に仕え、恋とは無縁だった自分には考えられない。
 そう言えば能子は、先帝の妃だった頃、先帝には弟、、柔子には兄に当たる敦慶親王と密通したらしいという噂があったのを思い出した。
「私の兄弟3人と恋をしたとはねえ」
 しかし、能子に対する腹立たしさは不思議と起こってこない。
「同姓の私から見ても魅力的な人だから、男はたちまち、恋に落ちてしまうのかも」
 実頼は摂政忠平の子息、将来が約束された貴公子だ。大炊御門の南に小野宮第という豪勢な邸宅を所有していると聞く。能子どのには今度こそ、落ち着いて幸せになって欲しいと思う。
「それに比べると私の人生は静かなものだったよね。」

 柔子は母の記憶があまりない。明るくて、よくおしゃべりする人という印象が頭のかたすみに残っているけれど。
 母は柔子が5歳の時に急死してしまったのだ。

 それから1年ほど経った頃だった、柔子の身辺があわただしくなったのは。
「姫宮さまはこれから、伊勢の神様に仕える尊いご身分になるのですよ」
と乳母に言われ、何が何だかわからずに宮中を出て初斎院に移ることになったのだった。そして間もなく、嵯峨の野々宮に移った。川で禊ぎをしたり、のりとを唱えたりしてひたすら潔斎をする日々は、遊びたい盛りの年頃には辛くて退屈だった。

 しかし、そんな日々にも終わりがやってきた。いよいよ伊勢に下向することになったのだ。
 久しぶりに訪れた宮中で兄帝から別れの御串をさしてもらい、斎宮の行列は伊勢に出発した。出発の日は大嵐だったことを鮮明に覚えている。

 この時、柔子を伊勢まで送った長奉送使の随員に藤原兼輔がいた。
 乳母は兼輔のことを、「姫宮さまのお母君のいとこさまでいらっしゃいますよ」と言った。まだ20代前半の若者で、もの静かで優しい雰囲気に柔子は好感を持った。何より、父や兄弟たちと引き離された柔子には、兼輔が血縁だということがとても安心できた。
「もしかすると、あれは恋だったのかもしれないわ。もちろん片思いだけど」
 兼輔は、柔子の斎宮在任中に一度、伊勢に来たことがある。あの時の胸のときめきを忘れることが出来ない。

 何もわからないまま斎宮になってしまった柔子だったが、伊勢で過ごすうちに、斎宮とは何なのか、少しずつ理解していったような気がする。帝のため、国のため、ひたすら伊勢神宮の神に奉仕する、それがこの国の民すべての幸せにつながるのだ。私は喜んでその役目を務めよう。
 それに、伊勢での生活はわりと楽しかった。斎宮の役人たちも女官たちも、柔子を大切にしてくれたし、食べ物も都よりもずっとおいしかった。自然も豊かで、時折のお忍び歩きも楽しみだった。
 何より、譲位して「院」と呼ばれていた父や、兼輔や、母の弟の定方からの便りは柔子を慰めてくれた。
 やがて、兄弟たちやいとこたちからも文が届くようになった。その中には、定方の娘の能子もいた。父院が「斎宮をひとりぼっちにしてはいけない。度々文を送るように」と言ってくれたらしい。

 22歳の時柔子は大病を患った。
 一時はかなり危ない状態で、都から定方が来てくれた。そうしたら何だかほっとして。それからだった、病気が快方に向かったのは。

 伊勢にいること三十数年、柔子が39歳の時、兄帝が崩御した。柔子は斎宮の任を解かれ、帰京した。
「斎宮を退下した私が、すんなりと都の生活に溶け込めたのは、父院と兼輔どのと定方どののおかげだわ」
 その父院も兼輔も定方も、数年前に相次いで世を去りこの世の人ではないが、都に帰って来たときにはまだ生きていて、再会できたことは幸せだったと思う。
「そのおかげで、三十年以上、離れていた敦実とも親しくできるのですものね。」

 それに、先日もこんな事があった。
 敦慶親王と有名な歌人、伊勢の間に生まれた中務が、柔子を訪ねてきたのだ。つまり中務は柔子の姪に当たる。
 彼女も歌人として頭角を現し始めていて、古今東西の歌の話をして楽しかった。
 そして帰り際、中務はこんな事を言ったのだ。
「わたくし、おばさまの五十の賀の屏風に歌を詠んで差し上げますわ」。楽しみにしていて下さいね。

 能子どののように波乱に富んだ恋は出来なかったけれど、こうして親族や縁者に守られ、幸せな人生だったと思う。
「そう、こういう生き方で良かったのよね」
 そしてこれからも、兄弟や甥や姪、兼輔どのや定方どのの子供たちを見守り続けていこう。
 そんなことを思いながら、満足な微笑みを浮かべる柔子であった。

☆柔子内親王プロフィール(平安時代史事典より)

柔子内親王(よしこないしんのう) 892?~959

 宇多天皇の第二皇女。母は藤原高藤女胤子
 同母兄に醍醐天皇、敦慶親王、敦固親王。同母弟に敦実親王がいる。。
 寛平四年(892)二月、内親王宣下。
 寛平九年(897)、醍醐天皇践祚により斎宮穆上。
昌泰元年(898)四月、初斎院入御、八月には野宮に移る。同二年、伊勢に向けて出発。
 延長八年(930)、斎宮退下。
 天慶三年(940)ごろ、五十賀が行われ、その屏風のために三十六歌仙の一人中務(柔子の兄敦慶親王女、母は伊勢)が歌を詠んでいる。
 天徳三年(959)正月二日に薨去。六条斎宮と号する。

☆当ブログ内の関連記事紹介

藤原定方とその子孫たち
 柔子の母方の叔父、藤原定方とその子孫を紹介しています。

宮道列子 ~思いがけない人生
 柔子の母方の祖母、宮道列子の1人語り。

〈追記〉

 本記事は、史実や「大和物語」に書かれたエピソードをもとに書きましたが、柔子が兼輔に恋心を抱いていたことはフィクションですし、柔子を取り巻くネットワークに父の宇多院がいたことは私見です。学術的な根拠はありませんので、小説として読んでいただければ幸いです。
 また、柔子内親王の住居について、右京三条より発掘された斎宮の邸宅址の候補者に柔子内親王が上がっていることをマイミクさんから教えていただいたのですが、「六条斎宮」と称されているからには六条に住んでいたのかな?という気もしますし。そのあたりについての資料も手許にないので、住居については言及しませんでした。

☆参考文献
 「平安時代史事典 CD-rom版」 角田文衞・監修 角川学芸出版
 「斎宮 伊勢斎王たちの生きた古代史」 榎村寛之 中央公論新社 中公新書
 「伊勢斎宮と斎王」 榎村寛之 塙書房
*御著書を参考にすることを許可して下さいました榎村寛之先生、どうもありがとうございます。

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宮道列子 ~思いがけない人生

2013-03-23 15:49:17 | 小説風歴史人物伝
 今回は、藤原高藤の妻で醍醐天皇の外祖母に当たる女性、宮道列子さんを紹介いたします。
 そして今回も、ご本人に語っていただくという形式で書いてみました。妄想、推察、フィクションが満載ですので、その点をおくみいただき、お読み下されば幸いです。


 延喜元年の九月のある日、私は山科の古い邸を訪れました。今上帝の祖母君、つまり故内大臣藤原高藤さんの北の方、宮道列子さんのお話を聞くためです。
 もう50代半ばのはずなのに、お会いしてみるとまるで少女のような初々しい御方でした。
「今宵は、私の他愛ないおしゃべりにつき合って下さるとのこと、かんしゃもうしあげます。」
とおっしゃり、静かに語り始めました。


 先ほどまでの雨もやみ、今は東の方向に月が輝いております。
 今年の正月には菅原道真さまが左遷され、2ヶ月ほど前には改元も行われたので、都では何かと騒がしい日が続いているとうかがっております。でも私は、こちらでそれとは無関係の静かな日々を過ごしております。

 そう言えば、あの御方と始めてお会いしたのも、今宵のように雨上がりの月の明るい9月の夜でございました。もう40年ほど前のことですが、あの日のことは昨日のように覚えております。

 私の父は宮道弥益といって、当時は山科の郡司でございました。
 そのため私も、都から少し離れた山科で娘時代を送りました。それでも書や和歌、琴などの貴族一般の娘の教養はしっかり仕込まれました。でも、都の貴族の姫たちに比べると行動も自由で、時々伴の者や女房を連れ、お忍びで近くを散策したり、都に買い物に行ったりもしておりました。思えば幸せな娘時代だったと思います。

 あの時私は16歳、その日も、女房たちと庭で花を積んだりしていたのですが、突然空が暗くなったので、急いで邸に戻りました。私たちが邸に駆け込むと同時に、大粒の雨が降りはじめ、強い風が吹き、雷まで鳴り出しました。

 雨はどのくらい続いたでしょうか。それに、何かがいつもと違うような気がしたのです。邸全体がざわざわしているような…。それで私は、一番仲の良い侍女のあこぎを偵察に行かせたのです。

