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学力は社会によって

2005年09月13日 19時10分40秒 | 教育・学習法
↓ 以前、高専に通っていたことのある方のサイトを見て考えさせられた。
http://www.econ.tohoku.ac.jp/~nomura/impression.htm#050901

 そういえば、ある理工系の教官から、優秀な高専出身の技官について聞かされたことがある。その人は、がんばり屋で、単なるアシスタントではなく、事実上、共同研究者だったそうだ。その教授の研究内容をすみずみまで知っていて、知識・技術・アイデアともに豊富だという。
 だけど、彼は教授にはなれない。学歴のカベがあるからだ、とその教授は語った。ちなみに、その教授は、地方国立大学で学士号→関西の公立大学で修士号→関西の旧七帝大の博士号というルートをたどっている。彼は、毛色のかわった人間への、地方国立大学での「よそもの」へのいやがらせに足をとられて少し昇進は遅れたものの、最終的には教授になっている。学歴による身分格差と言えるのではないだろうか。
 ↑ のサイトに、高専出身者は教養が足りないという悪口も紹介されている。その教授の話していた技官の人は、海に潜って魚をとるのが得意だった。どこに魚がいて、どうすればうまくつかまえられるかについてとても詳しいのだ。彼は、たくさんとれた魚をクーラーボックスにつめて、教授の家に持っていった。すると、奥さんや子どもたちに喜ばれていたという。こうした海の知識・技術を教養、または学力とみなさないのは、偏狭な学校的感受性・学校的評価というものだろう。それは、近代西洋に偏ったイデオロギーに基づたものだ。
 結局、↑ の野村さんのサイトの記述を見ても、学力というのは、社会のニーズにあわせてつくられるのではないかと思う。学力の意味やニュアンスが不明確なのは、必然なのだ。「○○卒は△△の学力を有するものとみなす」というのは、時の政策によって、かなり左右されるのではないだろうか?
 一方、それは、産業界と、産業界との利益の合致する政府の要請する学力だ。ならば、別のタイプの学力もある、とも考えられる。
 教育世界独自の判断による学力。時代の流行・男性中心や白人中心の知識・文化を問い直す学力。や黒人コミュニティの改善のための学力。先住民のもつ川や森の知識、などなど。
 学ぶ行為も、社会とのかかわりのなかでなされる以上、100%周囲の社会やコミュニティの影響・要請から自由ではない。そのなかで、ある一定の自律性を保った学力とは? 人をハイアラキカルに選別しなくてもよいとき、学力の格差を問題にしたり、学力の上昇や低下を計測したりすることの意味は消え去るのではないだろうか?

(9/17読みやすくするために一部の表現をあらためました。大意は変わりません。)
 

 

1 コメント

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ありがとうございました (ハラナ・タカマサ)
2005-09-14 16:36:31
ワタリさん

トラックバック、ありがとうございました。

高専の、ウラがわかって、とても勉強になりました。



高専に就職したあと、大学などにステップアップする研究者は、そこそこいるようですけど、大学教員の公募条件をたしかめてみると、短大での教育経歴(常勤)は、大学に準ずるけど、高専は、そう位置づけないという、ロコツな差別待遇があるようです。高校生に対応する年齢層と科目が一緒だからでしょうけど。