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ハラナさんへのトラックバック2コ目

2006年12月02日 00時01分06秒 | 教育・学習法
この記事は「タカマサの気まぐれ時評」の「文化資本・地域格差・受験文化」へのトラックバックです。


ハラナさん、荒っぽい記事にていねいなトラックバックをいただきありがとうございます。
論点落としなんてありません。ラフに書いたものだから(笑)。

そうですね。わたしのほうから付け加えることがあるとすれば。。。。

1.受験にはジェンダー差もある。若い世代になればなるほど差が縮まっているとはいえ、以前としてジェンダー格差は無視できない。

2.地方ー都市の格差とともに、日本では国公立と私立の格差が大きい。

の2点です。

1.ですが、やはり思春期以降、女の子は出来る子は女の子らしくないというアイデンテイティの混沌を経験すると思います。
また、男の子の間にも、勉強がよくでき=男の子らしさの証とする風潮はなくなりにくいのではないでしょうか。
周りの上の世代もタテマエでは否定しながらホンネではそれを認めたり求めたりする傾向は今も保守的な田舎を中心として存在します。

2.国公立ー私立の格差について。
やはり私立のほうが不利な労働市場にいると、いろんなつきあいを通じて思います。
また、国公立のほうが多少なりとも、たとえテストの枠内であっても因果関係、メカニズム、表現力や独創力などを発揮したほうが入れます。
私立文系のテスト文化は悲惨です。赤本を見比べるだけで明らかです。それも、早慶上智とか、関関同立などトップ・準トップの大学の入試であっても基本的に同じ傾向です。
以前予備校にいたころ、小論文の問題だけは東大と京大のものを講師が選び、解いたことがあります。それほど難しいとは思わなかった。僭越ながら、そのころ自分が書いていた文章のほうが難しかったような記憶も……(笑)。
京大・阪大の英語の過去問もやりましたけど、会話・発音がないのがいかにも学校英語。それに十代の若者に数十年前の文学や科学雑誌の記事みたいなのを読ますのはアホらしい。これじゃ近年の本や雑誌はかえって読めなくなる? 阪大の自由英作文はまあまあ面白かったような。京大の読解問題は、あれをマジでやると「現代思想おたく」ができそうですね(笑)。
国公立はまあテスト文化といっても相対的にはマシだし、入った後の周囲の対応も異質のようですね。それも、おかしなことに、偏差値が高い学校の問題のほうがやさしいというか、少なくともなじみのあるものが出題されているみたいです。
入ったあとの教員の期待度の差や、学生一人当たりの教員の数、学生ひとりあたりの図書館の本の数などをカウントしても、断然国公立有利でしょう。
ちょっとキャンプや合宿で雑談をしていても、国公立大出身者のほうがもれなく勉学しており、中途半端を嫌い、粘り強いといった傾向はあると思うんです。
それから、私立のちょっと名の知れたところを出た人のほうがロコツに人を見下し、そのための姑息な情報操作をします。ある関西の私大出の人が、学校の外で学び子どもたちを農場でタダ働きさせている業者を批判したフリースクーラーを口頭で紹介したさい、「で、そのAさんが、不登校の子らをムリヤリ働かせていた、ということですね」と切り替えされたときには、たいへん驚きました。

あともう少しくわしく展開したい点も。古本屋について。

関東の古本屋事情の紹介、ありがとう。関東の友人から、本郷と早稲田の前にはいっぱい古本屋があるという話は聞いてはいたのですが、まだ行ったことがありません。都丸書店、はじめて知りました。なんか、サイトをのぞいただけでスゴく充実してるっぽいお店ですね。

関西も大きな街ですから、大学とは別枠の古書店もあります。
梅田のカッパ横町にある阪急・古書の街はけっこうレアな専門書があります。
そのほか、上本町六丁目、三宮、河原町などには大きい街ゆえの古本屋があります。特に三宮の後藤書店は明治時代からの老舗です。そのほか京都の寺町通りは、昔お寺さんがあったところらしく、仏教書ばかりおいてある本屋・古本屋が点在し、その他小さくてもいい本屋・古本屋が高密度で営業しています。

