学校のない社会 大学のない世界

学校のない社会、大学のない世界に興味・関心のある方、ともに集いましょう。大学教員によるトラックバック等はご遠慮ください。

管理者HN変更のお知らせ

2010年09月07日 02時04分07秒 | weblog
ブログ・タイトルの変更にともない、これまで使用してきた管理人のハンドル・ネーム「ぱれいしあ」を「でえすくえら」に変更しました。

でえすくえらは、スペイン語のdeescuela 非学校・脱学校 の意味です。

どうぞよろしくお願いいたします。m(__)m


ブログ名変更のお知らせ

2010年02月05日 20時39分30秒 | weblog
ブログ名をオルタナティブ塾 on blog →オルタナティブ・カフェ@近畿に変更しました。

塾よりも、街角にあり、ふらっと立ち寄るカフェのイメージのほうが、こちらのブログによりふさわしいと判断したからです。

この人とは関係ありません

2005年09月20日 23時08分27秒 | weblog
杉田 俊介 さん

当ブログは、これよりいっさいこの人とは関係がありません。

杉田さんには一度だけ京都に来られたときにお会いしました。フリーターに関するMLと新設予定の雑誌についての説明のための面談でした。
その際、ネット上の共通の知人のプライバシー暴露をされ、戸惑いました。差別・人権にからむ薬暦・病歴が含まれていたからです。もし、新しく作る予定の雑誌でそのようなことをかけば、人権無視で裁判になる、最悪の場合出版差し止め訴訟も覚悟せねばなりません。知り合いの編集者に聞いたところ、出版業界でもひとつの作法として、人に許可なく実名や住所などの固有名詞は出さない、薬歴・病歴ならばなおさら書かないとのことでした。別の同人誌の編集者に話を聞いても、同人誌・ミニコミ業界でも基本的に同じとのことでした。なんとひどいことをやるのか、とおどろき、あきれざるをえませんでした。彼は同人誌活動をしており、分泌のプロをめざして大学院に在籍していたこともあったり、プロの編集者ともつきあいがあると言いますが、その発言の信憑性を疑わざるを得ないふるまいです。
また、リアル世界でもネット世界においても、人の行動や意見ではなく内面を勝手に決めつけ裁くがごとき物言いには苦しめられました。人の意見ではなく、人格・人生全部を否定・侮辱・罵倒するのです。他人をいきなり完全無視するような無礼な接し方にも、びっくりしました。
そのほか、いきなり、脈絡もなく「セクトだ!」「政治的だ!」などと大声でさわがれました。これは根拠なき中傷であり、ヴォイス・レコーダーの記録等がもしあれば、名誉毀損とか侮辱罪で裁判で争そえる性質のものです。いかにもケンカ腰の身振り・口調・物言いには恐怖を与えられました。いつも相手を威嚇するような雰囲気を作っており、精神的な苦痛を追いました。
そのほか道徳的な説教も多く、内面を勝手に決めつけられたり特定の方向へ誘導しようとする、まるで「心のノート」のような操作性は不気味でした。
さすがに人が腰をかけてゆったりと読書するスペースで大声で騒がれたときには「周りの迷惑になる。静かに。」と注意するといったんは落ち着いたのですが、その後わけのわからないいやがらせめいた行為がありました。
おそらく彼の手によりものと推定される民族差別・差別・職業差別をあおる記述がありました。また、個人的には母と祖母を侮辱する記述もこの人によるものでしょう。

その後、ブログを拝見したのですが、ある経済学者をネオコン派の「一匹」と表記するなど、他者への敬意も見えず、下品で乱暴な情報を発信しています。

わたしは、法律や慣習を無視し、差別や人権蹂躙に加担する人とはつきあいを切ります。杉田さん、もう絶対にこちらのブログにこないでください。書き込みを見つけ次第削除します。それでも同じ行為を続けるのなら、出るところに出ることになるかもしれません。


誰に向かってブログを立てるか?

2005年03月25日 21時46分46秒 | weblog
 このブログを見て、自分のために書いてもらっていると受け取る人もいる。それはそれでありがたく、面白い。
 だが、わたしはこのブログを何よりも過去の自分自身のために書いている。正確に言い直すと、今からふりかえった過去の自分に向けて、だ。

 3歳、5歳、7歳、10歳、13歳の自分に向けて、ブログの記事をUPしている。
 わたしは幼稚園のころから通学をしたくなかった。小学校も行きたくないとばかり思っていたし、実際に行かない時期もあった。中学ではもうぜんぜん行かなくなった。それでフリ-・スク-ルに行ってめでたし、めでたしとはいかない。フリ-スク-ルは国内外を問わず、複数のところを廻るようになっている。しかし親はそれを認めない。せっかく行きだしたスク-ルも一週間や10日で返されてしまう。そうすると、座敷牢のような家に軟禁されてしまう。そのうち、外の世界が存在することも忘れてしまう。
 17で不本意にも予備校に行ったときには、絶望しかなかった。

 とりわけ13歳のころのわたしに向けてこのブログの記事は書かれている。ある知人はこのブログを見てこう言った。「まるで反抗期みたい。」
 実際、3歳とか13歳の自分に向けてメッセ-ジを送っているのだから、当たっているのだろう。
 今の私には、他人に向けてブログを建てるゆとりはない。ただ、学校や家や予備校に閉じ込められスポイルされた自分に向けて情報を届けるのみだ。

「あなたは悪くない、周りに影響されないように気をつけなさい。」
「あなたはあなたが思っているほど愚かではないし、弱くもない。」
「あなたは一人じゃない。だけど一人にもなれる。」
「あなたは自立した子どもだ。もっと自由にふるまっていいし、責任感を表してもよい。」
「あなたの子どもらしさを嘲笑する大人も子どももレベルが低い。」
「周りの大人の自尊心の犠牲にならなくていい。」
「安直な同情は相手にしないでいい。」

 あのときに、誰かから言ってほしかったセリフがある。そのときに、助けてもらいたかったことがある。親からの/学校からの/学校もどきからの解放を手助けしてくれる大人が。
 微力だが、今自分のブログが3歳とか13歳の人たちの手助けになっているだろうか? それとも単なるおせっかいになっているのだろうか?

