日本史上のライバルというと、みなさまはどなたとどなたを連想されるでしょうか?
上杉謙信と武田信玄とか、中大兄皇子と大海人皇子などというのが一般的だと思います。
平安時代に限定した場合は、紫式部と清少納言というのが真っ先に思い浮かんでくるのではないでしょうか。私も以前はそうでした。
でも、平惟仲(たいらのこれなか)と藤原在国(ふじわらのありくに)のことを知ってからは、平安時代のライバルといったら真っ先にこの方々が思い浮かんでくるようになりました。とにかく面白いライバルですので、しばらくおつき合い下さいね。
まず、二人の簡単なプロフィールから紹介させていただきます。
平惟仲(944~1005)
彼は、先日ちらっと紹介した平高棟の子孫です。ちなみに、平時忠と時子・滋子は惟仲のいとこ、平親信の子孫になります。
藤原在国 後に有国と改名(943~1011)
彼は、摂関家の祖となる藤原冬嗣の兄、真夏の子孫です。この家も、時々公卿を出したこともありますが、実務官人として活躍する者を多く輩出する中級貴族という家格です。なお、彼の子孫は後世日野家となり、浄土真宗の開祖親鸞や、足利将軍の御台所を何人か出しています。
このように、二人は年齢も家格もほとんど同じでした。
二人がいつどこで出会ったのかは全くわかりませんが、村上天皇御代の文章生二十人の中に二人の名前があることから、文章生の同僚だったことは明らかです。つまり、今の感覚でいうと大学の同級生で、机を並べていたということでしょうか。
やがて官界にデビューした二人は、同じようなコースで少しずつ出世していきました。そして、二人とも藤原兼家の家司になりました。つまり、兼家の側近になったわけです。この頃の二人は、お互いにお互いを意識していたとは思うのですが、まだライバル意識というものは芽生えていなかったと思います。それどころか、かなり親しい友人だったのではないでしょうか。私が二人についての小説を書くならそのような設定にします。
その頃の藤原兼家は、兄である関白兼通によって出世の道が閉ざされているといった不遇の時代でした。兼通の死後も、関白の座はいとこの藤原頼忠に移ってしまいましたし…。
しかし、兼家の娘で、円融天皇の女御になっていた詮子が産んだ懐仁親王は、円融天皇から花山天皇へ譲位されたことによって皇太子になりました。つまり、兼家は皇太子の祖父となり、権力の座に一歩近づいたわけです。
「早く懐仁親王を帝位に……」と思った兼家は、策略を用いてそれを実行します。
その頃の花山天皇は、寵愛していた女御に死なれ、世をはかなんでいました。兼家はそこにつけ込んだのです。幸い、兼家の息子の一人、道兼がその頃五位蔵人で、花山天皇の許に仕えていました。
道兼は、世をはかなんでいた花山天皇に、「一緒に出家しましょう。私は帝にいつまでもついていきます。」とそそのかしました。花山天皇もすっかり信用して、道兼と一緒にこっそり内裏を抜け出したのでした。もちろん、道兼は出家する気など全くなかったのです。花山天皇が剃髪したのを確かめると、「私はこの姿を父上に見せてから出家します。」と言ってさっさと逃げ出してしまいます。花山天皇がだまされたことに気がついたときはもう遅く、三種の神器は懐仁親王の許に移っていました。すなわち一条天皇の誕生です。
こうして兼家は孫の即位によって摂政となりました。彼の側近である惟仲と在国にも運が向いてきたわけです。そして、二人がお互いをライバルと意識し始めたのもこの頃からだったのではないかと思います。
摂政就任当時すでに五十代半ばだった兼家は、自分が死んだあとの跡継ぎのことも考え始めていました。彼には、正妻時姫との間に道隆、道兼、道長、また、「蜻蛉日記」の作者藤原倫寧女との間に道綱と、多くの子息がいました。でも、その中で兼家が跡継ぎ候補として考えていたのは、時姫所生の年上の二人の息子、道隆と道兼だったようです。そこで兼家は、惟仲と在国の意見を聞くことにしたのでした。
在国は、「花山天皇を退位させて今の帝を即位させ、さらに殿を摂政にした功績は道兼殿にあります。」なので、「跡継ぎは道兼殿にすべきです。」と進言しました。
ところが、それを知ってか知らずか、惟仲は、「こういう事は長幼の順を守るべきです。よって、跡継ぎは道隆殿になさいませ。」と進言したのでした。兼家は、結局惟仲の意見を受け入れることになります。永祚二年(990)、兼家は摂政を道隆に譲り、間もなく世を去ることになります。