 間もなくあこぎは、息を切らして戻って参りました。

「大変でございます。どうやら都の身分の高そうな方が鷹狩りの途中で雨に降られて道に迷い、伴を1人連れて、この邸に迷い込んできたのです。もう日も暮れてしまいましたので、今夜はここにお泊めしなければなりません。それで邸じゅうが大騒ぎになっているのです。」
「まあ、面白そうね。どんな方かしら?」
「姫さま、そんなのんきなことは言っていられません。そのような身分の高い方がお泊まりになったら、夜のお相手の女性を差し出さなければなりません。それも、この邸で身分の高い方と一番釣り合うような方を…。姫さま、お覚悟して下さいませ」

 一瞬、あこぎの言葉の意味がわからず、私はぽかんと口を開けておりました。私も乳母から一通り教育を受けていましたから、夜のお相手というのがどんなものかはわかっております。でも、こんなに突然、その日が来るなんて…。

 しばらくして、父が私の局にお渡りになりました。

「姫、都の貴人が今夜、ここにお泊まりになる。しかも太政大臣さまの縁者らしい。殿に恥をかかせないよう、私からの一生のお願いだ。どうか今夜は殿のお相手をしておくれ。」
 だ、太政大臣さまのご縁者!。太政大臣藤原良房さまと言えば、今は飛ぶ取り落とす勢いの御方です。そんな良房さまの縁者とは、私たち田舎の一豪族にとっては雲の上の御方でございます。私はうなずくより他はありませんでした。


 私は紫の単衣と袴に着替えさせられました。特別な行事の時にしか着ない、一番上等な装束です。
 最初に私に命じられたことは、都の貴人に食事を運ぶことでございました。母がかいがいしく女房たちに指図しております。そして私は、母から食事の膳を渡されました。

 私が膳を持って歩き始めたとき、母のすすり泣きが聞こえました。「かわいそうな姫」という声も。今夜お泊まりになる都の貴人って、そんなに怖い御方なのかしら。

 雨はすっかり上がり、明るい月の光が邸の中に差し込んでいます。
 私は貴人のいらっしゃる局の前でもじもじしていました。怖くて足がすくみます。その時、
「こちらへおいで。」
という、優しい声が聞こえました。年は20歳を少し過ぎたくらいでしょうか。狩衣は雨にぬれてしまったらしく、父の装束を着ています。声と同じく、優しそうな笑顔、丸くて澄んだ大きな目が素敵でした。私は力がすうっと抜けたような思いでした。

 あの御方の食事がすんだのを見計らい、私は局にしのんでいくことになっていました。会ってお話ししたいと思いながら、何か恥ずかしくてなかなか足が動きません。

 そんな私の背中を押したのが、「さっきの人をよこして欲しい」という、あの御方からのお誘いでした。あの御方も、私のことを待って下さっているのだわ。
「あちらから催促されるなんて恐れ多いことだ、早く行きなさい」
という父の言葉を背に、私は局へと急ぎました。


 本当に、夢のような一夜でございました。
 あの御方は藤原一族の歴史から和歌や物語のことまで、興味深く話して下さいました。「姫は打てば響くような返答をしてくれるので話し甲斐がある。姫の教養は都の姫君にも劣らぬ。」
とほめて下さいました。最初から、話をしていて気楽で楽しい方でした。

 しかし、夢のような一夜はあっという間に終わってしまったのです。やがて鶏が鳴き始め、空が白々と明るくなり始めました。この時間には、殿は女の許から帰らなくてはならないのです。

「絶対に迎えに来るから。」
と、あの御方はおっしゃいました。
「両親が他の男との結婚を勧めても断っておくれ。」
「もちろんです。きっとまたいらして下さいね。」
 あの御方は、形見に一本の立派な太刀を下さいました。私はそれをしっかりと握りしめました。


 それから3ヶ月くらい経った頃でしょうか。私は突然気分が悪くなって寝込んでしまいました。早速薬師が呼ばれ、診てもらったところ、驚くことがわかりました。

「まあ、いつ来るかわからない男の子供を身ごもってしまったなんて!だから私は弥益どのが姫を差し出すと言ったとき、反対したのです。ああ、もっと強硬に反対すべきだった、かわいそうな姫…」
 母はわっと泣き出してしまいました。でも、私はなぜか落ち着いていました。あの御方の子、絶対に無事にこの世に送り出してあげようと、固く決心したのです。

 月満ちて生まれたのは姫でした。出産で命を落とすことの多い時代、安産だったのは運が良かったとしか言えません。小姫は、丸くて大きな目が特にあの御方に生き写しでした。

 しかし、あの御方はどうしたのでしょう?1年経っても2年経っても音沙汰がありませんでした。

 そんなとき、私に縁談の話が持ち込まれました。相手は大和の豪族、身分的にも釣り合うし、何よりも、こちらの事情を理解していて、小姫を連れてきてもいいと言って下さったのです。

 しかし、私の心は決まっていました。

「ありがたいお話しですが、お断りして下さい。私は小姫と2人、あの御方を待ち続けたいのです。」」
と、私は父と母に手をついて言いました。
「姫、あなたはまだ、いつ来るかわからない方を待っているのですか?もう忘れてしまいなさい。」
母は、あの御方の話をするときはいつもこんな調子でした。ついでに父にも、
「こうなったのはあなたにも責任があるのです。あなたが都の貴人に姫を差し出せば、自分が出世できるとでも思ったのではないのですか?」
「すまぬ。」
と、父はぼそりと言いました。
「姫のために都に行き、あのときの貴人に小姫のこともお伝えしたい気持ちは山々なのだが、私の身分ではあのような身分の高い方にはお目通りできぬ。」


 あの月の明るい夜から3年半近くの月日が経ちました。

 邸の庭には今年も梅が満開です。
 そして、庭に流れ込んでいるやり水に梅の花びらがひらひらと落ちています。ウグイスがきれいな声で泣いているのも聞こえてきます。

 小姫は数え4歳になり、局の奥の方で女房や女童とひいな遊びに夢中になっています。そして私の横には、あの御方が形見にと置いていった太刀があります。

 私はそんな小姫と太刀と庭の景色を交互にぼんやり眺め、もの思いにふけっておりました。
 あの御方と一夜を共にしたのは夢だったのではないかしら。いえ、たとえ現実だったとしても、私とあの御方は所詮身分違い。都には身分の高い、美しい姫君がたくさんいらっしゃると聞きます。あの御方はきっと、そのような姫君に夢中になり、私のような身分の低い田舎の女など忘れてしまったのに違いないわ。ずっと待ち続けようと決心していたのに近頃、そのように考える事が多くなってきたような気がいたします。

 こうしてどのくらい時間が経ったでしょうか。外は薄暗くなり、御厨所から夕餉が運ばれてくる刻になったようです。今日も何事もなく1日が終わる、そう思ったときでした、ばたばたと足音がして、あこぎが息を切らして局に入って来たのは…。

「まあ、あこぎ、そんなに急いでどうしたの?」
「姫さま、大変でございます。すぐにお召し替えを。」

 あこぎは有無を言わさず、私の着替えに取りかかりました。用意されたのは紫の単衣と袴、そうです、特別な行事の時に着る、一番上等な装束です。

 いったい何があったのか聞いても、あこぎは答えてくれません。やがて着替えがすむと、あこぎは局を出て行きました。見ると小姫も、一番上等な装束に着替えたようで、丸い目をくりくりさせて周りをきょろきょろ見ています。その姿がかわいらしく、私は小姫をぎゅっと抱きしめようとしたとき、衣ずれの音がして1人の殿が入ってきました。

「姫、本当にすまなかった!」
 その人は私の前で手をつき、深く頭を下げました。
「すぐにこちらに来ようと思っていたのだが、無断で外泊したことをとがめられ、伯父に鷹狩りを禁止された。その上、ここに一緒に連れてきた従者の一郎が田舎の備前に帰ってしまい、ここを探すすべもなかったのだよ。つい昨日、一郎が戻ってきたので、ここに連れてきてもらった。遅くなってしまって本当にすまなかった…」

 これは夢なのか?

