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英語脳をつくる!~日本人はいかに効率良く英語を学べるか~

英語学習に関する事いろいろです。日本人がいかにすれば実用英語を身に付けられるか、その最短距離を考察!

英語学習法(90)

2005年08月07日 | 変形
一般には、「省略」として扱われている現象についてです。以下、見ましょう。

(1)It seems that Jack is a good teacher. (ジャックは良い教師のようだね。)
(2)Jack seems to be a good teacher. (訳同上)

(1)と(2)は、ほぼ同じ意味をもっていると思われます。加えて、(1)と(2)の関係は、(1)の‘that’節内の主語‘Jack’「ジャック」が、(2)では、‘seem’の主語位置に移動する、という、「変形」によって、結び付けられる表現であることも、確立されているものと思われます。 (EG62、参照)

(3)Jack seems a good teacher. (〇) (訳同(1))

ところで、(2)から、さらに、(3)のような文にすることもできます。見て、おわかりの通り、(2)から、‘to be’を消去しているわけですね。実は、英語には、特定の構文において、よく、‘to’不定詞が‘to be’の場合、その‘to be’を消去する、といったことがあるんです。しかし、日本語訳は、(1)~(3)まで、全て同じですから、ただ、カタチが変化しただけで、意味には、違いがない、ということになりますね。

じゃ、カタチばっかり変わっていて、意味に差がないなんて、英語はムダが多くて、エラく不経済なコトバだな、と感じるかも知れません。しかし、今回、英語は、こういったことに関しては、実際、そうでもなさそうだ、というお話をしてみたいと思います。まず、以下を見てみましょう。

(4)It seems that Jack is a teacher. (〇) (ジャックは教師のようだね。)

(5)Jack seems to be a teacher. (〇) (訳同上)

(6)Jack seems a teacher. (×) (訳同上)

(1)~(3)では、最後の表現に、‘a good teacher’を使っていたんですが、そこから、‘good’を消して、(4)~(6)では、‘a teacher’に変えてみました。すると、(4)と(5)は、OKのままなんですが、一方、何と、(6)がアウトになってしまいました。これは、どういうことなんでしょうか。

問題は、‘a good teacher’「良い教師」から、‘good’「良い」を消去したことで、発生したわけですから、もちろん、‘good’の有無に原因がある、と考えなければなりません。そこで、‘good’の有無には、どういった影響力が潜んでいるのか、ということですが、まず、以下の比較を見ましょう。

(7) a. very good teacher (〇) (とても良い教師)、
   b. pretty good teacher (〇) (かなり良い教師)、
   c. a little good teacher (〇) (ちょっと良い教師)

(8) a. very teacher (×) (とても教師)
   b. pretty teacher (×) (かなり教師)
   c. a little teacher (×) (ちょっと教師)、

(7a-b)の表現は、全てOKですが、一方、(8a-b)の表現は、対応する日本語に対しては、全てアウトです。 (違う意味でなら、OKになるものもあります。) ここから、明らかにわかるのは、「程度」の表現が適合するか、否か、です。‘good’は、どのくらい、「良い」といえるのか、‘very’「とても」や、‘a litttle’「ちょっと」、といった表現を付け足して、その「程度」を表すことが可能です。

しかし、一方で、‘teacher’「教師」という表現そのものは、「程度」を問題にすることが不可能で、「教師」でなければ、別の職種だな、となるだけのことなんですね。つまり、「教師」であるか否かは、誰が見ても一律に、「〇・×」式に、ハッキリと、判断が下せるわけです。つまり、‘teacher’は、「客観」表現と言ってもよいでしょう。

しかし、「程度」という概念は、誰が見ても、ハッキリとした明確な基準があり、線引きが可能な概念か、というと、そうでもありません。あるヒトからみれば、「とても良い」モノが、他人から見れば、何であんなモンが良いんか?となることは、よくあることですからね。つまり、‘good teacher’は、「主観」表現であると言えますね。

そこで、(3)と(6)に戻って、どうやら、(3)のような、‘seem’の直後に‘to be’がない文は、「主観」に依存する判断が好まれるようなのです。そこで、(6)がアウトである理由は、主観的な判断に依存しにくい文になっているためだ、と言えます。では、今度は、「客観」の側からの判断を考えてみます。

(9)It seemed that Jack was a good teacher、but it didn't seem
   that he was a good teacher. (×)
  (ジャックは良い教師に思われたが、そうではないようだった。)

そこで、今度は、(9)ですが、‘but’「しかし」を挟んで、前半と後半の文は、同じ、「‘it seems’+‘that’節」の構文を使っています。そして、(9)はアウトになっています。ここから、どういったことが言えるんでしょうか。その前に、以下の比較材料をみて下さい。

(10)It seemed that Jack was a good teacher、but he didn't seem
  (to be) a good teacher. (〇) (訳同(9))

(10)では、(9)の後半の文を、‘seem (to be) ~’の構文に変えて、OKになりました。つまり、(9)と(10)の可否から、「‘it seems’+‘that’節」の構文は、主観に強く依存する判断を好まない、と結論づけてよい、と言えます。

と言うのも、もし、「‘it seems’+‘that’節」の構文が、「主観・客観」の判断に対して、割と無頓着な構文であるなら、(9)は、前半の文と後半の文を、自由に、「主観的判断+‘but’+客観的判断」というようにしたり、逆に、「客観的判断+‘but’+主観的判断」というように、それぞれ、別々の解釈を与えれば、矛盾なく解釈できるはずだからです。

しかし、後半に主観的判断が好まれる、‘to be’消去タイプの‘seem a good teacher’を使った(10)の場合、OKになるわけですから、「‘it seems’+‘that’節」の構文は、客観的判断が好まれる、とするよりありません。

そして、さらに、‘seem to be ~’のタイプも、(10)では、OKであることからは、「‘it seems’+‘that’節」の構文と、矛盾を起こさない程度には、主観的である、と言えると思います。(もちろん、‘to be’消去タイプの方が、主観依存度が強いのは、(5)と(6)のコントラストから、明らかです。)

つまり、(10)の詳しい状況解釈は、ジャックの教師としての仕事ぶりに関して、何らかの調査が成されて、提出された調査結果を資料として見て、ジャックは良い教師である、と思っていたのに、実際、現場に出向いて、ジャックの仕事ぶりを見ていると、自分には、そうは思えない、という、「資料」という客観性の強い判断と、「自分の印象」という主観性の強い判断との間に、食い違いが起こっているような場面です。

今回のポイントは、(1)~(3)のような、関連性が高いと思われる構文には、「客観・主観」の段階性という、一連の流れがある、ということです。(1)は、客観性の強い判断であると思われるような場合に好まれ、一方、(3)は、主観性の強い判断であると思われるような場合に好まれます。

意味的には、どれも同じである、とは言っても、その「使用環境」に関しては、同じではない、ということなんですね。こういったことは、英語の様々な側面から見受けられることなので、また機会を改めて、いろいろと見ていきたいと思います。

●関連: EG62

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