ただ、田舎のほうは量・質共に難しいです。
さらに言うと、都会のほうが本を通じ他活発な議論・会話がある。
本好きが2人以上寄ると、最近読んだ本の話、互いの関心テーマにそって「それに関する○◎って本が大阪の中之島の図書館に置いてあるよ」などの会話がある。
こうして、人とつきあうために必要だし、読んでいればつきあいが盛り上がる環境がなければ、なかなか風変わりな本を読む気になれないでしょう。
そのための喫茶店文化もやはり都市・特に大都市のほうが充実・洗練されています。
梅田の紀伊国屋なんかそうなんですが、本屋で本好きの男の子が女の子をナンパするために本を読んで喫茶店に誘ったり(笑)、そういう日常的に楽しく本を読んだりおしゃべりしたりする文化ってなかなか田舎のほうでは難しい。


地方ー都市の格差について。

実家が田舎、実家の実家がもっと田舎なので痛感します。実家は人口50万の県庁所在地、母方の実家は人口十数万の小都市にあります。
人口十数万の都市にもなると、近所に高等教育機関がなく、塾も少なく、本屋にもあまり参考書が置いていません。大人たちの資格取得熱もあまり高くありません。
その町のブックオフ風の新しい古書店に入っても、京阪神圏ならコンビニにあるような品揃えしかありません。
辺鄙な村に行くと、小さい町・村に本屋がひとつもない、あるとしても販売システムの関係で、岩波新書がおけない店も珍しくありません。
これはネット世界にも反映されている。画面を通じて本が無料か格安価格で読めるようにならないかぎり、都会はますます読書に関する情報交換がネット。リアル双方でさかんになり、田舎はとりこぼされる。しかも、ネット普及以前であればそのことに劣等感や疎外感を感じずにすんだものが、感じるようになるだろう。

英才教育・エリート教育について

ダライ・ラマ方式というのか、一本釣りで、見る目のあるお師匠さんがこれはという育ててみたいお弟子さんを見つける。その子をていねいに育ててゆく。それしかないでしょうね。
親の財産と偏差値で上のほうの1割をとって……という方式では、普通よりもちょっと器用だとか、早熟だとかいう程度の大人でしょう。
日本の学校教育が硬直した学年制・クラス制に縛られていることも英才教育には向きません。学校に入学する時期も、同じ講義を受講する人も、前後2-3歳は異なっていて当然、という環境でなくては、本当の意味で同世代の競争といいがたいし、また先輩が自然と敬意を集めて年下の子のめんどうを見るということも起こらないでしょう。
とはいえ社会的隔離所・学校の枠内の改革ですけど。やらないよりはマシでしょ
う。
クラス制度については内藤 朝雄や宮台 真司らが広告しているとおり。廃止、もしくは柔軟な運用・形骸化が早急に求められています。
海陽型の新型エリート校は、財界年配者のヨーロッパ崇拝と集団エゴイズムのたまものですね。
エリート校とはいっても、歴史や伝統がないというのはもの足りない。どうしてこれまでのエリート校・準エリート校にテコ入れしてはいけないのかも、分からない。(別に灘・開成や旧制高校・旧制中学を礼賛しているわけではないのでご注意を。)
それに、本当に家柄のいい旧華族クラス(旧・子爵家・男爵家など)ともなると、東大に落ちたら学習院というコースを歩むわけで。そのまえにだいたい東京あたりの選抜型幼稚や小学校、遅くとも中等教育の時期にはブランドの学校に入って、旧華族、旧財閥、政治家らの子中心の交友圏を築くわけですね。
また社長家ならば、中等教育のうちからの海外留学、特にアメリカ留学もオプションのうちでしょう。
そういう人たちは海陽タイプの「和製イートン」あってもなくてもいいでしょう。

古い頭の親御さんが、旧制中学・旧制高校幻想をもって、子どもをそうした学校にやることは考えられます。ただし、人脈的に見て、日本の上流・上層のなかの亜流・傍流の地位にとどまる可能性は高いと思いますね。(まあそんなところも50年ほどもたてば立場が変わってくるでしょうが。)

あと、財界・政界の手厚い期待とバックアップを受けて開始された以上、いじめ、「体罰」、不登校、成績不良や怠学などのスキャンダルが、通常の私立名門校以上に徹底した情報操作によって隠される可能もあるのではないでしょうか。
大人ー子ども、教師ー生徒という上下関係があるかぎり、少々「自治的」にやろうとも、やはり教師による生徒へのいやがらせが起こることも、他のタイプの学校と同じく考えられるでしょう。
階級・階層が「上」であっても、密室の中で、経験・知識などに圧倒的に差があるものどうしが同居する以上、いじめも「体罰」も起こりうると自分なら考えます。
それから先輩・後輩関係も同じように大変でしょうね。