えみこころ便

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「よのなか」とリテラシー

2010-11-12 02:25:14 | 多世代交流
「常識とは、十八歳までに身に付けた偏見のコレクションのことをいう。」

20世紀の最も優れた科学者アインシュタインの言葉です。


中学・高校と公立でしたが、比較的自由な校風だったため、自己管理ができないと、楽な

方に流されてしまう環境にいました。それでつい甘えが出て、後悔することもしばしば。

そんな苦い経験を経て、それ以降自分で考える力、生きていく力を身につけなければと思う

ようになりました。


まだ今のように、情報が氾濫していなかったときでさえも、たくさん悩み、失敗を繰り

返してきたものです。さらに、今のネット社会では、さまざまな情報が入ってくるぶん、

正解のない問題にアプローチする力、また、情報を活用したり、選択したりする力を身に

つけておくことが、今後社会に出るうえで、また今の私にとっても、一番必要なチカラに

なってきています。


最近、「よのなか科」という言葉を知りました。


総合学習の一環としての授業で、例えばハンバーガー店などを事例に仕事や商売について

考えるような、身近な事例から社会や暮らしや人間について考察を広げていく内容なんだ

そうです。テーマについて、知識や経験のある地域の大人たちをゲストとして教室に招き、

そこで一方的にスピーチをしてもらうのではなく、子どもに問いかけ、心に湧いた疑問など

に正直に受け答えをしてもらう。他人とディスカッションするうちに、ものの見方が変わった

り、思いが深化するということを身につける授業でもあるようです。


東京都初の民間人校長(現大阪府教育委員会特別顧問)であった藤原和博さんのいた、

杉並区立和田中学校では、「よのなか科」を公開授業として、実施し、保護者や大人も

参加できるようになったらしく、定年で退職した会社員に来てもらったこと、ホームレス

の方に来てもらったこともあるんだとか!


「ナナメの関係」を学校のなかに取り入れるための手法と、藤原氏はある本で述べていま

した。ちなみに、親子や教師と生徒はタテの関係、友達はヨコの関係だとすると、利害関

係のない第三者と子どもの関係を「ナナメの関係」と呼ぶようです。


初めて見た大人のなんだか分からない話にインパクトを受けたり、両親の死に立ち合った

話を聞いてショックを受ける。こういう体験を通して、決まりきった意見を言うだけでは

ない、公の場におけるコミュニケーションができる「リテラシー」の能力の高い人間を

育てていこうと。「よのなか科」は「算数のような、正解がひとつではない課題を大人

と子どもが一緒になって考える教科」という位置づけのようなのです。


昨日、買った本の表記が「障がい者」になっていることに気がつきました。

そして、ネット検索し、NHK福祉ポータルのハートネットボイスにたどりつきました。

そこには、たくさんの意見が寄せられていて、傍観者だったことに気づき、ショックでした。

このようなポータルサイトでの情報発信も、自分のこととして真剣にとらえるか、他人事

になってしまうのか、読む人の感受性にかかってくるところもあると思います。


もしも、「よのなか科」で、このようなことを考える機会があれば、もっとひとを大切に

思うこころ、そして地域とつながっていることを感じられるのかもしれません。


私は、これからは「障がい者」よりも、優先座席にもあるように「優先者」と呼んでみよう

と思いました。が、呼び名をどうするかといった、表面的なことより、本当は内面からの

思いやりや支え合いが必要なのかもしれませんね。

自分の住んでいる街や近所には、障害を持った人も生活している。

自分の働く職場にも、障害を持った人が働いている。

障害者が特別なのではなく、当たり前に溶け込み生活している…

障害を持った人も、積極的に社会へ溶け込み、できる範囲で参加、協力できることが大切

なんだと思いました。


*以下のご意見をいただいたので、加筆修正させていただきました。

「息子が知的障害です。障害者でいいです。害の文字も全く気になりません。

世間に害を与えていると言ういみじゃないですから。障害というものを持って生きている

と言う意味ですから。優先して欲しいことは有りません。理解して欲しいだけです。」


小さなことでもいい、「いい」と思ったことを、まずはやってみようと思います!

人生のどんな局面でも、「やわらかな頭」を持って、柔軟に修正していきたいです。