 これを読んで面白がってくれる人たちがいるのは嬉しいが、わたしは結構エゴイストになっている。十代の半ば、家に半監禁状態で、日本やアメリカのフリ-スク-ルを何十箇所も廻りたいと考えてばかりいた。そのときに、周囲の破壊的な説教をときに真に受けて、ゆがんだ自分自身に、このブログの記事を贈りたい。
 

 
 
 

 

友達

2005年03月25日 09時10分30秒 | weblog
 子ブログつながりで、調査の人がやってきた。
 
 一人目は、友達を求めるタイプだった。あまりにも人間関係のパタ-ンが閉鎖的で窮屈で息苦しいため、やがてつきあうのをやめた。

 二人目は対照的に、友達を捨てるタイプだった。わたしはそこまで友達を激しく捨てることがかなわなかった。調査の手伝いをしているうちに、友達と調査者との板ばさみになり、すべての友人をとるか、それとも調査者側につくかという岐路に立たされた。
 結局、自分は友達を捨てられなかった。ここで友人を捨てたら、あとあときっと後悔することになるだろうと思われたからだ。
 そのかわり、調査者側に対しては裏切りになってしまった。オ-プンな人だったので、つきあいを切られた。それでわたしは落ち込んだが、解放された。

 自分の友達との付きあいかたは、確かに歪んでいる部分もある。それは、十代のころのクレイジ-に抑圧的な家の教育方針、劣悪な田舎の地方社会の文化環境に起因する。 
 なかでも、友達といっしょに笑ったり感激をしたりする楽しみはある。確かにおかしなことや嫌なこともあるが、そのかわりにメリットもある。
 2人目の調査の方は、比較的恵まれた立場の方だったので、恵まれない立場のものの処世の知恵には理解がないようだった。身分・階層が違えばこのようなものだろう。
 彼は元気で、年のわりに若々しかった。上品な教え子を連れて子ブログに来てくれた。
 あまりにもまばゆくて、世界が違いすぎて、近寄りがたい雰囲気があった。なんとなく自分がみずほらしく見えてくる。
 
 多分、彼の方が優れた判断、いい選択をできているのだろう。自分の人生が小さなころからずっと劣っていて汚れているような感覚におそわれる。確かに、友達なんていらないと思った時期もあった。しかし、その後処世術・保身術を優先して思考停止になり、だんだんと鈍感になってしまった。しまいには、イヤでかなわないものをやっており、それ以外の人生は考えられなくなっていた。自分が好きで意識して選んだわけでもないのに、嫌なものだ。

 イエスさまは家と故郷を捨てた。2人目の調査者は、友達をも捨てている。その的確さ、客観性、大胆さには、目を見張るものがある。
 内面から光り輝くようなきらめきは、彼の教え子にも拡大して受け継がれていた。
 今すぐにはできなくても、いつかわたしも友達を捨てられたら、と願わずにはいられない。本当に、あんなものがなければどれほど気楽で自由なことだろうか。
 必要もなくくっついていて、互いの個性的な考えや趣味をけなしあい、足を引っ張ったり、裏をかいたりすることしか頭にない。馴れ合いによってウソをつく、騙す、人をワナにかける、侮辱するなど日常茶飯事。しかも、うしろめたさや反省の意などみじんもない。相手の弱みを握って人を振り回し、裏で手を組んで人を追い詰める。
 普段はさえない者も、そんなときにだけは器用になる。親切をよそおって人を傷つけ、混乱させる。周囲を抱き込んで、個人を追い落とす。相手が嫌がることと知って、集中してやりとげる。 
 不自由な不適切な自分を見るに、生きているのが嫌になる。せめてもう一度十代の初頭ごろから人生をやり直したいと思うこともあるが、実際には無理だ。
 無理やり友達とつきあうことで、自分で判断できない依存的な人間になってしまった。孤独に弱く、受身な情けない状態になっている。
 
 今すぐはだめでも、いずれこの手の友達との腐れ縁を切りたいものだ。友達がなくても生きてゆけるとはなんて素敵なのだろう! もちろん、気持ちの悪いムラ共同体型の友達限定の話であって、個人主義的に自由に開放的につきあえる人たちにとっては何の関係もないのだけれど。
 

コメント再録

2005年03月12日 22時05分15秒 | weblog

kama@kazu.ne.jp (kamakazu) 2005-03-12 03:04:30

事情は詳しくわかりませんが、元気に復活してくれよ。パレイシアさんがいないと、俺の行き過ぎた権威主義,全体主義が矯正されない。頼むぞぉー!


コメント削除について

2005年03月11日 01時02分51秒 | weblog
 このブログのブックマ-クにも入れてあるむなぐるまさんのブログで、コメント管理についてエントリ-されている。

↓匿名のゴミコメントが良質ブログを潰すこともある
http://munaguruma.air-nifty.com/blog/2005/03/post_2.html#more

むなぐるまさんの記事の中で、特に賛成したいのは、次の部分。

>よくわからないコメント・TBは削除している。別に断りもしない。読んでいる皆さんとしても、>書き手である私がコメント管理やらに時間と労力を取られてブログを辞めてしまったらつまらない>でしょ?

>他人の意見に反対するのは結構。また、他人の意見が許せなくて嫌がらせをする人が絶えないのも>仕方ない。しかし、それに対して対策を講じたらファシスト扱いされるというのは、何とも困った>ものだと私は思う。


 これまで、このブログでも、何度もコメント・TBを削除してきた。それは意外と手間隙がかかり、面倒でもある。基本的には意味不明のもの、不愉快なもの、特定の個人や集団を侮辱するものなどを消してきた。たとえば、これは差別にも関わる問題になるが、あんまや三味線など盲人の伝統的な文化・職業を否定して「図書館で本を読むべき。実用的な知識だけではいけない。」とする主張がそうだった。日本の文化の性格上、死者に鞭打つ言論は消してきた。たとえば、「イラクで亡くなった香田さんは、・朝鮮なので日本でも宿泊拒否は普通です」といった投稿だ。ひどいときにはこんなものが一晩に100以上もやってくることもあった。
 もちろん、そのたびに「言論弾圧だ」「ファシズムだ」という声はあった。「管理人は勝手すぎる」「コメントした者を悲しませている」などといった内容の、コメントやメ-ルも受け取った。
 それでも、仕方がない。自分だって、コメントやTBを消すのは、相手に失礼ではないか、あるいはめんどうだと思わずにはいられない。だけど、上品な人からは想像もできないようなおかしなコメントを一晩中に50も100もつけられては、腹も立てばうんざりもする。
 ブログの性格上、オ-プンにコメント・TBをつけられるようになっている。そのなかで、管理人が、自分のブログの方針やカラ-にあわないものは削除するシステムになっている以上、そうするほかないではないか。ブログの場合、メ-リングリストとは違って、TB・コメントを投稿した後、管理人が承認を与えて記事に反映できるシステムはないのではないか。少なくとも自分が今利用しているgooのブログではそうなっている。

 時折、コメント・TBを削除すると、こんな風な非難もやってくる。「社会的排除だ」というものだ。
 ブログが社会かコミュニティかは各論あるだろう。今のところわたしは、ブログは個人的なコミュニティだと見なしている。そこは社会全体ではない。
 そのうえ、ひとつひとつの発言への削除と、特定の人がそのブログを閲覧できないようにしたり、コメント・TBをつけられなくしてしまうのとでは違う。個々の発言と人格はいっしょでないように、ひとつのコメントの削除は、その人への削除(排除?)には当たらない。一度コメントを削除されても、再チャレンジする権利は開かれているのだ。
 だったらなぜ、コメントの削除がその人を社会的に排除することになるのだろう。個々のコミュニティと社会全体、個々の発言と人格全体を混同した非難にはついてゆけないの。なので、なるべく無視することにしている。
 
 もしこのブログとあわないコメント・TBであれば、削除した方が相手のためにもなるという気もしている。そうすることで、相手はこのブログの性質や趣旨を熟考する機会を得るからだ。あるいは、情報の書き方やコメント?TBのタイミングを見直すこともできるのだ。星の数ほどあるブログのなかで、どこが自分と相性がいいか・悪いかを知ることは大事なことだと思うが、どうだろうか?