 気がつくと私は泣いていました。涙があふれ、一言もものが言えません。話したいことはたくさんあるのに…。

「太刀も大切にしてくれていたのだね。おや?この姫君は。」

 あの御方は小姫に気がついたようで私に尋ねます。でも、私は涙で言葉が出ません。いつの間に入ってきたのか、父が説明を始めました。

「実は、あなた様がお見えになってからすぐに懐妊の兆しがあり、月満ちて生まれた姫でございます。他に男を近づけたことはありませんので、これはまさしくあなた様の姫かと…」
「本当だ、わたしといきうつしだ。」
「特に目がそっくりですわ。」
と、私はやっとこれだけ言いました。


 再びこのような夜が来るなんて、夢を見ているようでございました。

 あの御方、いえ、そろそろお名前を明かしてもいい頃ですよね。藤原高藤さま、太政大臣、良房さまの弟君、良門さまのご子息…。つまり良房さまの甥に当たる御方です。

「明日、迎えをこちらによこすからね。待っているように。」

 一晩じゅう語り明かしたあと、高藤さまはそう言って、邸をあとにされました。そして約束通り、翌日、立派な車が邸の庭に入って参りました。

 私と小姫と、あこぎをはじめ侍女たちが車に乗り込みます。母も、「心配だから」という理由で都についてくることになりました。


 都での夢のような生活が始まりました。

 都には山科にはないような草子や調度品がたくさんあり、元々好奇心旺盛な私はすっかり夢中になってしまいました。もちろん、田舎の自由な暮らしを思い出すこともありましたけれど、高藤さまはとても優しく、いつも私のことを見守って下さいました。小姫も父君にすっかりなつき、かわいいことをしゃべっては周囲の者たちを笑わせていました。

 やがて私は懐妊し、若君を生み落としました。こうして次々と子を授かり、満ち足りた日々を送っておりました。高藤さまが地方官を務めたときは、一緒に任地に行ったりもしました。父は宮内大輔に昇進し、母も私が幸せになってようやく安心したようでした。

 ところで、高藤さまはご自分の出世が一族の他の方々に較べて遅いのをしきりに気にしていました。特に、私が2番目の若君を身ごもった頃でしょうか、自分に目をかけ、「この子は将来ものになる。」と言って下さっていた良房さまが薨じられた時には大変気を落とされておりました。高藤さまの父ははやく亡くなってしまったので、良房さまが父親替わりのようになっていたのです。

「もっと出世が出来たら、そなたにもきれいな装束をたくさん作ってやれるのに。何よりもこのままでは、子供たちの将来にも影響する。何とかならぬものかなあ。」

 そんな高藤さまに向かって、私はいつもこう言っていました。
「出世なんてしなくてもいいじゃないの。みんなで楽しく暮らせれば。私はあなたや子供たちがいるだけで何も望まないわ。」


 時が経つのは早いもので、あの月の明るい夜の契りで産まれた小姫も裳着を迎える年となりました。小姫はその時、「胤子」という名をもらいましたが、良房さまの養子で高藤さまのいとこにも当たる関白基経さまから、「宮中に宮仕えに出ては。」という話が持ち込まれたのでした。

 私も高藤さまも、世間知らずの胤子を宮仕えに出すことは躊躇したのですが、当の胤子はさっぱりしたものでした。

「面白そう~。私、宮仕えに出てみたい。そのうち帝のお目に止まって皇子でも生み、その皇子が皇太子に立てられたら父君は大臣になれるかもしれないわよ。」

などと、あり得ないような大それたことを言います。そして、それがほぼ現実になろうとは、その時の私たちは夢にも思いませんでした。

 こうして、胤子は宮仕えに上がることになりました。
 間もなく、胤子の局に定省王という、3代前の帝のお孫さんに当たる方が通ってきているらしいという情報が持たらされました。
 情報を持ってきたのはあこぎでした。あこぎはあの鷹狩りの時の従者、一郎と一緒になり、しばらく備前に行ったりもしていたのですが、この頃には夫と共に都に戻り、私に仕えながら時々宮中にも上がって胤子の世話もしていたのです。

 まあ、皇族の殿なんて恐れ多いこと……というのが、私が最初に抱いた感想でした。皇族と言えば神さまのご子孫、でも、古代から皇位継承争いが絶えない恐ろしい一族…。身分の低い私はそんな印象を持っていたのです。もし、胤子がそんな争いに巻き込まれたらどうしようかしら。

 そんな不安を高藤さまに話したところ、このように言われました。

「今上の皇太子はまだ定まっていないが、帝はまだお若い。これから生まれる皇子が皇太子になるだろうな。それに定省王の父君、時康親王さまはおとなしく、政治には無関心の方だ。定め省王が皇位争いに巻き込まれることはまずあり得ぬ。」

 しかし、そんな高藤さまの予想はあっさりと外れることになります。

 それから間もなく、帝が退位したという情報が伝わってきました。何でも、基経さまのご機嫌を損なうような行動が多かったとか…。

 皇太子は定まっていなかったので、公卿たちが会議を開き、選ばれた帝の名前を聞いたとき、私も高藤さまも耳を疑いました。時康親王さま……、そうです、胤子の夫、定省王の父君ではありませんか。
 でも、高藤さまの驚きは一瞬だったようで、すぐに納得したようにこう言いました。
「そうか、時康親王さまは基経どのの母方のいとこなんだよ。さすが基経どの、どの御方を帝に立てたら自分が思い通りに政治を行えるか、ちゃんと考えていたわけだ。」

 でも、親王さまの方も色々考えていたらしく、帝に即位すると、ご自分の皇子や皇女を全員、臣籍に降下させてしまいました。高藤さまの話によると、基経さまの血をひかない皇子の立太子を避けるためだったようです。
そんなわけで定省王も、「定省親王」ではなく、「源定省」と名乗ることになりました。

 娘が政争に巻き込まれることを心配する一方、時康親王さまが帝となったとき、私は一瞬、「もし、定め省王が皇太子候補になったら、私たちは帝との縁が深くなる、高藤さまも少し、出世するかもしれない…」と思ってしまったのです。
 高藤さまの出世は望まないとずっと思っていたのですが、もう40代半ばなのに、未だに参議にもなれないなんて。さすがの私も少し心配になってきていたのです。
 帝との縁が深くなれば運が向いてくるかもしれないと思った私の希望は打ち砕かれてしまいました。でも、そのような考えは一瞬でした。胤子が政争に巻き込まれなくて良かった…という安心感で、私はその考えを打ち消しました。
 それに、定め省王は時康親王さまの第七皇子と聞いております。皇太子に立つことなんてあり得ませんよね。

 その年の秋、定省どのの子を始めて身ごもった胤子が里下がりし、翌年正月、玉のような若君を産みました。ぱっちりとした大きな目は明らかに高藤さまと胤子に生き写しでした。私も自分に似たところを探したのですが、あまり見あたりません。でも、孫はかわいいもの。1日中あやしていても飽きません。まさかこの子が…。いえ、その話はもっとあとにとっておきましょう。
 この若君は「維城」と名づけられ、後に「敦仁」と改名することになります。

 ところで私は母親として当たり前でしょうが、胤子のことがいつも心配でした。
 「そなた、この母の身分が低いことで、肩身の狭い思いはしていないかね?」
 この時代、母親の身分が低いことは致命的なのです。
「いいえ、そんなことはないわ。定省さまはいつも優しいし、楽しくやっているのよ。」
と、胤子は笑顔で答えました。色々気がかりではありましたが、私はひとまず安心しました。そして、「ひょっとしてこの娘なら、政争に巻き込まれても明るく乗り切っていくかもしれない。」と考え直しました。あの山科の田舎の邸で生まれた娘は、いつの間にか立派な女性に成長していたのです。


 それから2年後、また、私たちの驚くような出来事が起こりました。

「大変でございます!」
と、情報を持ってきたのはまたあこぎでした。

「帝が崩御あそばされました。そして、次の帝に選ばれたのはどなただと思います?何と、定省さまなのですよっ」

 私はまたしてもぽかんと口を開けてしまいました。

「信じられない。だって、定省どのは確か帝の第七皇子…。」
「それがですね、定省さまはずっと以前から基経さまの妹君、淑子さまの猶子になっていたのです。ご存じありませんでしたか?」
「もちろん、その話は聞いたことがあるわ。淑子さまはやり手の女官ということも。でも、淑子さまの母君は基経さまの母君と違い、身分の低い女性だと聞いています。兄妹と言ってもそれほど交流もないでしょうし、ただの女官でしょうに。」
「姫さま、たかが女官、されど女官ですよ。淑子さまは母の身分なんて気にせず、基経さまにすり寄っていったのです。それで、利発な定省さまを自分の猶子にし、定省さまを何とか押し上げようと躍起になっていたのです。帝がご即位できたのも、今回、定省さまが即位あそばされるのも、淑子さまの力が大きいかと…。」

 そうか、宮中というところは、私が知らない人脈が渦巻いているのだ。そんな情報を収集したあこぎも大したもの。

 あこぎは一応、私の女房ですが、時々胤子の命で宮中に上がり、何かと胤子の世話をしてくれていました。そしてこのとき、私は決心しました。
「あこぎ、これからは胤子も帝の妃の一人、そなた、正式に胤子の女房になって、あの子の力になっておくれ。」


 定省どのが帝になったことで胤子は正式に帝の妃の一人となり、「更衣」と呼ばれることとなりました。ご存じかと思いますが、このとき即位した帝が、現在、「先帝」とか「上皇」あるいは「法皇」と呼ばれている御方です。後の世では「宇多天皇」と呼ばれているようですが…。

 娘婿が帝になったと言っても、私たちの生活には何も変化は起きませんでした。高藤さまは相変わらず参議には手が届かず、胤子は大勢いる帝の妃の一人にすぎません。
 それでも高藤さまは真面目に職務をこなし、胤子はあこぎの話によれば、明るく楽しく更衣としての生活を送っているようでした。

 先帝の治世は、始め、阿衡事件というごたごたはあったものの、次第に安定し、基経さまが亡くなったあとは摂関を置かず、帝自ら親政を執り行うようになったようです。


 先帝が即位して6年ほど経ったころ、胤子の生んだ敦仁親王が皇太子に立てられるらしいという噂が流れ始めました。

 ちょうどその頃、胤子が何人目かの子を生むために里下がりしてきました。私も高藤さまも敦仁のことが気がかりだったので、尋ねようと思っていたのですが、胤子の方から話を切り出してきました。

