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地域にとっての学力って何?

2005年09月05日 18時42分29秒 | 教育・学習法
おじゃまします。TB・コメントありがとうございます。

学校知は、地方の知識を貶め・殺しながら発展してきたんですね。方言をとりしまったり、「エリート」らの運営する最先端の工場が、石牟礼道子さんが「苦海浄土」で紹介した水俣のように、生きる基盤としての漁師の知識・技術をうばってしまったり。
P・フレイレが、「希望の教育学」で、識字教育がらみでブラジルの海岸地方の漁師の船の位置の決め方が合理的だと、「教師がすべてを知るわけではなく、生徒がすべてを知らないわけでもない」例としてあげていたのを思い出しました。
今は、少しずつ地元の知識や文化と科学や学校知を隔絶または対立したものときめつけずに、双方尊重しようとする動きもあります。(たとえば「ビオストーリー」第1号(昭和堂)の投稿論文(2)多元的現実としての生き物―兵庫県但馬地方におけるコウノトリをめぐる「語り」から)木村さんの報告によると、学校教育のなかではまだまだのようですね。

それから、過疎について。これは、地方の権威主義からの脱出でもあると思います。わたしの田舎はとても保守的で、一種の貧困の文化というのか、中産階級流の趣味をもつと、いじめ・いびりがひどいです。
その窮屈さ・残酷さに嫌気がさして、東京や大阪の大学に行く人はあとをたちません。
バブル崩壊後、本来なら東京や大阪の大学に行けるのに地方にとどまった人は、精神をやられています。
なお、地方に分権をすれば、よりいっそうの地域ファッショ化がすすむ危険性もあります。
地域を植民地化しない「学力」を、地域の歴史・伝統のよい部分をうけつぎ、かつ新しい知識・技術とどう組み合わせるのか、むつかしい課題だと思います。もちろん、教育だけで解決できる問題ではなく、政策的なものも求められます。

ただ、疑問に思うのですが、ここでの学力とは何ですか?
達成? 資格? 

学力に関してはこれまでも大いに議論されています。同じテストを違う教師が採点すると大幅に点数がズレるとか、同じ教師が同じテストを別の時間に採点すると別の点数になるといった実験もあります。また、学校の学力は、会社や日常生活では役に立たないという意見もあります。テストが終われば忘れてしまうとか、学校を出て1~2年もたてば忘れてしまう学力を「剥落する学力」「頭のなかに間借りしている学力」として批判するむきもあった。(よりくわしくは、中内敏雄『学力とは何か』岩波新書1983を参照)
いっぽうで、一度学習したことは忘れても復習しやすいとする抗弁もある。やる気の格差(苅谷剛彦さんの言うインテンシブ・デバイド)なんて、アメリカの貧困層の「発達の遅れ」にからむ研究でも言及ずみなので、特に目新しい話題ではないと思います。(よりくわしくは波多野誼余夫と稲垣佳世子「知力の発達--乳幼児から老人まで--」岩波新書1977.1984を参照)
そのほか、テストの点数も、やはり金持ちのほうが有利で、貧乏な層ほど悪くなる傾向もある。学力≒金力という図式ですね。(くわしくは、ブルデュ-&パスロン、バーンステイン等を参照)
木村先生のお話では、地域にとってよき政策立案のできる人間をつくる地域エリート教育のための教科書が求められているという意味なんでしょうか? そのへん、端的にナゾです。







7 コメント

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「学力」の 意味 (ハラナ・タカマサ)
2005-09-05 20:02:54
わざわざ、ありがとうございます。

 当方の議論では、戦略的に「学力」のさす内容を、ボカしたまま すすめています。当面は、学校知として、学力テストで「測定」されるものとして、おとりください。それで、さしあたり、問題ありません。

 もちろん、そんな「学力」でいいなどといった前提で議論をすすめていないことは、ご理解いただけているとおもいます。

 ただ、地方を「脱出」するための「学力」という数量的な「能力」は、「実体」としてあります。それがともなわなければ、地方の「くびき」からのがれるすべさえありません。「合格」という認定があるからこそ、保護者はカネをだすし、奨学金もおりるわけで。かの、野口英世だって、書生をしながらも、何度か「合格」という資格をえて、ステップアップしていきましたしね。