 なお、こちらのブログでは、「すみません、勘違いでした。あの発言は消しといてください。」といったリクエストには応じるようにしている。今のところコメントが少ないので可能なののだが、誰にも失敗はある。ご存知のように、読者が自分の発言を修正できるシステムがまだない以上、管理人が消去のリクエストに応じるのは当然だと考えている。(みなさんも、消去したいコメントがあれば、メ-ルかコメント欄で連絡をください。)

 なお、別のブログでの出来事だったが、わたしはコメントをしくじった。それで、「削除してくれませんか?」と連絡を入れた。そうすると、そのブログの管理人は「しない」ということだった。おまけに、「あなたをこのブログから排除しません」といった主旨の連絡をいただいた。
 これには困った。というのは、わたしとしては、そのブログに趣味的または主義的にあわないものを感じていたので、削除してほしかったのだ。別に発言のひとつやふたつ、削除したところで人格の否定には当たらないし、わたしはいつでもそのブログに行ってコメント・TBできる以上、そのブログから排除されているわけでもない。
 正直言うとわたしはそのブログを嫌っており、ぜひとも削除してもらいたい。なのに、管理人はそうしない。なんだかそのブログに縛り付けられるような、閉じ込められたような息苦しさを覚えた。こういう、相手が嫌がっていると知ったうえでの無削除というのも、なんとも暴力的というか、いやらしい感じがする。こういうのは今時のネチケット違反にならないだろうか?

 ともあれ、ブログ上でのコメント・トラックバック削除は、まだまだ始まったばかりの実験で、何がル-ル違反なのかは誰にもわからない状態だ。分からない中で分からないなりにやっていくほかないのである。驚くほど多様で、常に変化しつづける、不思議なブログ世界の正しいル-ルは「神のみぞ知る」のだろう。
 各人は、それぞれによいと思うル-ルとマナ-を主張し、実行するしかない。もちろん、それを人に押しつけないように注意しながら。ただし、主張は時におしつけにもなるわけで、どうすれば押し付けにならないのかはよく分からない。
 そこで大切なことは、拒否権だと思う。相手が嫌がっていると分かることはやらないこと。削除してくれというときに、たいした別の理由もないのに削除しないのは、やはり問題ではないだろうか? 人を無理やり奴隷にしないこと。ただし、リアル世界での社会的な地位や身分も絡むとどうしても不平等になる傾向もあって、難しい。その場合、互いのサインを察知することが難しくなるのだ。嫌がっていることを喜んでいると錯覚したり、別に気にしていないのに嫌われたと思い込むといったことが、起こるのである。
 ブログを通じたメ-ルのやりとりでは、リアル世界で身分が上の人との関わりを消すために、あえて相手の嫌がりそうなことをわんさか書かざるをえなかったこともあった。そうしなければ、多分その人の奴隷になっていただろう。特権的な身分の人らしく、「つきあいをきる権利はある」と自由な判断を示してくれたので、胸をなでおろしている。その方は上品ないい方で、おそらく、明らかにわたしが一方的に悪かった。だが、互いの立場上、いたしかたがなかったのではないかと考えている。それで、多分コメントやTBでも同じことは当てはまる。

 当面のこのブログの方針としては、たとえファッショだと非難されようが、おかしなコメントは削除してゆきます。わたしなりに保ちたいこのブログの程度とか品位とかいうものがあって、その方向性やレベルから大きく離れた書き込みは削除することもあります。
 再チャレンジを試みる方は、あらかじめ発言のログをとり、ボツになったらもう一度練り直して投稿してもいいですね。また、相手がレスをしやすいコメントを作る努力も求められるでしょう。

 ついでに言っておきましょう。このブログのコメント・TBのポリシ-を誤解している方もいたので、念のため。確かにこのブログでは、コメントよりもTBを推奨しています。それは、絶対にコメントしてはならないというわけではありません。コメントが50も100もつくが、トラックバックはゼロ、といったアンバランスな状態を避けるための管理上の配慮です。そのへんのことをお間違えなく。
 
  


 
 
 
 

コメント・TBのポリシー

2005年01月29日 22時05分43秒 | weblog
コメント・TBについて(2005年1月29日記、同30日一部訂正)
 
 ご愛読ありがとうございます。
 このウェブログ(ブログ)も、徐々にコメント・TBが増えています。それにともない、コメント・TBの管理に費やす時間が増えてきています。そこで、コメント、トラックバックについてポリシーを書いてみましたので、コメントしたい方はご一読下さい。

トラックバックについて
1.当ブログではトラックバックを推奨しています。
2.送られてきたトラックバックのうち、こちらの判断で無断に消すことがあります。私自身、公平で開かれた議論をしていきたいと思っていますが、誹謗・中傷や個人攻撃、人格の全部否定、公序良俗に反するものなどはこちらで判断して削除します。
 具体的には、陰険ないやがらせ、このブログの方針にあわないTBも削除することがあります。極端に観念的、日常会話や通常のデイスカッションが成り立たないなどの困ったカキコミも削除することがあります。
 基本的には、書いた内容を他人に面と向かって言えるか考えて常識的にご判断下さい。また、削除理由については説明しません。これは、いちいち削除理由を記していたのでは、連続して荒らしがやってきたときに、限りあるコメント欄を浪費し、会話のつながりが断たれてしまうのを防ぐためです。どうかご了承ください。

コメントについて
1.現在、名無し投稿は歓迎しません。なお1IPにつき1ハンドルでお願いします。
2.コメントはすべて読ませて頂いています。
3.すべてのコメントにお返事したいのですが、お返事できないことがありますのでご了承下さい。私がお返事するかどうかの基準は、コメントの質によるのではなく、その時時間があるか、ネットアクセスがあるかどうかなどの現実的な要因によります。
4.コメント削除については、トラックバックの2に準じます。
5.管理者には、コメント削除だけではなく、コメントを残しておく権利があることもご一考ください。つまり、後で恥ずかしくなって削除依頼されても、こちらで残しておくという判断をするかもしれないということです。削除依頼自体を受け付けないわけではありませんが、場合によっては残すこともある、ということです。