「敦仁がもうすぐ皇太子になるの。それで私ね、女御になるのよ。弘徽殿の女御さまと仲良くしていて本当に良かった~。」

 弘徽殿の女御さまというのは、基経さまの姫君、温子さまのことです。基経さまは何年か前に亡くなられていますが、時平さまをはじめ優秀なご子息も何人かおり、しっかりと女御さまを支えていました。女御さまに皇子が生まれたら、すぐに皇太子に立てられるのでは…、と、世間ではささやかれていましたが、未だに姫宮しか生まれておりません。でも、女御さまはお若く、まだまだ皇子が生まれる可能性があるのにどうして敦仁を…、そんな私の疑問に対して、胤子はこう言い切りました。

「ほほほ…。主上は女御さまに皇子を生ませないようにしていらっしゃるのよ。主上はずっと、親政を続けたいのに、女御さまに皇子が生まれたら、基経どのの子息たち、特に時平どのが権力を持ってしまうわ。
 それで、主上が一番皇位を譲りたかったのは、橘広相の娘、義子の生んだ斉世親王なのよ、本音はね。
 でも私は、義子どのにだけは負けたくない。同じ頃にまだ定省王と呼ばれていた主上の妻となって、同じような身分、同じ皇位ですもの。負けたくない気持ち、わかるでしょう?
 女御さまに皇子が生まれない、義子どのには負けたくない、それなら私、自分の子を絶対に皇太子にしようと決心したの。だから女御さまにすり寄ったの。
 女御さまは私より10歳くらい若いけれど、わたしは出来る限り下手に出て、相手の自尊心を傷つけないようにしたのよ。そうしたら元々おっとりした方だったらしく、私のことを姉のように慕ってくるようになったの。
 あ、もちろん、宮廷の影の権力者、淑子さまにごまをすることも忘れなかったわ。もっとも淑子さまを抱き込むことはあこぎの協力があったから出来たようなもの。ありがたいことだわ。
 女御さま、淑子さま、女御さまのご兄弟と私が手を組めば、藤原氏の嫌いな主上も敦仁を無視できないでしょう。女御さまの一族は我が家とは比べものにならないくらい官位が高い人たちが集まっているけれど、同じ藤原北家、冬嗣さまのしそんですもの。団結しなくてはね。私たちが団結すれば、後ろ盾のない義子どのの皇子を皇太子には出来ないのよ。」
「でも、あなたの話を聞いていると、帝は藤原一族がお嫌いなようだけど、女御さまのご兄弟が敦仁の後ろ盾になったら、ご機嫌を損ねるのでは…?。」
「あら、それは大丈夫だわ。主上が警戒しているのは時平さま、だから私、女御さまのご兄弟の中で、一番主上と仲が良さそうな忠平どのを敦仁に近づけているの。これもあこぎの協力なしでは出来なかったわ。実は忠平どのの女房に、あこぎの夫、一郎の遠縁に当たる人がいるの。持つべきものはいい女房ね。忠平どのは将来必ず出世して、敦仁の頼もしい後ろ盾になってくれるわ。
 私はこれでめでたく皇太子の母、女御に格上げされることになったのよ。父親が参議にもなっていない女御なんて、前代未聞ではないかしら。だから見ててご覧なさい、これから父上はどんどん官位が上がるわよ。なので父上、大臣になるまで長生きしてね。」

 これが、山科の田舎の邸で、ひいな遊びをしていた小姫なのでしょうか。

 私にはもう一つ、尋ねたいことがありました。

「帝が最近、重く用いているらしいと噂されている菅原道真さまって、どんな御方なの?聞くところによると、橘広相さまと仲が良かったとか。道真さまが義子さまの生んだ王子を担ぎ出すことはあり得ないかしら。心配だわ。」
「ほほほ、それはないわ。」
と、胤子はきっぱりと言い放ちました。
「道真どのは確かに頭がいいわ。主上にとっては頼れる方かもしれない。でも、私から見れば気が小さくて、融通の利かない男よ。世渡りも決して上手だとは思えない。今に失脚するのではないかしら。」

 何て恐ろしいことを…。宮仕えして十数年、もはやこの娘は、私の手の届かないところに行ってしまったのでしょうか。

「いつの間にあんなに権謀実数にたけた娘になったのだろうか。私にもそなたにも似ていない。いったい誰に…。冬嗣祖父君の血だろうか。」

夫婦2人きりになったとき、高藤さまはぽつりとこう言いました。そして更に、
「でも、頼もしい娘になったものだ。これから我が家も皇太子の血縁として、運が開ける
かもしれない。私も長く元気でいなくては。」


 胤子の予想通り、高藤さまの官位が急に上がりだしたのは、敦仁が正式に皇太子に立てられた直後からでした。立太子の翌年に従三位に叙せられて「公卿」の仲間入りをし、その翌年には念願の参議に任じられました。高藤さまが今までになく、生き生きと官庁に通う姿に私は喜びを感じました。そして、高藤さまと胤子が、帝となった敦仁を支えている様子を想像したりしていました。

 しかし、不幸はあまりにも突然やってきてしまいました。

 高藤さまが参議になって2年後、胤子が世を去ってしまいました。突然倒れ、そのまま意識が戻らず、たった1日で旅立ってしまったのです。まだ30代半ばでした。しかも、12歳の敦仁を頭に、幼い5人の子を残して…。

 私も高藤さまもしばらくはぼんやりし、何も手につきませんでした。私にとっては、高藤さまとの山科での初めての一夜の契りで出来た子ですから、他の子供たちより思い入れが強かったのは事実です。あの姫がいたおかげで、高藤さまを待ち続けた日々がどんなに心強かったか…。

 しかし、いつまでも悲しんでいるわけにはいきませんでした。

 胤子が亡くなった翌年、先帝は敦仁に譲位されました。これが今上帝で、後の世に、「醍醐天皇と呼ばれることになる御方です。私の孫ですけれど、恐れ多いので、今後は「今上帝」とお呼びすることにいたします。

 この時、上皇となられた先帝はまだ31歳でした。どうしてこんな早く…ということで、色々な噂が流れました。上皇という自由な身分で政務を執りたかったからだとか、敦仁親王がなかなかしっかりしていて、政務を任せても大丈夫だからと安心されたからだとか…。確かに今上帝は小さい頃から利発でしっかりしており、私の自慢の孫でした。
 中には、「先帝は女御の死にショックを受けていたらしい。だから女御の喪が明けたらさっさと譲位したのだ。」という声もありました。

 いずれにしても、今上帝の晴れ姿を、胤子に人目、見せてあげたかったです。

 帝の祖父として、高藤さまは更に重く用いられるようになりました。2年後には大納言に昇進。大納言なんて、田舎で過ごした娘時代の私から見たら雲の上の御方でした。その大納言に、わが夫が任じられるとは…。
「これも胤子が今上帝を生んでくれたおかげ。あの子はもしかすると、私たちに遣わされた神仏の化身だったのかもしれない。」
と、私はその頃、高藤さまと話したものです。

 私も帝の祖母として、交際の輪が広がり、恐縮していました。やはり、自分の身分の低さに卑屈になっていたからでしょう。でもみなさま、とても立派で優しい方々で、私も社交界にだんだん慣れていきました。
 特に目をかけて下さったのは先帝の母君、班子女王さまです。時平さまの妹君の入内を阻止するために自分の生んだ姫宮を入内させたりなど、やり手で少し怖そうな方という印象を持っていたのですが、お会いしてみるととても気さくで明るい方で、連れだって買い物に出かけたりもしました。
 それから、気になっていた胤子の生んだ幼い子供たちは、弘徽殿の女御さま、つまり今上帝を猶子にして皇太夫人となり、「中宮」を称している温子さまが面倒を見て下さることになりました。私も中宮さまにお目通りしたのですが、とてもお優しそうな方で、これなら安心と、胸をなで下ろしました。また、「胤子どのには大変お世話になりました。」ともおっしゃって下さり、もったいないことでございます。


 昨年の正月、高藤さまは内大臣に任じられました。左大臣の藤原時平さま、右大臣の菅原道真さまに続いて3番目に高い地位です。

 内大臣に任じられた日、私は夕餉に豪華な料理を用意させ、祝杯をあげました。

  その時、なぜか高藤さまがとても疲れているご様子なのに気がつきました。私がそれを口にすると、
「そんなことはない。内大臣はやり甲斐のある仕事、帝の力になれるよう、まだまだ元気で頑張らなければならぬ。そなたのためにもな。」
と、笑顔で答えました。食欲もいつも通りでしたし、これは私の思い過ごしかもしれないと、私は不吉な考えを頭から消しました。

 しかしその頃、高藤さまはかなり健康を損ねていたのかもしれません。
 その1月半ほど経った日、寝所で突然倒れ、意識を失ってしまったのです。そして丸2日間、意識が戻らず、そのまま旅立ってしまわれました。胤子が旅立ったときと同じように駆け足で…。

 ああ、私の人生も終わってしまったのかもしれないと思いました。あの鷹狩りで雨に降られて山科の邸に迷い込んで来られ、一夜を共にした日、それから3年半後、忘れずに訪れて下さり、私を妻に迎えて下さった日、それからの幸せな日々、帝の外戚となった思いがけない日々が走馬燈のように思い浮かんでは消えていきました。