摂政を譲られた道隆は、自分を跡継ぎに推薦しなかった在国に対して、ものすごい復讐をすることになるのです。
その頃の在国の官職は、蔵人頭兼右大弁兼勘解由長官でした。まず、道隆は在国の位階を従三位に昇進させます。しかし、従三位に叙された時点で蔵人頭は辞めるというのがその頃の決まりとなっていました。当然在国は、決まりに従って蔵人頭を辞めることになります。そして、彼の後任の蔵人頭は道隆の子息、伊周でした。つまり道隆は、自分の息子を蔵人頭にするために、在国を従三位に叙したわけです。
次に道隆のやったことは、在国の残った官職のうち、右大弁を解任することでした。まだ勘解由長官が残っていましたが、この勘解由長官という官職は、当時すでに有名無実の名ばかりの官職になっていたのでした。つまり、在国は無職にも等しい身の上になってしまったのです。
そして、替わりに右大弁を譲られたのは……、何と、道隆を跡継ぎに推薦してくれた惟仲だったのでした。実は、惟仲は在国より一歩遅れるような感じで弁官コースを昇進していたので、順送りと言えばそれまでなのですが、このような状態になってみると、在国を押しのけて昇進したと言ってもいいわけです。
そのうえ在国は、唯一の官職であった勘解由長官も、位階の従三位も、一時的にではありますがその後剥奪されてしまいます。道隆が自分を推薦しなかった在国に対して、かなりの憎悪を持っていたことがわかります。
こうしてみてくると、惟仲と在国は、兼家が摂政になってからはお互いにものすごいライバル意識を持っていたと思ってしまいます。二人は、兼家の邸などでも顔を合わせることが多かったでしょうし、当然話をすることも多かったと思います。なので、お互いの意向は分かり切っていて、その上で別々の子息を兼家に推薦したのではないでしょうか。特に、一歩遅れて昇進していた惟仲の、在国に対する屈折した気持ちは手に取るようにわかるような気がします。しかし、このような結果、在国がほとんど無職の状態になるなどは夢にも思わなかったでしょうけれど…。
さて、在国がやっと復帰をするのは、道隆の死後(道兼もすでに亡くなっているのですが、ここでは詳しくは触れないことにします。)、道長が内覧(実質的には関白とほとんど変わりません。)となったあとでした。大宰大弐として大宰府に赴任することになったのです。この官職は、大宰府の長官にも等しいおいしい官職であり、今まで無職同然だった在国は大喜びで大宰府に赴任していったと思います。
一方の惟仲も、順調に出世して中納言になりました。そして在国が大宰大弐の任期を終えて帰京したのと入れかわるように、惟仲は大宰帥(公卿補任では大宰権帥)として大宰府に赴任することになります。
しかし惟仲は、大宰帥の任期途中に宇佐八幡宮と問題を起こして、大宰帥を解官されてしまいます。そして解官された翌年、寛弘二年(1005)に、京に帰ることなく大宰府で薨じました。
京で盟友の死を聞いた在国は、いったいどのように思ったのでしょうか…。若い頃からの二人の思い出を静かに回想していたのか、「出世競争もこれで終わった」と何となくほっとしたのか……。いずれにしても、思うことは多かったはずです。
彼はすでに有国と改名し、参議になっていましたが、その後6年ほど生き、寛弘八年(1011)に薨じます。晩年に宇佐八幡宮と問題を起こし、大宰府で薨じた惟仲に比べると、在国の晩年は平穏なものだったと思います。
こうして二人の生涯を見てみると、本当に共通点が多いのに気がつきます。文章生の同僚だったこと、藤原兼家の家司を勤めたこと、大宰府に赴任していること、最終的に位階が従二位(但し、官職に関しては惟仲が中納言、在国が参議なので、惟仲の方が上席)などです。
また、惟仲の妻は藤三位と言って一条天皇の乳母でした。そして、在国の妻は橘三位と言って、やはり一条天皇の乳母でした。ということは、妻たちもかなりのライバル意識を持っていたのではないかと、詮索したくなってしまいます。
いずれにしても、これだけ共通点が多く、兼家に対してはっきり別々の意見を言い、同じようなコースで出世をして、常に相手を意識していた二人です。平安時代、いや、日本史の中でも、これだけ面白いライバルは、めったにいないのではないでしょうか。