メールについて
1.応援、反論、情報提供、訂正などのメールは歓迎します。アドレスは egrettaalba1[at]hotmail[dot]com から[]内を通常の記号におきかえて送ってください。
2.コメント同様に、メールはすべて読ませて頂きますが、お返事できるかどうかはわかりません。
3.メール内容はサイトには無断転載いたしません。転載可の場合はそう明記して下さい。

まとめ
当ブログでは異論、反論は大歓迎です。これらのポリシーは、公平かつ冷静な議論を妨げるものではありません。ただ、訪問者の方(そして管理する私)が気持ちよく読めるサイトにしたいと思っていますので、ご理解下さい。




あけましておめでとうございます

2005年01月02日 02時00分14秒 | weblog
 みなさん、あけましておめでとうございます。
 
 新年はNHKで日本の伝統音楽・芸能の特番が多数組まれます。
 このブログにきている人たちにとって注目すべきは、水俣を描いた能「不知火」でしょうか。 
 うちのTVは安物で、ステレオ放送は入らないわ、画像は洗いは、画面は小さいわ、ヴィデオは壊れていて使えないわとあまり充実した視聴環境ではないのですが、何とか見ようと思っています。インターネットカフェが空いていれば、一番組くらいならそこのTVで見てヴィデオを取らせてもらえるところもあるので、どの番組をネットカフェのよい情報環境で聴くか検討中です。
 
 
 
 
 
 

市民団体の課題

2004年12月29日 11時33分44秒 | weblog
 ガ島通信で、平和をはじめとする市民団体への苦言が載っていた。

 すべてを理解したり賛成したりするわけではない。しかし、面白いし、当たっていると思うことが大半だった。

 実は、わたしは以前ある平和市民団体にいた。しかし、その中でのプチ・ファショともいうべき共同体主義に苦しめられたので、そこを辞めた。
 その団体のなかでも、おかしなことはあった。
 小汚い格好というのは、実際にホームレスや失業者・半失業者、低所得者の人たちもデモにやってくる以上、仕方がないところもある。軽い慢性的なウツ状態の人に、思いやりもなく「もっとおしゃれにしろ」というのはムリなリクエストだ。そういう言説が大きくなると、年収300万以下の人はデモにこれない、といった事態になりかねない。その点には注意をしながら、せめてゆとりのある参加者はもう少しきれいめの格好を心がける程度でいいと思う。
 そういった団体のキーパーソンが、華やかでカラフルなものを生理的に嫌う。そのため、時に人をだましてでも明るくオシャレなデモやプラカードを作らせまいとすることも問題だ。わたしの関わったグループでは、デモで風船をリリースしようという案が出された。そのとき、世話人グループのうち数名は、「風船が海に届き、ウミガメがそれを飲み込んで死亡する」ことを根拠に反対し、勢いのよさで提案をボツにしてしまった。
 1匹や2匹が死亡しても、生態系全体には大した影響ではない。また、京都市内でリリースした風船が、大量に日本海や瀬戸内海に到着するとは限らない。不審に思ったので後日ネットで調べたところ、風船は天然ゴムでできているので自然分解し、環境に悪影響はないという内容のHPもあった。要するに、カラフルなもの、華やかなものがキライなので、リーダーのひとりがダダをこね、周囲のを抱きこみ、支配欲を満足させていただけだったのだ。

 また、その団体の中で、自分たちがいわゆる「共産党」とか「サヨク・プロ市民・過激派」とみなされる危険性についてあまりに認識がなっていないことにも驚かされた。その人たちは、都市ではなく田舎や郡部で、大学(町)ではなく地域やオフィスや工場で、「サヨク」がどのようなイメージで見られているのか、まったく知らない。
 わがまま、非常識、幼稚、失礼、勉強不足、自意識過剰、自信過剰、プライドが高すぎる、コミュニケーション能力ゼロ、友達や恋人がいない、暴力的、ヤクザみたい、キチガイめいている、世間知らず、極端に観念的、勘違いしまくり、知性も感性もない、人をバカにしている、お金持ちのお坊ちゃんの道楽、偽善的、欺瞞的、ルサンチマン、カッコ悪い、恥ずかしい、イケてない……。
 実際に半年間、デモやらミーティングやら飲み会にもつきあって、そうだと感じる。別に全員gではない。けれど、一部にでもそういう人がいれば、目立つものだ。たとえ統計的には誤差の範囲内であっても。世の中いろんな人がいるのだし、何百・何千と人が集まれば、わけのわからない人が一定の割合で存在するので仕方がないのだけれど……(^^;)。そんな人にも何か事情があるのかもしれず、基本的に寛容でありたいと思う。
 けれど、次のような場合は別だ。
 Ⅰ.人命に関わること。世話人のうち一人は、十数名をひきつれて、デモ中に意図的・組織的にバスの運行を妨害していた。通常の市民生活のジャマになったり、運動のイメージ・ダウンになるだけではない。もしその反戦アピールとは関連のない相手を選ばぬ敵対行為が人身事故につながったら、どうするつもりだったのだろう。自分たちがバスの下敷きになるかもしれないし、通行人や周囲の車を巻き込むリスクもあるのだ。
 Ⅱ.それに絡んで、機能集団の共同体化。ちなみにその世話人は、昔の学生運動にあこがれている20前後の学生。いつも絶叫調で怒鳴ったり叫んだりすごんだりしてばかりいる。そのため、周囲は怖がって誰も彼女に強いことを言えない。京都のある大学に在籍中なのだが、その大学はもと全共闘の教員が多数在籍している。元中核派や元赤軍派で責任者だった人間さえいるのだ。当然、そこの学閥は、反戦グループの中で主流の勢力となっている。そのバックの怖さ手伝って誰も彼女に注意できない。中間団体レベルでのファシズムの誕生である。
 主流のグループ以外の人間は、事実上意見を言う権利を奪われている。そこで、共同体のメンバーではないのに強く意見を言ったり、命令されていないのに気を利かせて会議のたたき台を作ったりした人間は、中傷・でっちあげ・無視・その他陰湿ないやがらせによって、スポイルされるか追い出される。なお、そのいやがらせのやり口は、企業のリストラと酷似している。「この共同体のなかでなら、何をやっても許される」といった今・ここでの専横がはびこる。一部のリーダー層以外は、それこそリーダーたちの気まぐれで殺されても仕方がない雰囲気だ。一部の人間の特権はあっても、誰にでもある人権は抑圧される。実際、あるサブリーダーは、燃え尽きた状態になり、3ヶ月ほどボランティアのできない状態になった。リーダーによる専制政治の犠牲者なのだ。