 私は今、あこぎと一緒に、娘時代を過ごした山科の邸におります。あこぎは胤子が亡くなったあと宮仕えを辞め、一郎と2人で夫婦水入らずの生活を楽しんでいたのですが、一郎も昨年夏、高藤さまのあとを追うように旅立ってしまいました。

 子供たちは、「早く都に戻ってきて一緒に暮らしませんか。」と言ってくれましたが、私はもうしばらく、こちらにいたいと思います。

 ふと時々、高藤さまがこの邸に迷い込んできてからずっと、夢を見ていたのではないかと思うときがあります。
 でも、今上帝は間違いなく私の孫、そして、子供たちも立派に成長しました。手元には、高藤さまが私のために買って下さった装束や調度品、高藤さまが人に頼んで写本させた書物もございます。みんな、私と高藤さまが生きた証…。

 思えば私は幸せ者でございます。

 この時代のことですから、高藤さまにも他に妻があり、子も生ませていることも知っております。でも間違いなく、私を一番大切にして下さいました。そして私と高藤さまの血が、胤子と今上帝を通じてこの国の皇族に脈々と受け継がれていく…、こんな思いがけない人生を送ることが出来たなんて、一豪族の娘にすぎなかった私にとってはもったいないことでございます。高藤さまが世を去って1年半経った今、やっとそのように考えることが出来るようになり、心が落ち着きつつあります。

おや?月が南の空高く輝いています。もう亥の刻でしょうか。今宵は、私の他愛ないおしゃべりにつき合って下さり、感謝申し上げます。
 冥土にも月は出ているのでしょうか。今頃高藤さまも胤子と一緒に、この月を眺めているかもしれません。そう信じたいです。


☆藤原高藤・宮道列子プロフィール

・藤原高藤(ふじわらのたかふじ) 838~900
 藤原北家の嫡流左大臣冬嗣の孫。父は内舎人良門、母は西市正高田沙弥麻呂女の春子。貞観七年(865)、蔵人となる。女の胤子が宇多天皇との間にもうけた敦仁親王が寛平五年(893)に立太子したことで官位の昇進が早まる。
 寛平六年に三階を越えて従三位に叙され、翌七年参議、昌泰二年(899)、大納言、翌三年には内大臣に任じられた。同年三月十二日、六十三歳で薨じ、太政大臣正一位を贈られた。世に小一条内大臣、勧修寺内大臣と呼ばれ、また彼の子孫は勧修寺流といわれ、藤原氏一門中で侮りがたい勢力を形成した。 
*高藤と列子の間に生まれた貞方の子孫についてまとめた記事はこちら

・宮道列子(みやじのつらこ) ?~907
 宮内大輔の弥益女。宇多天皇の女御藤原胤子の母、醍醐天皇の外祖母。天皇の外祖母として従三位に叙された。延喜七年十月十七日薨去、二十六日正二位が追贈された。


(付記)

・登場人物の年齢と時系列について

 高藤が鷹狩りの途中で雨に降られ、山科の宮道弥益の邸で雨宿りをし、列子と契りを交わす話は「今昔物語」に載せられています。
 「今昔物語」によると、当時の高藤の年齢は十五、六歳だったということですが、これではその翌年くらいに生まれたと推察される胤子の年齢は867年生まれの宇多天皇よりも十歳以上年上となり、2人の結婚が政略とは考えられないため、不自然に思えました。

 そこで私は、高藤が列子と始めて契った年齢を25歳くらいとし、胤子の年齢を宇多天皇より4歳くらい年上としました。胤子の生年は不詳のようなので、このくらい妄想してもいいかなと…。
 そのため、列子が高藤を待ち続けた年数、「今昔物語」では6年となっているところを3年半とさせていただきました。
 なお、列子の年齢も「今昔物語」では十三、四歳となっていましたが、高藤の年齢に会わせ、数歳引き上げて十六歳としました。

 以上は、学術的な根拠は全くなく、すべて私の想像ですのでご了承下さい。

・勧修寺について

 宮道弥益の邸は後に醍醐天皇が母の胤子の菩提を弔うため寺としました。これが勧修寺です。
 醍醐天皇はきっと、祖母の列子のことも忘れなかったのでしょうね。
 また勧修寺には、列子建立の堂もあったそうです。夫の高藤や、女の胤子を弔うために建てられたのだと思います。

 私は15年ほど前の2月に勧修寺を訪れました。2月にしては暖かい、よく晴れた日でした。庭園が美しかったです。ただ、2月ということで花は咲いていませんでしたが、
 ここで、高藤と列子が結ばれたのだと色々想像を巡らし、わくわくしたのを思い出します。

☆参考文献

 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
『今昔物語 日本古典文庫11』 福永武彦訳 河出書房新社

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兼明親王 ~皇族から臣下へ、そして、再び皇族へ

2013-02-06 09:23:37 | 小説風歴史人物伝
 今回は、私が以前から気になっていた、「源氏物語」にも影響を与えた兼明親王を紹介したいと思います。天皇の皇子に生まれ、臣籍降下して左大臣にまで昇進するものの、突然、再び皇族の身分に戻されてしまうといった、波瀾の生涯を送った方です。

 では、彼の生涯を年代を負って書いてみます。そのあとに、関係者へのインタビューも載せてみました。相変わらず妄想炸裂です。

☆兼明親王(かねあきらしんのう) 914~987

 父は醍醐天皇 母は藤原菅根(藤原南家)女の淑姫(醍醐天皇更衣)

☆延喜十四年(914)

 誕生。成年は同じく醍醐天皇の皇子で、後に安和の変で失脚する源高明(母は源唱女周子)と同年。
 なお、外祖父の菅根は文章博士出身で、蔵人頭も勤めていたので醍醐天皇と親しかったのではないか。

☆延喜二十年(920)

 源姓を賜り臣籍降下。源兼明となる。

☆承平二年(932)

 従四位上に叙せられる。

☆天慶七年(944)

 参議に任じられる。

☆天暦七年(953)

 権中納言に任じられる。

☆康保四年(967)

 大納言に任じられる。

☆安和二年(969)

 安和の変により、源高明が失脚。兼明も、高明と兄弟という縁から、一時昇殿を止められる。

☆天禄元年(970)

 藤原道綱(父は藤原兼家、母は蜻蛉日記作者)の元服に際し、加冠役をつとめる。
 兼明は交際嫌いだったようですが、藤原兼家とはある程度親しかったのではないかと思います。

☆天禄二年(971)

 左大臣に任じられる。
 このように、兼明はわりと順調に出世をしていました。ところが…、

☆貞元二年(977)

 藤原兼通の謀略によって親王となり、政権より遠ざけられた。中務卿に任じられるが、これは親王の名誉職とも言える官職で、実権はない。

 「え、どうして?」って感じです。

 そこで、兼通さんの堀河第を訪ね、直接事情をうかがうことにしました。

「ああ、その通り、まろが兼明さまを追い落としたのだよ。」と、兼通さんはあっさりと認めました。

「それってもしかして、兼通さんと兼家さんの兄弟の仲が悪かったのが原因なのですか?」

「元々兼家のやつ、弟のくせにこざかしいやつだった」。
と、兼通さんは忌々しそうに言いました。

「あいつは、父上(藤原師輔)ばかりではなく、先々帝村上の帝や実頼おじ、師尹おじ、さらに伊尹兄上に要領よく取り入っていた。このままだとあいつに追い越されてしまう。まあ、本当に追い越されてしまったのだが。あとのことになるが、公卿になったのもあいつの方が先立ったし。弟に追い越された兄は惨めなものだ。」

「それで兼通さん、策を練ったのですよね。」

「その通り。そこでまろは考えた。そうだ、村上の帝の后、安子さま(藤原師輔女・つまり兼通の姉妹)を味方につけようと…。
 まろは安子さまのところに行き、一筆書いて下さるように頼んだ。摂関の職は兄弟の順にせよと…。そうすればあいつに追い越されても、兄上のあとはまろが関白になれる。安子さまはそなたの言うことは筋が通っているとおっしゃって下さり、ありがたく起請文を書いて下さった。まろはその起請文を首にかけ、片時も離すまいと決心した。

 やがて安子さまは崩御され、数年後、伊尹兄上も亡くなられた。そこで次の関白を誰にするかが問題になった。兼家のやつは、自分が関白になれると大はしゃぎしていたようだが、そうはさせぬ。

 まろは今上帝のもとに行き、安子さまの書かれた起請文をお見せした。帝は確かに母上の文字であるとおっしゃられ、まろを関白にして下さった。

 しかし、まろが政務を執るのに邪魔になるのは兼家だ。そこでまろは考えた。人が良くておとなしく、まろとも仲の良いいとこ、頼忠どのを引き立て、左大臣にしてあげようと…。しかし、それには左大臣の兼明さまにやめてもらわなくてはならぬ。それで左大臣は病気だという噂を流し、やめさせようという雰囲気に持って行ったのだよ。この試みは大成功だった。さらに兼明さまは兼家めと仲が良い。兼家派の有力者が1人減ったわけだから、一石二鳥だ。
 そんなわけで、まろにもしものことがあったとき、関白職をお譲りするのは頼忠どのだ。兼家めには絶対に譲らぬ。」

