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いつか見た議論がまた

2006年12月29日 19時44分25秒 | 教育・学習法
この記事はタカマサのきまぐれ時評にコメントしようとしたもののトラックバック化です。

おじゃまします。

この記事に引用されている野依さんのお話、いつかどこかで聞いたパターンだな、と思いながら読ませてもらいました。
東京の山の手中流向き、あるいは関西なら神戸の高級住宅街向きのスピーチととればいいのかな(苦笑)。
反管理教育に近い層や、旧制中学(高校)風の中等教育関係者にもウケそうですね。

だけどこれは上のほうの数%にとっての話でしょう。
塾を利用できない層もいるし、またひとくちに塾といっても浜塾みたいな超進学塾から学校の勉強についていけばいいという補習塾、それに学童保育やフリースクールみたいな雰囲気の居場所確保塾までいろいろなんですけれどねえ。

自分的には荒れている学校なら違法行為・暴力が日常茶飯事というのは分かる気はします。
運動会のマスゲーム訓練といえども、2ヶ月ならともかく3ヶ月も前からやっているかどうか。詳しく調べたことがないんですが、3ヶ月っていうと3学期制なら一学期のほとんどがマスゲームだということになる。
一日の大半をつぶすというのは、自分も経験はあるから分かりますね。すべての学校がどうなのかはちょっと分からないけれど。
これはひょっとして記憶違いか誇張表現ではないかと思ってしまう。(言いたいことはおおまかには分かるけれど少し割り引いたほうがよいかな、と。)
あと、朝礼は窮屈で息苦しくて、倒れる子もしょっちゅういたり、倒れない人もたおれかけで苦しいもので、やめたほうがいいと思います。討論とかするところじゃないし、やらせ質問とかいかにもやりそうな環境ではちょっと。

結局、教科書・授業・ノート・テストを偏愛するたちが、学校の社交機能やしつけ機能を攻撃すると。
しかしどうなのかなあ。別に海外だけが絶対じゃないけれど、ある程度礼儀とか教えるのはそこに若い世代がいる以上当然生じる行動という気もします。
昔、中世・ルネッサンス期の音楽の本で読んだのですが、中世のヨーロッパの大学でも、勉学とともに貴族社会の礼儀を仕込んだそうですし。そうやって教会に拾われた捨て子が立身出世の機会をつかむこともあった。
そういう機能を全部廃止するのが妥当か、分かりかねます。

こういう「高学力」層が、半ば予備校のような進学校以外を軽蔑して、一般公立校(文化)を侮蔑・排除するのもまた何度も見た風景です。

こういう話って、勉強さえやっていれば社交とか礼儀その他は放任だった受験貴族が、学閥だけでは閨閥にかなわないことを庶民層のせいにしながら、エリート意識を保存する運動なのかと思ってしまいます。

あとは補足なんですけど。

不登校するのでもなければ、だいたい学校で掃除もクラブもやったうえで塾にも通う子が大半じゃないのか?

ここでこの種の論者のひとつのサンプルを提出しましょう。
名古屋でとあるフリースペースを主催していた方が、立教の女子中学→高校→大学→院とすすんでおられたのですよ。
彼女は、私立のそうした選抜された自由な学校に行けば管理教育など関係ない、そういうところを選べばいいのよ、が口癖でした。
かなりエリート主義的で排他的な方でした。それでも主観的には誰よりもリベラルのつもりなんですよ。
つっこんで話を聞くと、その学校でも陰湿ないじめとかピアプレッシャーはあったようだし、フリースクールやオルタナテイブ学校と比せばかなり授業等の選択肢が少なく、運営も透明・民主的とはいえません。
また、「あわない人は来なくていい」というのでは、やはり弱者排除、あるいは批判派つぶし、スキャンダル隠しに使われる可能性もある。で、そこからいわばリストラされた層はどこへ行く、ということについては議論停止。
登校拒否も、ある種の文化エリートとしてとらえているようで、わたしとは終始話がかみあいませんでした。
全員が選抜されることはないこと、そういったタイプの学校は東京等大都市に集中すること、金持ちや低「学力」者には近寄りがたい雰囲気であることなどは、ついぞ理解していません。
また、選抜自体が妥当かについてもまったく意識がありませんでした。
いわゆる「失敗」している他の不登校の親や子にも、傲慢に見下す姿勢を崩さず、
福祉関係の人なのですが、日雇い労働者や「障害」者を理解しようとしないでいわゆる中流文化をおしつけて当然とする発想にはずっと違和感がありました。
いわゆる都市下層とか田舎の人間が警戒し嫌う「建前・ファッションとしてリベラルなことを言いつつ、実は傲慢で冷たい利己主義で二枚舌のインテリ」という像の典型です。

塾禁止VS塾礼賛が、右と左のように表裏一体をなしているという指摘も、当たっているんじゃないでしょうか。

学校も塾も相互補完的なもの。そこに無理に対立を作り出す。だから端から見るとどこかわざとっぽく見えてしまう。
肝心の、塾にアクセスできない層との不公平をどうするとか、競争激化で不本意に塾に行かざるを得ない人の選択権はどうするといった議論には届かないのですね。
中高一貫の男女別学校に通う子のうちかなりの部分は、同時に塾・家庭教師も利用しているという現実も有名であることを考慮しても、しらじらしい。

問題の焦点は、学校か塾かではない。
学校で選抜されなければ国内的にも国際的にも悲惨な労働と生活しかない状況を緩和することを忘れたり隠したりしてはいけません。