 それから、団体関係者は、リベラルなまたはサヨク系の家・学校・職場・地域の出身者が多い。大学関係者を中心に、かなり浮世離れしている。保守的なコミュニティにおいては、職場や地域でなるべく目立たないこと、特定の宗教や信条を持たないことなどは大変大きな価値である。
 怒鳴る、叫ぶ、殴りかかる身振りをする、といったことは、性格異常か文化不適応とみなされる。朝日新聞は捏造新聞であり、赤旗はまともな新聞だと思われていない。田舎の保守地域になれば、自民党以外は政党じゃない、自民党の政治家以外は政治家ではない、といった扱いはありふれている。ビラをまいたとか、デモに参加したといったことは、それが正しいかどうかは別として、村八分やリストラの理由づけには最適である。そういったことも分からないのは、世間知らずであり、幼稚である。頭が悪く、勉強不足、要領が悪いということになる。
 
 ところが、リベラルまたはサヨク系のコミュニティのなかでは、価値は逆転する。社会的な不正に憤りを覚え、デモのときには我先にマイクを握り、怒鳴ったり叫んだりすごんだりすることがリスペクトされる。赤旗や朝日新聞は、世界でもっとも良心的なクオリティ・ペーパーであり、世界を代表するかのように思われている。ニューヨーク・タイムスよりもガーディアンよりも、朝日新聞の方が高級なのだ! 
 なぜだか「怒る」ことが至上の価値となっている。しょうっちゅう何かに怒ること、あるいは相手を怒らせることが推奨される。「そんなに怒ると心臓に悪い」「怒るばかりでなく、具体的な政策は?」などというのは、野暮の骨頂である。正義の心が足りないのはダメだと顔に描いてある状態で、白い目を作って冷静な人をにらんでいる。
 保守に対して語りかける姿勢は平和団体には乏しい。サヨクやリベラルの仲間内で盛り上がっていればいいじゃない、という判断が強い。ただし、これではいつも同じメンバーで盛り上がることになる。当然、マンネリが生じる。マンネリを解決するために、何をするか。
 わたしの関わった団体では、ムリなスケジュールを押し付けて忙しくさせることと、学級崩壊状態のミーティング、それに社会的弱者へのいじめだった。一月に何度も講演や会議や集会を開く。本来自分でそのつど判断して行く・行かないを決めるはずになっているのに、リーダーは「行けるか?」とみなの前で何人かに聞く。
 おかしい。デモに行くことはいつから義務になったのか? 行けるかどうか人の能力を疑って、しかもみなの前でさらし者にしていいのか? 相手を信頼せず、個人の自律性を軽視した、強制動員にも似た行為だ。リーダーの冷酷さと征服欲の激しさは、せっかくの人のやる気をなえさせる。あたかも矯正収容収容所のような虚脱感と窮屈さが支配しているのだ。まるでナチス、まるでソ連。
 そもそも、リーダーのロリコン趣味とマザコン人格にあわせて、反戦映画の上映会は「天空の城ラピュタ」「風の谷のナウシカ」といったラインナップじゃあ、来る人も来ないって! 
 え、「戦場のピアニスト」はキライ? そうでしょーねー。母子家庭手当ても奨学金も環境税も、福祉はみな国による財産権の侵害であり、廃止しろ。貧乏人や傷病者はそういう「連中」だけ集まってムラでも作って相互扶助して暮らせ。もし自分の家族や友人が交通事故にあってもそういうった生産性の低い人間を捨てる村に送り込む、という冷酷非道のリーダー弟、それに異を唱えられないヘタレのフォロアーであれば、そんなものでしょーねー。自分たちのファシストぶりがバレるとさすがに恥ずかしいのでしょー。そんな論理で喫茶店中に鳴り響く大声で責められたものだから、昔奨学金を使っていたある人は、いたたまれなくなってデモに来られなくなったのだけれど、そんなことは平和団体側にとってはどうでもいいいのでしょーねー。だから、次のような推測をされるですよ。
 小さな目で見る大きな世界をご覧あれ。

 立川でビラをまいただけで逮捕というのは、まったく不当で異常な事態であり、勝訴は当然だ。
しかし一方で、市民団体は、自らの偏狭さ、不適切さ、残酷さを反省すべきだとも思う。
 草の根レベルの理解と協力と応援が、市民団体の味方だ。だったら、一般庶民の嫌がることを意図的にくりかえすのは、やめるべきなのだ。他の組織では通じない特殊なルールやマナーは見直したほうがよい。グループ内ファシズム状態も解除すべきだ。軍隊よりも軍隊チックな暴力愛好カルチャーもやめるべきだ。
 特に人の首を切り落とす過激派と混同されたくないならば、そのことは大切なポイントだ。「とにかく、「自分たちはいいことをやっているんだから、他にどんなバカをやっても許される」的な勘違いだけはやめてもらいたい。



 
  
 
 
 
  

  

  


 
 

 
 
 
 

謙遜を取り戻せ!

2004年12月28日 16時53分53秒 | weblog
いまどきの横柄 

 shiroさんは、今の日本人は「へりくだりの精神」を忘れており、「横柄型システム」によって社会はまわっている、これを反省しろと批判する。(この記事はCHU CHO--!!!へのトラックバックです。ちょっと長くなりますが、どうして日本人が傲慢になったのか、それもアメリカ型の傲慢ではなく、もっと情けない無自覚・無責任タイプの傲慢となったのかについての試論です。)

 本当にもっともだ。
 特にここ10年ほどの変化として、アメリカ型の能力をアピールする習慣が広まった。それも、自分の実際の能力よりも数割くらいは過大評価して自己申告しなければならない。会社での習慣と価値観は、やがて日常世界をも侵食した。
 また、やはりここ十年、「自己責任」または「リスクをとれ」という言葉が、マスコミ等を通じて喧伝され、人口に膾炙した。あたかも人の口が会社になったかのようだった。
 それは、個人を過大評価する価値観の押し売りだったのではないだろうか? これらの言葉は、必要な相互扶助を否定し、互いが複雑に係わり合いつながっている世界の現実を単純化してみせる。ネイティブ・アメリカの格言・「ミタケ・オアシン(すべてはつながっている)」といった発想は、「何でも人のせいにするなよ!」という勇ましいセリフとともにかき消された。
 (なお、これらの言葉は、ネオリベを推進する勢力が、意図的に集中的に流した可能性も考えられる。)
 長期にわたる抵抗は苦手だと言われる日本人のこと、ほとんど反抗しないまま、内申書の点数を稼ぐ感覚で「責任をとれ!」と、失敗の理由を語る個人に攻撃をしかける。半分は点数稼ぎ、あと半分は嗜虐的な快楽によって、すさまじい表情や口調や目つきで精神的な攻撃が加えられる。
 犠牲になるのは、社会的な弱者だ。母子家庭出身者、障害者、フリーターやNEET、はては奨学金利用者にいたるまで、攻撃がしかけられる。

近代の傲慢?