 兼通さんは語り終えると満足そうに口元を撫でました。

 それにしてもお気の毒なのは左大臣から中務宮となってしまった兼明さまです。いえ、後続に復帰されたのでお名前をお呼びするのは恐れ多い。「親王さま」とお呼びした方がいいかもしれませんね。

 聞くところによると親王さまは、嵯峨の小倉山と峰続きの亀山の山荘に引きこもっておられるとか、早速そちらをお訪ねし、親王さまに直接お話しを伺うことにしました。

「こんな遠方まで、ようこそお越し下さいました。」と、親王さまは丁寧にご挨拶して下さいました。そして、静かに語り始めました。

「安和の変で失脚した高明どのに比べると、私は運が良いと思っておりました。藤原北家が実権を握る調停で、左大臣まで昇進できたのですから。しかし、今度のことは突然で、私もなぜ自分が左大臣を辞めさせられて中務卿に任じられたのか、なぜ皇族の身分に戻されたのか、よくわからなかったのです。でも、時が経つうちに、その理由が何となくわかってきました。藤原北家による源氏排斥と、兼通どのと兼家どのの不和のため、私が犠牲になったということなのでしょう。」

 そう言って、親王さまは一枚の紙を取り出しました。達筆な文字で、何か書かれています。

「『菟裘賦(ときゅうのふ)』です。正しい道が衰え、讒言が横行している世が、いつまた清らかな姿になるか、老いた身はその日を待つあてもなく、あきらめねばなるまい。今は亀山の僧堂に隠れるばかりであるというような趣旨を詩にしてみたのです。この世は無常です。
 これからは好きな本を読み、詩を作ったり学問に没頭したりして、悠々自適に暮らそうと思っております。」

 確かに親王さまのお部屋には、『史記』や『論語』などの中国の古典から、最近わが国で流行している『竹取物語』や『伊勢物語』まで、多くの書物が置いてあります。

「親王さまは本当に学問がお好きなのですね。」

「私の学問好きは、菅根おじいさまに似たのであろうと、母がよく申しておりました。そして母は、そなたはおじいさまに生き写しだとも言っておりました。
 祖父は、私が生まれる前に他界してしまいましたので、会ったことがありません。長生きしていたら、色々なことを教えて下さっただろうにと、とても残念に思います。

 そう言えば、私の母方の一族は不遇です。
 私の母方のいとこ、祐姫どの(藤原元方女・元方は兼明親王の母、淑姫の兄弟)は、村上の帝の寵愛を得て、第一皇子広平親王をお生みになったのに、藤原師輔どのの娘御、安子どのが憲平親王をもうけられたため、広平親王は皇太子になれず、将来を閉ざされてしまいました。
 元方おじは悲嘆にくれて、早く亡くなってしまわれました。その怨霊が、憲平親王、つまり先帝、冷泉の帝にとりつき、先帝は狂気だと噂されております。一族の者がそのように言われるのはとても辛いです。

 まあ、これも私の母方が、同じ藤原氏でも今栄えている北家とは別系統の南家だからでしょう。だから私も実権のない一親王に戻されてしまったのです。」

 語りながら、親王さまは穏やかな微笑を浮かべられていました。でもその影には、どうしようもない寂しさと暗さが感じられました。
 ともあれ、これからの親王さまの生活がどうか平穏でありますように…、そんな思いを抱きながら、私は山荘をあとにしました。

(追記) 兼明親王が「源氏物語」に与えた影響

 まず、皇族から臣下へ、そして再び皇族へという身分の変遷が、光源氏の親王から臣下へ、そして准太上天皇へという身分の変遷と似通っているように思えます。
 ただ、左大臣から皇族に戻されてしまった兼明親王は完全に左遷ですが、太政大臣から准太上天皇の待遇を受けた光源氏は優遇措置ですよね。

 でもそれとは別に、兼明親王の厭世的な生き方は、『源氏物語』に影響を与えたように思えます。

 あと忘れてはならないのは、明石一族と兼明親王の関係です。

 実は、明石の上の母、明石の尼君の祖父は中務宮で、嵯峨に山荘を持っていたのです。
 光源氏が須磨・明石を流浪していたときに知り合った明石の上は、光源氏から上洛するように言われても、なかなか上洛しなかったのですが、ついに決心して数年後に上洛します。ただ、源氏の他の妻たちに遠慮して本邸には入らず、まず母が中務宮から譲り受けた嵯峨の山荘に落ち着きます。「中務宮」や「嵯峨の山荘」というキーワードから、紫式部は兼明親王を思い浮かべながら明石の上の物語を書いたのではないかと思います。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞 監修 角川学芸出版
 『紫式部の恋 ー「源氏物語」誕生の謎を解く』 近藤富枝 河出文庫
『大鏡 全現代語訳』 保佐か弘司 講談社学術文庫

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源 俊房 ~浮き沈みの激しかったその生涯

2007-09-17 09:27:51 | 小説風歴史人物伝
 「平安時代史事典」で源俊房について調べたとき、「何て浮き沈みの激しい、ドラマティックな人生を送った人なのだろう!」ととても興味を持ち、いつか人物伝で取り上げてみたいとずっと思っていました。

 そこで、どのように書いたらいいのかすごく迷いました。その結果、「こういう人生を送った人はその人自身に語って頂くというスタイルで書くのが面白そう~」と思ったのです。そうです、「班子女王」のように…。

 でも、男性に一人語りをさせるというのはどうもうまく行かないのですよね~。そんなとき思い出したのは、「2005年大河ドラマ「義経」「参考文献」で挙げさせて頂いた「源氏の花 平家の花 歴史に咲いた女たち(石丸晶子著)」でした。他に姉妹編として「平安の花」もあるのですが、著者自身が歴史上の人物たちにタイムスリップインタビューをするという形で書かれていて、とても面白かったです。「そうだ、これだ!」と思いました。

 それで、保安元年(1120)、俊房さんの邸宅を訪ね、86歳の俊房さんとお会いし、その人生についてインタビューをする…という形で書くことにしたのです。。

 なお、この項の俊房さんの性格や心の動きに関しては、学術的な根拠は全くなく、すべて私の妄想です。その点をおくみ頂、お読み頂けますと幸いです。


「さて、まろに何を聞きたいのじゃな?うーん、まろのこれまでのことじゃと?では、何でも聞いて下され」

 86歳の俊房三は人の良さそうな笑顔を私に向けました。

「俊房さんってとっても高貴なお生まれなのですよね?」


「そうなのじゃよ。まろの父方の曾祖父君は村上の帝…。祖父は秀才の誉れの高かった具平親王じゃ。そして、母方の祖父君は摂関政治の栄華を極めた藤原道長公。まろはその道長公のれっきとした孫なのじゃよ。」


「俊房さんのお父様は、もしかすると関白になったかもしれないのですよね?」


「その通り。父上の源師房は、道長公の嫡男、頼通公の養子になっていたのじゃよ。頼通公の奥方は、まろの父方の伯母に当たる隆姫女王じゃからのう。もし、頼通公に男子が誕生しなかったら、父上は間違いなく関白になっていた。そうなったら、まろの人生も別のものになったのじゃろうな。特に、曾々祖父君の師輔公の例もあることだから、姫宮のことで謹慎処分を受けることもなかったろうに。」


「姫宮さまのことは後ほどお伺いすることとして、俊房さんは高貴な生まれなので将来を期待され、とんとん拍子に出世していったのですよね?」


「そうなのじゃよ。母上は道長公の娘の尊子だったこともあり、その点でも、まろの家は摂関家と深く結びついていたのじゃよ。

 12歳で元服したまろは、従五位上に叙され、侍従、近江権介、左近衛権中将等を経て、16歳で従三位となり、天喜五年(1057)二月、23歳で参議に任ぜられたのじゃよ。」


「まるで摂関家のお坊ちゃん並みの出世の早さですね。でも、娟子内親王さまが現れたことで、運命が一変するのですよね。」


「美しい人じゃったのう、姫宮は…」

 俊房さんは少し遠くを見るような目をして、話し始めました。

「姫宮と初めてお会いしたのは、まろがまだ元服する前じゃった。その頃姫宮は、賀茂神社の神に仕える斎王じゃった。ある年の葵祭の日、すだれの蔭からそのお姿をちらっと拝見し、「何と美しく可憐な方なのだろう!」と子供心にもすっかり夢中になってしまった。」


「それで、姫宮さまが賀茂の斎王を退下して数年後、お二人は結ばれたのですよね。」


「そうじゃよ。姫宮と初めて結ばれた夜、彼女も「ずっとお慕い申しておりました。」とおっしゃって下さった。初めて姫宮を拝見した葵祭の日、姫宮もまろの姿を見たのだそうじゃよ。二人は恋に夢中になった。伊勢の斎王であった雅子内親王さまを妻とされた曾々祖父君、師輔公の例もある。前斎王の姫宮を妻とすることに罪悪感など全くなかったのじゃよ。


「それなのに、せっかく参議になった年に謹慎処分を食らってしまったのですよね?」


「姫宮の弟君、尊仁親王さまの怒りに触れてしまったのじゃよ。それでもまろは出世よりも姫宮の方が大切だった。だから謹慎処分も歯を食いしばって絶えたのじゃよ。」


「それに、お母様の尊子さんが強い味方になって下さったのですよね?」


「母上が味方になって下さったことは心強かった。母上は、姫宮のお世話もして下さった。そして、「人が人を好きになることはごく自然なこと。あなた達の恋を応援しています。」といつもおっしゃって下さったのじゃよ。」