私は惟仲と在国を思うとき、いつもつくづくこのような感じを抱きます。
上杉謙信と武田信玄とか、中大兄皇子と大海人皇子などというのが一般的だと思います。
平安時代に限定した場合は、紫式部と清少納言というのが真っ先に思い浮かんでくるのではないでしょうか。私も以前はそうでした。
でも、平惟仲(たいらのこれなか)と藤原在国(ふじわらのありくに)のことを知ってからは、平安時代のライバルといったら真っ先にこの方々が思い浮かんでくるようになりました。とにかく面白いライバルですので、しばらくおつき合い下さいね。
まず、二人の簡単なプロフィールから紹介させていただきます。
平惟仲(944~1005)
彼は、先日ちらっと紹介した平高棟の子孫です。ちなみに、平時忠と時子・滋子は惟仲のいとこ、平親信の子孫になります。
藤原在国 後に有国と改名(943~1011)
彼は、摂関家の祖となる藤原冬嗣の兄、真夏の子孫です。この家も、時々公卿を出したこともありますが、実務官人として活躍する者を多く輩出する中級貴族という家格です。なお、彼の子孫は後世日野家となり、浄土真宗の開祖親鸞や、足利将軍の御台所を何人か出しています。
このように、二人は年齢も家格もほとんど同じでした。
二人がいつどこで出会ったのかは全くわかりませんが、村上天皇御代の文章生二十人の中に二人の名前があることから、文章生の同僚だったことは明らかです。つまり、今の感覚でいうと大学の同級生で、机を並べていたということでしょうか。
やがて官界にデビューした二人は、同じようなコースで少しずつ出世していきました。そして、二人とも藤原兼家の家司になりました。つまり、兼家の側近になったわけです。この頃の二人は、お互いにお互いを意識していたとは思うのですが、まだライバル意識というものは芽生えていなかったと思います。それどころか、かなり親しい友人だったのではないでしょうか。私が二人についての小説を書くならそのような設定にします。
その頃の藤原兼家は、兄である関白兼通によって出世の道が閉ざされているといった不遇の時代でした。兼通の死後も、関白の座はいとこの藤原頼忠に移ってしまいましたし…。
しかし、兼家の娘で、円融天皇の女御になっていた詮子が産んだ懐仁親王は、円融天皇から花山天皇へ譲位されたことによって皇太子になりました。つまり、兼家は皇太子の祖父となり、権力の座に一歩近づいたわけです。
「早く懐仁親王を帝位に……」と思った兼家は、策略を用いてそれを実行します。
その頃の花山天皇は、寵愛していた女御に死なれ、世をはかなんでいました。兼家はそこにつけ込んだのです。幸い、兼家の息子の一人、道兼がその頃五位蔵人で、花山天皇の許に仕えていました。
道兼は、世をはかなんでいた花山天皇に、「一緒に出家しましょう。私は帝にいつまでもついていきます。」とそそのかしました。花山天皇もすっかり信用して、道兼と一緒にこっそり内裏を抜け出したのでした。もちろん、道兼は出家する気など全くなかったのです。花山天皇が剃髪したのを確かめると、「私はこの姿を父上に見せてから出家します。」と言ってさっさと逃げ出してしまいます。花山天皇がだまされたことに気がついたときはもう遅く、三種の神器は懐仁親王の許に移っていました。すなわち一条天皇の誕生です。
こうして兼家は孫の即位によって摂政となりました。彼の側近である惟仲と在国にも運が向いてきたわけです。そして、二人がお互いをライバルと意識し始めたのもこの頃からだったのではないかと思います。
摂政就任当時すでに五十代半ばだった兼家は、自分が死んだあとの跡継ぎのことも考え始めていました。彼には、正妻時姫との間に道隆、道兼、道長、また、「蜻蛉日記」の作者藤原倫寧女との間に道綱と、多くの子息がいました。でも、その中で兼家が跡継ぎ候補として考えていたのは、時姫所生の年上の二人の息子、道隆と道兼だったようです。そこで兼家は、惟仲と在国の意見を聞くことにしたのでした。
在国は、「花山天皇を退位させて今の帝を即位させ、さらに殿を摂政にした功績は道兼殿にあります。」なので、「跡継ぎは道兼殿にすべきです。」と進言しました。
ところが、それを知ってか知らずか、惟仲は、「こういう事は長幼の順を守るべきです。よって、跡継ぎは道隆殿になさいませ。」と進言したのでした。兼家は、結局惟仲の意見を受け入れることになります。永祚二年(990)、兼家は摂政を道隆に譲り、間もなく世を去ることになります。