 西洋近代文明は、個人の自我の確立をうながす。それは時に自信過剰・自意識過剰・傲慢といった害悪を生む。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。自我を持つのは大切なことだ。だが、やりすぎには気をつけよう。自我過剰は自我がないのと同じかそれ以上に始末が悪い。
 本来、このことは、自我を形成する十代半ばごろに、自我の大切さとともに伝えられなければならない人類の文化遺産だ。
 だが、たいていの中学校や高等学校では、こういったことを教えない。塾でも家でもそうだ。
 たまたま私の場合は登校拒否をした。親の縛りがきつかったため、行動の自由はなかったが、思考の自由はあった。本を読むことは比較的自由にやらせてもらった。
 図書館で、イリイチの脱学校論やフーコーの監獄批判、それにアリエスの子どもや死の歴史といった近代批判を入り口に、ニーチェやドストエフスキーを読むこともできた。(といっても全部日本語だったから、大したことはないのだけれど。とりあえず目を通したということで。)
 だが、「学校と家と塾のトライアングル(中森明夫)」に囲い込まれた(1)登校受容の人たちにはーーつまり大多数の日本人、なおかつ日本人らしい日本人ーーには、こういった示唆はない。
 建前では「自我の確立」が大切で、行き過ぎには注意しないと大変なことになるぞ、という警告を聞いたことがないのだ。それは何も偉そうに説教をするということではない。「こんな風に傲慢なことでは困る」「自分にとっても他人にとってもマイナスだ」といった会話や議論をすること自体がむつかしい。また、内なる声とでもいうのか、自分自身で気づく・悟る・勘づく機会もない。

わたしはどうしてできるのか
 アジアは西洋に対する東洋として他者に規定されることによって自己を形成してきた。なので当然、西洋の個人的自我主義とは距離を置いている。
 ヨーロッパは、Cogito ergo sum(我思う、ゆえに我あり)に象徴される自我主義の発祥の地だ。しかし、だからこそ、自我主義の行き過ぎへの気づきのうながしがある。また、自我主義に対する解毒剤を用意してきた。ひとつは厚い歴史と伝統によって。もうひとつは近代が徹底するがために、近代批判を許容できるふところの深さによって。
 アメリカは悲惨だ。アジアの決して近代ヨーロッパに包摂されない独自性はなく、ヨーロッパのもつ反省や歴史の厚みがない。あるのはカネ。軍事力。MTVに代表される味気なさと安っぽさ、ハリウッド映画に見る単純さと善悪二元論。民主主義の堕落した形態としての反理性主義。どこにも自意識過剰を悲しんだり裁いたりできる余地はない。
 そして、アメリカの衛星国のような今の日本はさらに悲惨だ。以前はーー記憶をたどると80年代全般まではーー北東アジア文化圏としての美徳があった。今に比べれば、謙遜とか遠慮とか奥ゆかしさといった美徳があった。相手の遠慮や謙虚さが分からないと「人の気持ちが分からない(なんてダメだね。)」「そういうニュアンスで言っているのじゃないやろ。」と注意する人もいた。それが分からないのは「マヌケ」だったり「鈍感」だったりした。
 ところが、今は違う。特にいい学校や会社に在籍している「勝ち組」の人たちには、そういった謙遜の美徳は通用しない。そういった言葉や身振りを真に受けて「ヤル気も能力もないのか」「あなたは、今の状況が分かっていない! 努力する気もないんですか!」とハイになって絶叫する(実際、ある会社とNPOで、謙遜をしていた人への侮辱のセリフとして聞いた)。
 アメリカ以上にアメリカ的になってしまった悲しい日本人。しかも、アメリカ型の試行錯誤をうながす教育と文化のシステムの中で育っていない。なので、真の自我の確立さえも怪しい。
 小さいころから、目先の点数稼ぎだけではなく、人と交わったり、直接世界と触れたりすることは、収容所閉じ込め型の日本の教育・文化環境においては難しい。いろんな人種や国籍や階級の人間との、出会いと別れを経験しながら育つ。そんな当たり前のことさえ、日本では「受験に役に立たない」のである。奇妙にもそれは通常「勉強」とも「教育」とも呼ばれない。奇妙なことに、幼いころより一貫のよい幼稚園か小学校から始まってずっとよいコースの教育を受けたとか、遅れても中高一貫、または高大一貫といった環境にいたもの、あるいは引越し・転校を経験しないもの、一人暮らしの経験がないもの……要するに、純粋培養度が高くなればなるほど、自我とか人格といったものができていない傾向がある。
 そのかわり、宮台真司も言うように、プライドが肥大している。具体的な根拠もなく「自分(たち)は生まれつき優秀だ」「自分(たち)ほど優れた個人(グループ)はこの世にいない」と思い込んでいる。
 少しでもその観念が揺るがされるシチュエーションにおかれるとパニック状態になってしまう。怒鳴る、叫ぶ、被害者意識でいっぱいになっておおげさに騒ぎ立てる、人を中傷しワナにかけ、周囲を抱き込んで孤立させて、相手がつぶれるか、その集団への参加を一切断念するまで執拗に攻撃する、などなど。とりわけ、自意識過剰を指摘されたときのすさまじいキレ方は筆舌に尽くしがたい。
 わたし自身は体験をしたことがないのだが、その中ではプライドの万能をあおる人格改造セミナーのような環境にあるのだろうか? (このへんの事情をご存知の方は、ぜひTB・コメントしていただきたい。)
 
日本における「文化的にレベルが高いこと」

 おかしなことに、その名門幼稚園~小学校の文化、あるいは中高一貫または高大一貫の文化が、日本においては大きく価値付けられている。そして、その他のタイプの学校の人間も、知らず知らずのうちに影響を受ける。あるいは、文化レベルをあげることによって上流・上層に食い込もうとする者は、積極的に模倣する。そのハビトゥス(ブルデュー)を嫌えば不利になる。批判すればルサンチマンだと揶揄される。そのような環境のなかでは、当然の流れだ。
 その結果、アメリカよりも薄っぺらな傲慢がまかり通るようになったのが、現在の日本社会ではないだろうか。アメリカは、よくも悪くも個人を肯定する。コギト・エルゴ・スムをベタでやっている。
 一方、日本ではどうだろうか。ちゃんと個人の自我を育てられない。掛け声とはうらはらに、個性や自我を罪悪視してつぶしたりゆがめたりしてばかりいる。つぶされれば一人前、歪められたら
大人っぽい、と条件付で「承認」される世界だ。
 そこで、近年の流行だからとアメリカ流を演じる。ハリウッド映画などを見て表面だけを芝居する。これでは、自由な自我にともなう責任感は育まれない。互いのエゴの調整方法も洗練されない。エゴの暴走を防ぐための諸装置ーー謙遜の美徳、自意識過剰批判、自分たちで適当な規則や作法をつくることーーなども機能しない。
 