「素敵なお母様ですね。それで、お母様の努力もあって、3年後に謹慎が解けたのですよね。そして再び、出世街道を歩いていくことになるのですよね。」


「そうじゃよ。許された年の翌年には権中納言となり、11年後の永保二年(1082)右大臣、その翌年には左大臣となったのじゃよ。その時、右大臣になったのが弟の顕房じゃ。


「そうでしたよね。源氏の左右大臣というのも珍しいことだったのですよね。でも、三の宮輔仁親王の東宮擁立に失敗してしまうのですよね。」


「そうなのじゃ。」

 この時、俊房さんの語気が強くなったような気がしました。

「元々、後三条の帝(尊仁親王)の一の宮であられた白河の帝の東宮に立たれたのは、二の宮実仁親王だった。後三条の帝は、二の宮踐祚後は三の宮をと遺言したのじゃよ。後三条の帝とは姫宮のことで色々あったが、それはそれとしてまろに色々目をかけて下さった。後三条の帝の遺言を守ることは当然のことなのじゃよ。」


「それに、お父様の師房さんは、二の宮実仁親王の東宮傅だったのですものね。」


「そうなのじゃよ。だから、村上源氏は一致団結して二の宮と三の宮を守るべきだったのじゃよ。」


「そうですよね。でも、白河帝は実仁親王がお亡くなりになると、自分の皇子、善仁親王を東宮にしてしまったのですよね。しかも、その善仁親王は俊房さんの弟の顕房さんの娘さんが生んだ皇子だった…」


「元々、弟はまろに比べると要領の良いやつだった。娘の賢子を関白師実どのの養女にしたのも、摂関家との縁を強めるための策略だったのじゃろうな。

 その賢子が白河の帝の中宮となり善仁親王を生んだのじゃ。帝にとってはかわいい我が子、弟にとってもかわいい孫じゃからのう。帝位につけたい気持ちはわからなくもないが、それでは筋が通らぬ。」


「それで俊房さんとお子様たちは、三の宮輔仁親王の側近となり、何とか次の東宮に立てようと必死になっていたのですよね。」


「お気の毒なのは三の宮じゃ。希望をなくして仁和寺にこもってしまわれた。でも、善仁親王に皇子が生まれるまでは希望を捨ててはなりませぬと何度も申した。まろとまろの子供たちは、必死になって三の宮を支えていったのじゃ。宮廷で孤立しようとも…。それだけ三の宮は頭も良く才気もあり、魅力的なお方じゃった。」


「でも、堀河帝となった善仁親王に皇子が生まれ、その皇子が鳥羽帝となって即位したため、三の宮輔仁親王の東宮への望みは完全に絶たれてしまったのですよね。おまけに永久元年(1113)、鳥羽帝暗殺未遂事件が起き、その首謀者として俊房さんの息子さんで三の宮輔仁親王の護持僧であった仁覚さんが逮捕され、伊豆に流されてしまったのですよね。そして、俊房さんも一時連座して蟄居していたのですよね。」


「仁覚が鳥羽天皇暗殺を告知していると書かれた落書が鳥羽天皇准母の令子内親王第で発見されたのじゃよ。これは、まろの家と三の宮を失脚させるための陰謀じゃ。

 まろは許された後、朝廷にしばしば出仕して息子たちの官位昇進を画策したのじゃが……、我が家の敗北は決定的なものとなっており、もう無理じゃった。そして、三の宮も昨年亡くなられた。まろのやることももうなくなった。来年あたり、出家しようと思っているのじゃよ。」


「最後に一つ、お聞きしてもよろしいですか?」


「何なりと…」


「俊房さんは、ご自分のこれまでの人生を後悔されていますか?」


「後悔しておらんよ。姫宮を愛して謹慎になったことも、三の宮を東宮にしようとしたことも…。今考えると、浮き沈みの激しい、なかなか面白い人生じゃった。
 それに、まろの家系は没落してしまったが、弟の家系はこれからも繁栄していくのじゃろうな。このように、村上源氏が後世まで続くことは良いことじゃ。
 こうなったらまろは、1日も早く冥土に旅立ち、姫宮や三の宮にお会いしたいのう。」


☆源 俊房プロフィール

 1035~1121

 平安時代後期の公卿。村上源氏の源師房一男。母は藤原道長女の尊子。

 23歳で参議となるが、娟子内親王(後朱雀天皇皇女・母は禎子内親王)との密通が発覚し、その後3年間、後冷泉天皇の詔によって謹慎していた。許された後は順調に昇進し、永保三年(1083)、左大臣となった。しかし、輔仁親王(後三条天皇第三皇子)を東宮に擁立しようとして藤原公実らと対立し宮廷で孤立、最後には権力を失ってしまう。

 保安二年(1121)五月、比叡山において出家(法名寂俊)。同年十一月に至り薨去。堀河左大臣と称された。

 日記『水左記』は、後期摂関時代の政治社会を知る上での貴重な史料。『後拾遺』以下の勅撰集に数首入集し、漢詩の才もあり、故実にも通じた。また能書家としても知られる。


☆追記
 葉つき みかんさんより掲示板にて、俊房さんと娟子内親王の愛を深めるきっかけとなったエピソードを教えていただきました。「今鏡」に書かれているエピソードだそうです。葉つき みかんさん、ありがとうございました。以下は葉つき みかんさんの投稿のコピーです。

俊房は禎子内親王とケン子さんが住んでいた屋敷に気軽に出入りできていたみたいで、その折に、扇に一文字ずつ文字を書いて歌を作る遊びをしていたそうです。

例えば、内親王の扇に一文字を俊房が書く。
それに内親王が書き加える。
俊房が一文字加える。
それを続けて和歌を作る。

それを続けているうちに気持ちがたかぶってきたそうです。

本当に・・・・二人の恋は物語のように優雅でみやびですね~。


参考文献・サイト

 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『人物叢書 源 通親」 橋本義彦 吉川構文館

 葉つき みかんさんのブログ『月桜通信』内のこちらのページ(参考にすることを許可して下さいました葉つき みかんさん、どうもありがとうございました)


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班子女王 ~宇多天皇の母

2006-07-29 16:53:50 | 小説風歴史人物伝
 私は宇多天皇(867~931 在位887~897)という天皇が大好きです。一度臣籍に下って源姓を賜ったものの、思いがけず帝位につき、天皇時代は時の権力者藤原基経と対決し、菅原道真などの反藤原勢力を重く用いました。しかし突然退位して上皇となり、やがて出家……。晩年は政治とは無関係の風流人生を送ったと伝えられています。天皇時代は政治に熱中し、退位してからは遊興三昧…。そのギャップがすごい。そのあたりのことはいずれ、こちらの歴史人物伝で詳しく書いてみたいなと思っています。

 さて今回の人物伝では、その宇多天皇の母、班子女王を取り上げてみることにしました。そして、いつもとは試行を変え、班子女王ご自身にご自分の人生について語っていただく…というスタイルで書いてみました。

*当ブログの歴史記事全体に言えることなのですが、特にこの項に関しましては学術的な根拠や正確性については保証できません。「推論や妄想が入りまくりでも許せる。」という方だけお読み下さい。


宇多天皇の母、班子女王が語る「我が人生」

 私が時康親王さまと巡り会ったのは、十七、八くらいの時だったわ。時の帝、文徳邸の弟君だと聞いていたけれど、第一印象は「何かさえない方」という感じだったの。それはそうでしょう。文徳帝の母君は権力者藤原冬嗣さまの姫君の順子さま…。それに比べると時康親王さまの母君は藤原総継さまという、うだつの上がらない貴族の娘…。同じ兄弟でも月とすっぽんですものね。

 でも、親王さまは私のことが気に入ったらしく、しきりに文を下さるので、私も結婚を決意したわけなのよね。

 そして私たち、結構馬が合って、可愛い子供達が次々と産まれたわ。男4人、女4人の合計8人…。何よりもわが夫は優しくて誠実で、私のことを大切にして下さったのよね。

 夫や子供達と一緒に過ごす時間はもちろん幸せだったけれど、私が一番好きなのはやっぱり買い物と物詣で。七条の東の市や西の市で買い物をしていると時間を忘れたわ。だって市には、目を見張るほど珍しい物がたくさんあるのですもの。その珍しい物が自分の物になる瞬間って、たまらないのよね。
 清水寺にもしょっちゅう出かけていたの。ああ、あの頃は楽しかったわ~。私もまだ若かったし。

 そんな生活が一変したのは元慶8年のあの日…。その時の帝、陽成帝が内裏で殺人事変をおこし、関白藤原基経どのによって退位させられてしまったのよね。
 陽成帝はまだ若くて子供もなく、皇太子も定まっていなかったので、次の帝を誰にするか、公卿たちが会議で議論した結果、何と、何と、わが夫、時康親王さまが次の帝に決まったの。帝位なんて絶対回ってこないと思っていた55歳のわが夫が帝ですって!?最初この知らせを聞いたときは何が何だかわからなくてぼーっとしてしまったわ。

