学校のない社会 大学のない世界

学校のない社会、大学のない世界に興味・関心のある方、ともに集いましょう。大学教員によるトラックバック等はご遠慮ください。

ブログタイトル変更のお知らせ

2008年08月11日 01時18分44秒 | オルタナティブ教育
すみません。今日より旧ブログタイトルだったオルタナティブ大学 on blog を
オルタナティブ塾 on blogへと変更いたします。

理由は、「大学」というものに対して過剰な幻想を抱いて管理人に会いに来たうえ、とても一般人とは思えない粗暴な言葉・態度を示し、セクハラかストーキングとみまごうことを書籍やネットを通じて行う者さえいるからです。

いわゆる大学をわたしはあまり好きではありません。ていうか自分とはあまり日常的に接点がありません。
誰か詳しい人が何も知らない人たちに教える。ある種の閉鎖性・不透明さ、特権。
非民主的・官僚主義的な運営。建前と本音の落差の激しさ。
正当性と知識中心主義。

それらとは距離をおきたいのです。

「ボキュはこれほどよくお勉強したんだから承認して」とマザコン男が気持ち悪い一方的なメールをしてくる。その勝手すぎる期待にわたしが答えないし、そこが特権的なポストや専門性を保障する場所でないと知るやいなや、わたしのことを被害妄想だと言ったり、自分のほうから他人を中傷しながらその方自身が中傷されているとブログに記事を貼ったりする、一人勝手なプライド-屈辱ゲームを楽しむ人間にこれ以上勝手な仲間意識や期待・幻想を持たれないためにも、大学の名前は使わないほうがいいと判断しました。

基本的な中身・方針は変わりませんので、どうかこれからもよろしくお願いします。

なおこれは告知記事ですので、コメントはお断りします。




孤立型メモ

2006年08月07日 05時14分05秒 | オルタナティブ教育
最近ようやくアクセスできた興味深い話があるため紹介したい。

「イリノイ州、ナイルズ・タウンシップのアクション・ラーニング・センターの所長、ロバート・フィッゼルは、1975年に学習者と学校の組み合わせのための基礎的資料として、従来の学校やオルターティブ・スクールにおいて成功している生徒の特質を報告している。(中略)彼は、学校における成功ということについて50の変数を見出し、驚くべき結論を引き出した。すなわち、ある学校で成功することに関わる特性は、他の学校で失敗することとしばしば関係しているということである。(中略)フィッゼルは大部分のパーソナリティ特性で平均的、つまり中位にある生徒は、従来の学校環境で伸びると結論づけている。パーソナリティ変数においてかたよりがあり、「明確な差異を示している」人格をもった生徒は、オルターナティブスクール」の環境ではよりよく伸びるという。(中略)
さらにフィッゼルは、友達を求めないタイプで成人に関わることを求める「孤立型(‘loners’)をとりあげ、これらの生徒は独立したプロジェクトや、地域社会での活動に関わる現場学習・プログラムで立派な成績をあげているという。彼はまた、普通の学校でもオルターナティブスクールでも成績の上がらない生徒に着目して、「ひとつのオルターナティブでは充分とはいえない」という彼の結論を根拠づけている。フィッゼルはまた(中略)別のタイプの生徒やグループについても報告している。

「教育におけるオルターナティブ--選択の自由--」ヴァーノン・スミス、ロバート・バー、ダニエル・バーク著 角本 尚紀 中西 良夫 共訳 仲原 晶子監訳学苑社 1990.4 :113-114」

集団主義の学校教育は、こうした孤立型の人たちを排除する傾向がある。
こういうタイプの人にもあった学習環境があったほうがいい。
成人後は、労働(失業)環境の問題になる。
日本の職場では、集団主義が強い。だけど、孤立型の人だって、ひとりでやるほうがいい作業には向いているはずだ。むしろ、集団で私語をしたり、互いにもたれあいすぎて誰も上司の指示を理解していないといった職場の弊害を改善するリーダー役をはたすこともあるだろう。

*1イタリアやフランスでは、労働組合に加入していない個人が、組合のはじめたストライキに参加する権利を憲法保障している。
*2また、組合の結んだ労使協定は、未組織の個人にも適応される。
孤立型の個人のためにも、日本もこうした個人を個人であるだけで排除しないシステムをめざすべきだ。

*1 研究会・職場の人権の2006年5月定例会での脇田 滋の発言による。
*2 同上。

オルタナティブ教育に関する雑記

2006年08月07日 04時04分19秒 | オルタナティブ教育
この記事は、とあるブログhttp://blog.livedoor.jp/psw_yokohama/archives/50503322.htmlへのトラックバックです。