日本のなかのアメリカ流傲慢主義

 共同体主義が実際の共同体よりも共同体らしく振舞おうとするためにわけのわからない暴走をするように、アメリカ流個人自我主義者は、実際のアメリカ人よりも傲慢に振舞う。それがshiroさんのいう「横柄型システム」を生み出す。
 そこでは、ホームレスへの喜捨さえも、人を甘やかしてスポイルする悪徳となる。
 さらにやっかいなことに、アメリカ流の個人自我主義者は、共同体主義者でもある。だから、自分たちへの異論や反論に耳を貸さない。「みなと違って自立できないフリーターなんて、オレが村のメンバーじゃない。だったら、どんなにひどいことをしても許される」という共同体的慣習に走る。だから、正社員がフリーターを責めるときには、情け容赦ない。「お互い大変なんだから」「この人が半失業していてくれるおかげで今日の自分の地位があるのかもしれない」「相手は自分の予想以上の苦労をしているのだろう」といった「武士の情け」はどこにもない。
 「あなたは自分を磨く努力をしていない」「ロクに働いていないくせに」「フリーターの人って勉強する気も仕事やる気もないんでしょう」「お前ら、会社に遊びに来ているんだろう」「(半ば嫉妬するかのように)何でフリーターなんてやっているんだ! いろいろな会社を見てみたいってか!(軽蔑感いっぱいにはき捨てるように)」
 上記はすべて、職場で正社員から言われた侮蔑のセリフである。

脱米入欧・脱米入亜 


 この醜く困難な状態を脱却するには、
Ⅰ.きちんと自我を作る 
Ⅱ.そのうえで、自意識過剰に気をつける
この2プロセスが必要だ。
 まず、好きなことを精一杯やって自我とか自意識を育てること。個性・オリジナリティ・ユニークであることをそれ自体悪徳視したり、嫉妬で足を引っ張ってつぶしたりしないこと。
 それから、自意識過剰の危なさを認識し、注意すること。もしすでに自意識過剰になっていた場合、それを収めること。

 繰り返しになるが、日本の場合はⅠもできていない人たち、一度Ⅰが形成されても十代半ば以降メチャクチャに崩されてしまった人たちが大多数を占めている。そうでない人は統計的に誤差の範囲でしか存在できないようだ(今の日本の消費税率みたいなもの)。
 そういう人たちにⅡを説いてた場合、ますます無責任になったり腑抜けになったりするリスクもあるので注意が必要だ。
 しかし、ⅠとⅡをクリアできれば、というよりも、クリアすることを妨げない環境ができれば、ahiroさんの言う「横柄型システム」に歯止めがかかるのではないだろうか?
 実際、ヨーロッパではアメリカー日本型の横柄型システムに歯止めをかけようとしている。国際政治・経済・軍事の力関係という面も関連してくるのだが、やはり当地の文化的な洗練がその基礎を提供しているのではないだろうか。

 日本は、単純化され中途半端化されたヨーロッパの亜種としてのアメリカ文化の亜流をやめるべきだ。安っぽい薄っぺらい傲慢をやめたほうがいい。そのためには、何でもアメリカ流に流されない自我構築と、自我過剰への警戒の両面が必要だ。したがって、先にあげたⅠとⅡを保障する教育と文化の環境が必要なのである。そうすれば、単に惰性や奴隷根性ではない、より上質の謙遜の美徳が手に入るだろう。その文化は、近隣アジア諸国との連携を深める際、触媒となるだろう。


(1)登校拒否が子ども時代における国家総動員への拒否だとすれば、学校に行く子どもやその状態は、国家総動員への受容、つまり登校受容である。
なお、登校拒否という語を否定的にのみとらえる立場もある。わたしは、それを肯定的な意味に読み直す立場を支持している。古くは黒人公民権運動の「ブラック・イズ・ビューティフル」、ウーマンリブの「女は強い」に見出せる発想である。
なお、ブラック・ワールド今日の出来事において、reservationistとrevisionistとの区別が紹介されている。ニガーという語は、必ずしも侮蔑語ではなく、ヒップ・ポップにおいてはブラック・コミュニテイの連帯を示しているとの指摘である。

>ある文化史家は、わけてもニガーということばの使用に関し、その使用を止めることで差別を是正>しようとする行為をreservationistと呼び、意味を変えて使うことで侮蔑的意味合いを内から穿と>うとする行為をrevisionistと呼ぶ。

この区別に従えば、わたしは登校拒否という語の否定的意味合いを内側から変えていこうとするrevisionistということになる。




 
    
 
  

 

 
 
 
 
 
  
 
 
 
 

コミュニティなき日本社会

2004年12月24日 01時59分37秒 | weblog
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shiroさん、お久しぶりです。とてもいい問題提起をされていますね。

 日本にはコミュニティ(帰る家)がないのは、ご指摘のとおりです。共同体でもないのに共同体のフリをする、似非共同体はごまんと見られますがね。
 ニセモノの共同体では、ホンモノの共同体のもつバランスやある種の寛容さはありません。相互扶助が相互監視→ファシズムに、村おさの配慮は専制政治になっています。
 学校や会社や地域で日々起こっている「人間関係の疲れ」「陰湿ないやがらせ」「浮いたことをすれば何をされても仕方のないムード」なんてのは、共同体ではないのに共同体ぶろうとして、共同体の悪質なパロディを演じているんですよね。
 また、そういった状態を、支配・管理に利用しようとする勢力が、至る所で力を握っているのも確かだと思います。早い話が、従順でピア・プレッシャーにビクビクしている「ヘタレ」を、求めているんですよね(一方では見下すというオマケつきで)。
 