 でも冷静になって考えてみると、このことは基経どのが敷くんだ大芝居……ということがわかってきたの。
 実は我が夫と基経どのはいとこ同士…。お二人の母は、あのうだつの上がらなかった藤原総継様の娘で姉妹なのよね。
 そのようなわけで基経どのとわが夫は昔から仲が良かったの。基経どのはしょっちゅう、我が家に出入りしていたし…。
 でも私、どうも基経どののことが好きになれなかったのよね。理由はよくわからないけれど、何か虫が好かないというか…。それに、何を考えているかよくわからない、得体の知れないところがあるのよね。もしかすると基経どのは、おとなしいわが夫が帝なら、自分の思い通りに政治を動かせるかもしれない。そしてわが夫が邪魔になったらさっさと譲位させる気でいるのかも…。

 夫が踐祚することが決まったとき、私はこう言ってやったの。
「これは基経どのが仕掛けたわなかもしれないわ。あなたのお友達のことを悪く言って申し訳ないけれど、基経どのには気をつけて。」
 するとわが夫は、
「なーに、基経とはいとこ同士。それに昔なじみで気心の知れている仲。何とかなるさ。」
 夫にこう言われると、「それもそうだわ~」と思って安心してしまうのよね。このあたりが、私の脳天気な所なんだけど…。

 でもわが夫も用心深いところがあったのよね。自分の皇子をすべて、臣籍に降下させてしまったの。実はわが夫は、私以外にも何人かの奥さんがいたのよね。その一人が基経どのの娘だったのだけど、彼女にはまだ子供がいなかったの。そこで、基経どのの血を引いていない皇子を皇太子に立てることを避けるために、皇子をすべて臣籍に降下させたのだけど、私は「そこまでしなくても良いのに」と思ったわ。

 さて、夫の踐祚に伴い、私は従三位に叙され、「女御」と呼ばれることになったんだけど、宮中の暮らしは退屈でへきへきしたわ。買い物にも物詣でにも自由に行けないし…。そこで私、買い物のリストを作って気を紛らわせていたの。

 そうこうしているうちに、わが夫が、「御室に寺を建てる」と言い出したのよね。そこで、私は夫に連れられて寺が建つという候補地を見に御室に出かけたの。自然が豊かで静かなところだったわ。「ここにお寺が建ったら素敵!」と思った。それに、御室行きは、宮中暮らしに退屈さを感じていた私のいい気分転換だったわ。このお寺がのちに「仁和寺」と呼ばれることになるのよね。

 ところが夫は、踐祚してわずか3年、仁和寺の完成を見ずにあっけなく亡くなってしまったの…。そして、夫の皇太子は定まっていなかった。
 そこで基経どのがかつぎ出したのが、私が夫との間にもうけたわが子、定省だったのよね。

 実は定省は、基経どのの姉妹で子供のいない藤原淑子どのの猶子になっていたの。そこで基経どのは、「定省どのなら自分の思い通りに動かせる。」とでも思ったのでしょうね。

 でも、一度臣籍に下った者が皇太子になって踐祚するなんて前代未聞。なので基経どののこのやり方にはかなり異論があったみたい。「源定省が帝だなんて絶対に認めない。」という声もあったようね。
 おまけに「阿衡事件」というのも起こって…。女の私には、男君の書く難しい漢文のことはよくわからないけれど(私はやっぱり草子や和歌の方が好き!)定省から基経どのに出された詔の文書の中に「阿衡」という言葉があり、それが基経どのを怒らせる原因になったみたいなのよね。「阿衡」というのは高貴だけど実権は何もないという意味らしいわ。

 そんなこともあって定省はすっかり気落ちしてしまい、私の所に来て「帝をやめたい」と言ってきたの。「出家したい。」とも言ったわ。やはりこういう相談をするのは養母の淑子どのより実母の私の方が良かったのでしょうね。
 元々定省は頭が良くて利発な子なのだけれど、少々気が弱いところがあって…。それでいてなかなか自由奔放、熱しやすくて冷めやすい、そして脳天気でおっちょこちょいなところもある(これは私に似たのかも)という、複雑な性格なのよね。
 私、定省にこう言ってやったわ。
「しっかりしなさい!あなたは高貴な生まれなのよ。基経どのなんてただの臣下じゃないの。皇族の血なんて一滴も受けていやしない。それに比べるとあなたは父方も母方も皇族…。(私だって桓武の帝のれっきとした孫なのだから)基経どのが何を言おうと、気にすることなんてないわ。それから、30歳になるまで出家はしないでちょうだい。」
 それを聞いたとたん定省は、
「それもそうだな。もうしばらくは帝をやめないよ。」と言って納得してしまうあたり、やっぱり脳天気なのよね…。結局その時は、定省は位を降りなかったわ。

 そして間もなく、基経どのは亡くなったの。頭の上の重石が取れた定省は突然元気になり、政治に夢中になり出したわ。後世この時期のことを「寛平の治」と言っているみたいね。
 とにかく藤原氏の力がこれ以上強大にならないよう、菅原道真どののような反藤原勢力を重く用いていたみたいね。

 ところが、定省は踐祚してから10年経ったある日、「位を皇太子敦仁に譲る。」と私に言ってきたの。敦仁は定省と藤原胤子どのの間に産まれた皇子で、私の孫に当たるわけなのよね。
「敦仁も一人前になってきたから、そろそろ位を譲っても大丈夫だ。私は上皇となり、陰から敦仁を助けようかと思う。」
 確かに…、敦仁は定省に比べて気性が強く、帝王に向いているような気がしたわ。定省も早くからそれを見抜いていたのね、きっと。この頃はもう、阿衡事件の頃とは状況が違っていたのよね。なので私もその時は反対しなかったの。

上皇になった定省だけど、反藤原政策は続けていたみたい。故基経どのの息子達は、自分たちの姉妹の穏子どのを敦仁の妃にしようと画策していたようだけど、「そうはさせじ」と、定省は同母姉妹(つまり私の子)の為子を敦仁の妃に送り込んだこともその一つね。もっとも、為子に「敦仁と結婚するように」と説得したのは私なんだけど…。

 そう言えば私はその頃、親戚の子のために一肌脱いだのよね。私の甥の息子、平貞文…、後世の人は「平中」とか言っているみたいだけど、色好みとか、遊び好きとか言われているけれど、できの悪い子は私にとっては可愛いのよね。その貞文、一時官位を剥奪されてしまったの。理由は色々あるようだけど、どうやら基経どのの長男時平どのと恋敵になってしまったことが大きな理由だったみたいね。それで私、貞文の復官を定省と敦仁に懇願したの。二人とも私の願いを受けざるを得なかったみたい。私は今生の祖母、上皇の母ですもの。そのくらいの力はあります。

 聞くところによると敦仁は最近、その時平どのを重く用いているとか…。敦仁にとっては、年を取って説教くさい道真どのより、若くてきびきびした時平どのの方が気が合うみたい。やっぱり藤原氏の力は侮れないかも…。私は時平どのよりも弟君の忠平どのの方が明るくて誠実そうで好きなのだけど。忠平どのが大臣・関白になればこの国の政治ももっと良くなるような気がするのよね。それに比べると時平どのは何を考えているかわからない。自分の権力欲のためなら何でもやってしまいそうな気がする。うーん、これからの敦仁のことはちょっと心配。

 でもこれだけは言えそう。藤原氏は何があっても臣下。皇族の誰を帝にするかを決めたり、その帝を退位させたりすることはできても、絶対にこの国の帝そのものにはなることができないのよ。
 帝位などとうてい望めなかったわが夫、時康親王さまが踐祚したことは思いがけない出来事だったけれど、私の役目は親王さまの子を生み、皇族を反映させることだったのかもしれないわ。そしてこれからの歴代の帝には私と親王さまの血が脈々と受け継がれていく。千年後もずっと…。それだけは確かなことだわ。

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☆班子女王プロフィール
 生没年 833?~900 光孝天皇の女御 後に皇太后
 父・仲野親王(桓武天皇の皇子) 母・当麻氏
 若い頃に仁明天皇第三皇子時康親王に嫁し、四男四女をもうける。
 元慶八年(884)、時康親王が踐祚して光孝天皇となったことに伴い女御となる。
 仁和三年(887) 光孝天皇崩御。臣籍に下って源姓を賜っていた息子定省が皇族に復帰して踐祚。つまり宇多天皇である。宇多天皇踐祚に伴い皇太后となる。
 寛平九年(897) 宇多天皇退位。皇子敦仁が醍醐天皇として踐祚。
 班子女王は天皇の母・祖母として特別待遇を受け、平穏な晩年を送ったものと思われる。


☆付記
 私の中での班子女王は、「明るくて社交的でユーモラスな性格の人物」です。それで、彼女のそんな明るいキャラクターを表に出したくて、あえてこのような形にさせていただきました。
 なのでこの項は私の推察や妄想がかなり入っています。
 そこで、自分が感じている班子女王のイメージと違う」と思われた方もたくさんいらっしゃるかもしれません。辛口な反応も来そうでちょっと怖いです(ドキドキ)。
 そのようなわけでこの項は、小説を読むような軽い気持ちで読んで頂けましたら幸いです。

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