はじめまして。
この記事を興味深く読ませてもらいました。コメント欄に書くには長すぎるので、タオラックバックします。

で、いち不登校経験者として言いたいことがあるのですが。
東京シューレがブランド化戦略をとったのは、NPOとして生き残るための戦略だったと思います。それについては賛成も反対もできません。

わたしは不登校をマイナス視していないので、あなたとは話がかみあわないと思います。

奥地さんのおっしゃることも彼女のエゴ・ミエの要素はふんだんにあり、すべてに賛成しているわけではありません。ただし、不登校をいっかつしてくくらないというあなたのお立場からしても、東京シューレや奥地メソッドは否定できないのではないでしょうか?
というのも、一口に不登校といってもいろんな子がいる。なかには東京シューレの奥地メソッドがあう子もいるし、会わない人もいる。そういう人は、別のフリースクールに行くか、自分で作るかするしかない。そもそもオルタナティブ教育プログラムとはそうした趣旨のものですよね?
個人的に、わたしには奥地メソッドはあてはまらなかったのだと思います。奥地メソッドとは別の方針によるフリースクールに何箇所か通った経験から言うと、やはり主催者と同じ社会的立場、同じような自我の形成、同じような環境でないとちぐはぐなことになるのではないかと。
そのへん、フリースクール側もPR不足はあります。つっこまれたときの言い訳めいた説明ではなく、ここはこういうシステムでルールでやっているんだよと、同人誌的な内輪だけでわかる言葉だけではなく、周囲にわかりやすい角度から説明・説得することが求められているのではないでしょうか?
集会のときのプレス係とは別に、PR係を作ったほうがいいのかもしれません。

>「誌上やネット上での交流ができたり、文通や電話>で連絡をとりあったり、実際に会ったり」
>そんなことで、社会からの孤立を回避できると考え
>るのは、非現実的としか言いようがありません。

これは社会的排除の問題として関心があります。
ただ、メディアのつながりも社会じゃないでしょうか? だからいけないというわけではないと思います。

>家からどこか外へ通わなければ、社会性を身に付けることができずに自宅以外では生きていけない人になりかねません

ちょっとこれは極論かと。SOHOの人はどうなるんですか? なんだか、お話を見ていると、社会的排除を新たに作っているのか、それとも社会的排除をなくすために動いているのか分かりかねます。いったい、どういうお立場から不登校の話をしていらっしゃるんでしょうか? ただし、親が世間体を気にしたり心配性のあまり、子どもの外出権とか社交する権利を侵す例もある。これは問題だと思います。

実はわたしは、親の妨害により、フリースクールの寮にいたいのにいられない状態になりました。ほかに何箇所も行って見たいフリースクールが国内外にありました。何度も行きたいと訴えたのですが、そうすればするほどダメ人間・キチガイ扱いされて立場がなくなっていきました。家の恥を外にさらすな、という命令、女の子は貞操を守れという貞操主義もからみ、絶望の日々でした。今30代ですが、今でも日本やアメリカのいろんなフリースクールをまわって、自分を知ることをさまたげられ、自分に合わない受験勉強をやった後遺症はあります。それでうつになっているのですが、まるで短期語学留学のような形で、フリースクールを利用せざるをえなかった困難は、リベラルな家庭に育ったフリースクーラーや、協力関係にある専門家らには理解不能のようです。

また、就労後の労働環境の悪さや、賃金・保障の問題もあの人たちは見向きもしません。正直、まともに話にもなりません。これは若年層差別・非正規雇用の問題として扱ったほうがいいのですが、リンクしている問題にまるで理解がないのは視野狭窄と批判されてしかるべきでしょう。

なお、あなたは東京シューレを薄気味悪い宗教のようだとおっしゃいますね。その感覚、わからないわけではありません。だけど一方で、学校教育が絶対だとする立場も同じ程度にカルトだかセクトめいた発想だとお思いになりませんか? わたしのほうから言うと、どっちもどっちだとしか言いようがありません。
フリースクールもまた絶対ではないと相対化することは必要だと思います。そのうえで、特定のメソッドを人にすすめたいのなら広告すればいい。それが自由社会のルールではないでしょうか。
ということは、あなたが東京シューレを批判するのもいい。それにわたしが異論をはさむのもOK。それに別の人が別の角度から意見するのも当然、ということです。