 というわけで、「学力」概念の、ツメは、後日の課題ということで、おゆるしください。



 ちなみに、学力≒金力という、エゲツない構造については、まだまだ周知の事実とはいいがたく、知的能力の絶対的格差が遺伝子情報=実体としてあるという幻想=神話は、ねづよいものがあります。日本はもちろん、アメリカのように、人種差別がつよいところでも。単なる経済格差が学力差の決定的要因だと、暴露されたら、はっきりいって「暴動」のような事態になるとおもいます(笑)。みんな「自分は勉強にむいていないんだ」という、「負け犬」根性を内面化することで、理不尽さを理不尽と自覚しない/できないで、くらしているはずです。

 あと、学力が知力と正の相関があるという神話、知力が所得と直結して当然というイデオロギーも、おおきいでしょう。これについても、のちほどまた。
お返事をどうも (ワタリ)
2005-09-05 21:23:09
ハラナさん、お返事ありがとうございます。

学力をぼかしたまま議論するという点、確認しました。

もちろん、木村さんもハラナさんも、いわゆる学力でOKということではないだろうとは思っています。



地方を脱出するために学力がいるというのはわかります。それにプラス財力ですよね。



このテーマはシリーズものにするのですか? つづきを楽しみにしています。

おそい、ひるやすみです。 (ハラナ・タカマサ)
2005-09-06 13:52:19
■台風が、ものすごくおそいので、「みせじまい」になりません。会議もながれず、予定どおりひらかれるようで、それまで少々。



■シリーズものにするか、ちょっと まよいがあります。■「1」「2」ときたので(つまり前編/後編でもないので)、普通「3」は、最低でもかきますよね(笑)。■一応、そのつもりで かきはじめたのですが、木村先生あてに、補足文をかいたことで、ちょっと、てづまり状態かなと、少々感じておりまして。

■でも「学力」と、「」つきで、「学力」批判をあわせた性格もかかえていますから、あと1~2回は、がんばる予定です。■時間かかりそうですが。あっちこっち、いろんなこと、かきちらしている関係もあって(笑)。
部落にとっての学力 (ワタリ)
2005-09-08 22:44:22
実は最近、知り合いの大阪の定時制高校の教員のかたに、「地域にとっての学力って何?」って質問をぶつけてみました。

少し考えた後、「大阪のほうでは、について、昔から同じことが言われてきたんや」との返事。出身のよくできる子どもが、の外に流出し、地元に帰ってきてコミュニテイ再建のために尽くすことがない、という問題について、同和教育関係者のあいだで

かねてから話題にされているということでした。

ためしにググってみたら、ありました。

http://blog.mag2.com/m/log/0000027395/105237643

一度、の外に進学等によって出てゆくと、もう戻ってこないんですよね。そうならない教育とか学力ってあるのか? って同和教育かいわいでは議論がつづいている。

は、地方以上に長期にわたった貧困・剥奪のなかに、最近のキーワードで言うと社会的な排除のなかにありましたから。

不平等な社会を変えないかぎり、いくらよい学校があり、解放運動もからめた補修授業をしても、仕方がないのかもしれません。



それから、以前、解放教育関連の本で見て印象的だった話があります。ある中学で学力保障に力を入れている教員が、のある女の子をいい高校に入れた。しかし、のちに彼女は、「中学には誰も信頼できる先生がいなかった」と述べているんです。知識だけでは、人は幸せになれない。

 知識を伝えるのは大切なことですが、それは必要条件であって十分条件ではないことは、繰り返し確認したほうがいいことだと思います。
Unknown (ハラナ・タカマサ)
2005-09-09 17:13:22
ワタリさん、ありがとうございました。

あの、メルマガ、なかなか高水準ですね。現場の先生の意見がよめるので、登録してきました。

ところで、解放教育は、少数民族出身者やアメリカのスラムなどと同様、ほんと、人材流出構造が深刻ですね。そして、とどまれ、というのは、内部の人物でさえもいいにくい。なぜなら、どんなひとも差別されずにくらす選択肢があって当然だからです。被差別のばあい、バレずにくらすことも、かなりの程度可能ですし。

 この件は、また後日かきます。
Unknown (ワタリ)
2005-09-13 01:40:38
ハラナさん、コメントありがとう。



学力問題とは、とどのつまり階層問題なのかもしれません。階層を学力といいかえるトートロジーだからこそ、具体的な学力の正体はないし、あっては困るのかな、と。学力とは、現在のハイアラキカルな分業に正当性を与える道具なのかもしれません。

そこで、学力格差をちぢめる(つもりの)実践も、あるいは上記のメルマガに紹介されているような、対話や参加を前提とする学力も、不都合なのでしょう。
訂正 (ワタリ)
2005-09-13 01:43:12
すみません、↑ の最後の文の「そこで、」のあとに主語が抜けています。主語は、「階層格差を拡大または隠匿したい人々にとっては」です。