摂政を譲られた道隆は、自分を跡継ぎに推薦しなかった在国に対して、ものすごい復讐をすることになるのです。
その頃の在国の官職は、蔵人頭兼右大弁兼勘解由長官でした。まず、道隆は在国の位階を従三位に昇進させます。しかし、従三位に叙された時点で蔵人頭は辞めるというのがその頃の決まりとなっていました。当然在国は、決まりに従って蔵人頭を辞めることになります。そして、彼の後任の蔵人頭は道隆の子息、伊周でした。つまり道隆は、自分の息子を蔵人頭にするために、在国を従三位に叙したわけです。
次に道隆のやったことは、在国の残った官職のうち、右大弁を解任することでした。まだ勘解由長官が残っていましたが、この勘解由長官という官職は、当時すでに有名無実の名ばかりの官職になっていたのでした。つまり、在国は無職にも等しい身の上になってしまったのです。
そして、替わりに右大弁を譲られたのは……、何と、道隆を跡継ぎに推薦してくれた惟仲だったのでした。実は、惟仲は在国より一歩遅れるような感じで弁官コースを昇進していたので、順送りと言えばそれまでなのですが、このような状態になってみると、在国を押しのけて昇進したと言ってもいいわけです。
そのうえ在国は、唯一の官職であった勘解由長官も、位階の従三位も、一時的にではありますがその後剥奪されてしまいます。道隆が自分を推薦しなかった在国に対して、かなりの憎悪を持っていたことがわかります。
こうしてみてくると、惟仲と在国は、兼家が摂政になってからはお互いにものすごいライバル意識を持っていたと思ってしまいます。二人は、兼家の邸などでも顔を合わせることが多かったでしょうし、当然話をすることも多かったと思います。なので、お互いの意向は分かり切っていて、その上で別々の子息を兼家に推薦したのではないでしょうか。特に、一歩遅れて昇進していた惟仲の、在国に対する屈折した気持ちは手に取るようにわかるような気がします。しかし、このような結果、在国がほとんど無職の状態になるなどは夢にも思わなかったでしょうけれど…。
さて、在国がやっと復帰をするのは、道隆の死後(道兼もすでに亡くなっているのですが、ここでは詳しくは触れないことにします。)、道長が内覧(実質的には関白とほとんど変わりません。)となったあとでした。大宰大弐として大宰府に赴任することになったのです。この官職は、大宰府の長官にも等しいおいしい官職であり、今まで無職同然だった在国は大喜びで大宰府に赴任していったと思います。
一方の惟仲も、順調に出世して中納言になりました。そして在国が大宰大弐の任期を終えて帰京したのと入れかわるように、惟仲は大宰帥(公卿補任では大宰権帥)として大宰府に赴任することになります。
しかし惟仲は、大宰帥の任期途中に宇佐八幡宮と問題を起こして、大宰帥を解官されてしまいます。そして解官された翌年、寛弘二年(1005)に、京に帰ることなく大宰府で薨じました。
京で盟友の死を聞いた在国は、いったいどのように思ったのでしょうか…。若い頃からの二人の思い出を静かに回想していたのか、「出世競争もこれで終わった」と何となくほっとしたのか……。いずれにしても、思うことは多かったはずです。
彼はすでに有国と改名し、参議になっていましたが、その後6年ほど生き、寛弘八年(1011)に薨じます。晩年に宇佐八幡宮と問題を起こし、大宰府で薨じた惟仲に比べると、在国の晩年は平穏なものだったと思います。
こうして二人の生涯を見てみると、本当に共通点が多いのに気がつきます。文章生の同僚だったこと、藤原兼家の家司を勤めたこと、大宰府に赴任していること、最終的に位階が従二位(但し、官職に関しては惟仲が中納言、在国が参議なので、惟仲の方が上席)などです。
また、惟仲の妻は藤三位と言って一条天皇の乳母でした。そして、在国の妻は橘三位と言って、やはり一条天皇の乳母でした。ということは、妻たちもかなりのライバル意識を持っていたのではないかと、詮索したくなってしまいます。
いずれにしても、これだけ共通点が多く、兼家に対してはっきり別々の意見を言い、同じようなコースで出世をして、常に相手を意識していた二人です。平安時代、いや、日本史の中でも、これだけ面白いライバルは、めったにいないのではないでしょうか。
私は惟仲と在国を思うとき、いつもつくづくこのような感じを抱きます。