 また、すべてを「自然」または「天然」と思い込むために、新しい共同体ができにくい。あるいは、今ある共同体のルールや方針を変えることもできない。すべて(実は巧妙に作られた場合もある)「空気」や漠然としたイメージ・印象だけで動いており、「誰がこの規則を作ったのか」、「どうすればこの方針を変えられるか」といった議論をやりにくくする「礼儀」がありますからね。
 また、意見を言えばそれだけで人間失格・悪徳のきわみみたいに受け止められ、リーダーの道徳的説教や、フォロアーからの白い目攻撃・仲間はずし(ほとんど面白いゲーム感覚で行われる)もありますよね。
 実は、あるNPOでリーダーの各種の暴走・勘違いを指摘したら、いろいろと嫌がらせを受けたあげく、暴力による脅迫までやってきたので、あわててやめた経験もあります。(ちなみにそのNPOにおいて、リーダーの暴走を注意したサブリーダーのひとりが3ヶ月も寝込むといった問題も生じています。)
 いわゆる「誰も責任をとらないシステム」。
責任をとらない一部の上流・上層のグループが、わがまま・デタラメのし放題になる。一方、大多数をしめる「下」のグループには、ほとんど何の権利もないシステム。人権と特権の区別のつかない混乱した思考。国全体から中間団体にいたるまで、この構図が変わらない。
 それを再生産する学校教育や会社の研修も、わずかの修正があるだけで、抜本的な改革には至らない。
 話を戻します。伝統から切れたアメリカでは、「こんな方針・カラーのコミュニティを作ってみよう!」という参加者が十数名だか数十名も集まれば、現代型の新しいコミュニティを作っちゃうのですね。
 ある知り合いは、十代の半ば、アメリカのヒッピーたちの作った自給自足のエコロジー型のコミュニティに滞在したそうです。自分たちで田んぼや畑を作ったり、豆乳も作ったり、家も建てるなど、自分たちでできることは自分たちでやってしまうところだそうです。
 彼女の滞在する最後の方には、好きでない相手とのセックスをノルマとしてリーダーがフォロアーに強要するなどの問題も出たため、彼女はそこを去ることになりました。
 その後、日本での彼女は悲惨です。なぜならば、日本ではコミュニティがない。居場所がないと言ってもいいでしょうか。
 結局、同棲相手とも話があわず、むしろ彼女の哲学的追求をバカにされるなどして、苦労しています。その同棲の相手というのが、「会社で働いて忙しくなれば『私って何?』といった『自分探し』に悩むことはない」「お前はまだ若い。だからそんなことを言っているんだ。あと数年もすれば観念的でなくなる。」などと、陳腐なことばかり言っているんですよね。まさに日本のエセ共同体「会社」のメンバーの発言です。周りにあわせるばかりで思考停止。人の自律性には嫉妬するかまったくの無理解。
 先日、彼女に電話をしたら、かなり大変そうでした。ものすごく不幸そうな声で話しており、ささいなことにも怒りっぽくなっていました。周りへの不信感、自己嫌悪、そして孤立にさいなまれているのが見て取れました。
 彼女はわたしのことも日本のえせ共同体の人間だと判断しているので、わたしにも辛く当たります。自分にはどうすることもできません。
 多分、彼女からすれば、日本人の大半は、優しさや理解をよそおいながら、実は何も分かっておらず、本当はとても冷たい人間なのでしょう。「人情」や「善意」や「誠意」を押し売りし、人の感情をゆさぶって人をコントロールする陰湿で残酷な人物だと思われているわけです。わたしなりのーーそれは日本流のーー思いやり、気配りは、彼女にとっては身を切り裂く刃であり、神経に盛る毒のようなものなのです。政治的には、表面はリベラルぶったヒューマニストだが、裏面は質の悪い保守主義者で、今アメリカに住んでいれば熱烈なブッシュ支持者としてイメージされているのです。

 上手に設計され維持されている日本庭園のように、人工的なのに自然らしいものがあります。
自然よりも自然らしい風情がある人工物が。日本では人工的な制度も天然のものだと錯覚されています。そのため、本来なら人工的に維持の努力をしなければならない制度を自然なコミュニティだと取り違えているのです。
 中世や江戸時代のムラ社会とも、高度成長期~バブル期の会社共同体とも違う、現代型のコミュニテイを新しく作る必要があります。
 各自の必要に応じて、いろいろなルールや方針の共同体の形成を、試行錯誤するしかないのでしょう。ゆとり教育に肯定的な可能性を探れば、学校→いい会社・役所といった高度成長期的ムラ社会以外の世界とのつながりを作ることだと思います。(1)
 また、交通面での車社会化の解除、ハイパー・モバイル化の規制も必要ですね。田舎のほうでは、地域商店街はご存知のとおり壊滅状態。5軒または10軒に1軒が開店している地域もあるほどです。
 そのかわり、郊外のショッピングセンターは「一人勝ち」しています。
 車を全廃することはできませんが、その比重を減らすことはできるはず。車や飛行機の利用はどうしても必要なときに限定して、路面電車や自転車の通りやすい道路をつくったほうがいい。アメリカの保守と革新の二極化は、車と飛行機中心の移動手段によって起きたとの説もあるそうなので。
 また、小さな自営のお店が身近にたくさんある状態は、監視カメラよりも犯罪抑止効果があるかもしれません。うちの近所も、車社会の進展とともに、ふとん屋、雑貨屋、薬屋などが次々とみせじまいしています。つぶれた店の建物をとりこわして車を通すための新しい道路ができています。 すると、以前はの環境は壊されてしまいました。町のストリートで老人が椅子を持ち出して雑談したり、小さな子どもたちが縄跳びをした、その横をネコや犬もとりまいている。近所の人がだいたいどんな職業や趣味や背景をもっているか、全部知らなくても多少は見通せる。そういったタイプの風とおしのよさも消えました。小さな子どもや女性は、特に夜一人で歩くことを極度に警戒しています。
 こんなことでは「ここはわが町」という安心感や愛着などできません。そこではびこるのはマクドナルドやドトール、セブンイレブンにデニーズです。
 他には何もない、荒涼とした郊外の風景が広がっています。町を歩くだけで雰囲気がギスギスしているんです。
 shiroさんの体験されたベトネムの血縁にせよ、日本の地縁にせよ、「帰る家」があるのは大切なことだと考えるものです。
 政治・軍事・経済・文化・日常世界……。すべてをグローバルな市場原理にのっとられないために、あえて昔ながらの絆を見直すことも一方では必要でしょう。特定郵便局長はいったいどれほど悪いことをしてきたのでしょう? 地域ボスには社会主義的再配分機能もインストールされていた。いざというときのセーフティネットとして、また「心のふるさと」としての血縁・地縁、学閥や閨閥も、グローバル資本の悪と比べた場合、それほどの悪だったのか、見直す作業も必要かと存じます(むろん、腐敗を招いたり不公平を助長したりするなどの問題点もあるのですが)。
 長くなりました。帰る家なき日本社会への問題解決案は、

Ⅰ.新しい共同体・共同性を作る
Ⅱ.古くからの共同体・共同性を見直し、リサイクル・リフォームする
Ⅲ.(自律性のある)共同体を破壊する学校化・車社会化に歯止めをかける

の3本立てでよいのではないでしょうか?

 もちろん、共同体と共同体を個人が自由に行き来できることは必要です。また、共同体の中での寛容も必要です。なお、共同体と市民社会を自由に選べることも必要です。
 具体的には学校に行く・行かないを選べること、車を使うかどうか選べる(環境を作る)ことが必要なのです。

(1)何でも一律のハイアラーキーで決め付ける頭の固い「左」の階層論者の言うことは、単純すぎます。あの人たちときたら、四国八十八箇所をまわるお遍路さんをつかまえて「階層分化が激しくなる。だからお遍路さん制度を廃止しろ。国や自治体葉、お遍路さんを規制する法律を作るべきだ。そんな風に自由に歩いていると交通事故も起こりやすい云々」と吹き上がりかねない勢いです。要するに、あの人たちは一種の学校教育原理主義者なんですよ。だから、ゆとり教育からフリースクールやホームスクールまで攻撃しまくりです(苦笑)。