『スローターハウス5』 ジョージ・ロイ・ヒル監督 ☆☆☆★
カート・ヴォネガット原作の映画を再見。監督は『明日に向かって撃て』『スティング』の名匠ジョージ・ロイ・ヒルである。あまりSFを撮る印象はない監督さんだが、意外とジャンルにこだわらず何でもやる人のようだ。
原作はヴォネガット作品中でも一、二を争う傑作である。題材はヴォネガット自身が経験したドレスデン大空襲だが、そこをトラルファマドール星人とかタイムスリップとかいうオフビートなSF的仕掛けでひねりまくっている。まさにヴォネガットの名人芸によって成立している小説であり、これを映画化するのは相当な冒険だったと思う。正直、よくやったなというのが第一の感想だ。
もっとも特徴的なのが物語の構成である。原作通り、エピソードが時系列バラバラのこまぎれになっている。原作を知らない人が観ると「なんじゃこりゃ?」となってしまうだろう。ちょっと考えて、これは脈絡のない回想なんだな、と思うかも知れない。もしかすると、ヒル監督自身そう思われてもいいと思って作ったということもありうる。しかし原作では、これはトラルファマドール星人の哲学、すなわち人生とは玉突きじみた出来事の連鎖ではなく、人生のどの瞬間もこれまで常に平行して存在したし、今現在存在するし、これからも存在し続けるのだという世界観の表現なのである。
ともあれ、この時系列バラバラは観客を戸惑わせる。主人公のビリーが若くなったり年取ったりするし、経緯や状況がよく分からない。映画も後半になればだんだん全体像が呑み込めて来るが、前半は特に見づらい。これから起きることを事前に観客に予告するテクニックとしても利用されているが(たとえばドレスデン空襲で誰が死ぬか、など)、やはり分かりづらさのデメリットは大きい。
そして、本来それが意図しているはずのトラルファマドール星人の人生観が、充分にテーマとして強調されていない。原作では主人公のビリーがことあるごとにそれに言及するが、映画ではある場面で説明されるもののそれほど前面に出てこず、従って、この時系列バラバラの意図が余計に分かりづらく、また必然性が薄く感じられる結果となっている。
同じ理由により、ビリーがドレスデン空襲を体験するエピソードと、トラルファマドール星人に生け捕りにされるエピソードの繋がりが弱い。原作を知らずに映画を観た人は、ドレスデン空襲の映画なのになんでビリーが円盤に連れ去られる必要があるのだろうか、どんな関連があるのだろうかと、訝しく思うのではないだろうか。戦争の悲劇を描く重厚な場面と、トラルファマドール星の妙にチープなSFのセットとの違和感もある。まあ、そのアンバランスが一種風変わりな魅力になっているといえなくもないが。
やはり、この映画の力点はドレスデン爆撃の描写にあり、もっとも印象に残るのもそれに関連するエピソードだ。ビリーはドイツ軍の捕虜になり、「エルベ河畔のフィレンツェ」といわれる美しい都市、ドレスデンに移送される。軍事拠点ではないドレスデンは安全と言われ、爆撃されることはないと誰もが信じていたが、2月13日、連合軍の無差別爆撃が始まる。ビリー達は防空壕に非難して生き延びるが、空襲後、地上に出て目にしたドレスデンの変わり果てた姿に茫然となる。ドイツの若い士官は炎上する家族のアパートに泣き叫びながら駆け込もうとする。この空襲前後の場面は非常に迫力がある。空襲後のドレスデンの映像は、一体どうやって撮ったのだろうと思うほど臨場感に溢れている。
ドレスデン空襲は「連合国の国民がはじめてナチスを倒すための軍事作戦に疑問を持った瞬間だった」(Wikipediaより)と言われ、ヴォネガットがこれを批判する立場にいることは明白だが、映画の中には「ナチスがやったことを考えろ、それでもドレスデン爆撃がいけなかったと言うのか」と主張する元軍人も登場する。また、焼け跡で人形を拾ったアメリカ人捕虜を官僚的に射殺するドイツ兵の描写や、アメリカ人でありながらナチスに協力する軍人も登場し、戦争の不条理と悲惨を多面的に描き出している。
そしてこの哀しい映画を象徴するような戦場の雪景色に、グレン・グールドの美しいピアノがよく似合っている。
風変わりな、ちょっとチープな、そして独特のムードを持った映画であることは間違いない。個人的には結構好きだ。が、傑作というにはいささか散漫だとも思う。時系列を無視したエピソード構成はヴォネガットの魅力的な語り抜きでは充分な効果と上げていないし、映画の結末時点でも、ビリーの人生からはいくつかのパズルのピースが抜け落ちている。何より、こまぎれにされることによって物語のダイナミズムがうまく流れていない点が惜しい。ただし、原作ファンにとって一見の価値はある映画だ。
カート・ヴォネガット原作の映画を再見。監督は『明日に向かって撃て』『スティング』の名匠ジョージ・ロイ・ヒルである。あまりSFを撮る印象はない監督さんだが、意外とジャンルにこだわらず何でもやる人のようだ。
原作はヴォネガット作品中でも一、二を争う傑作である。題材はヴォネガット自身が経験したドレスデン大空襲だが、そこをトラルファマドール星人とかタイムスリップとかいうオフビートなSF的仕掛けでひねりまくっている。まさにヴォネガットの名人芸によって成立している小説であり、これを映画化するのは相当な冒険だったと思う。正直、よくやったなというのが第一の感想だ。
もっとも特徴的なのが物語の構成である。原作通り、エピソードが時系列バラバラのこまぎれになっている。原作を知らない人が観ると「なんじゃこりゃ?」となってしまうだろう。ちょっと考えて、これは脈絡のない回想なんだな、と思うかも知れない。もしかすると、ヒル監督自身そう思われてもいいと思って作ったということもありうる。しかし原作では、これはトラルファマドール星人の哲学、すなわち人生とは玉突きじみた出来事の連鎖ではなく、人生のどの瞬間もこれまで常に平行して存在したし、今現在存在するし、これからも存在し続けるのだという世界観の表現なのである。
ともあれ、この時系列バラバラは観客を戸惑わせる。主人公のビリーが若くなったり年取ったりするし、経緯や状況がよく分からない。映画も後半になればだんだん全体像が呑み込めて来るが、前半は特に見づらい。これから起きることを事前に観客に予告するテクニックとしても利用されているが(たとえばドレスデン空襲で誰が死ぬか、など)、やはり分かりづらさのデメリットは大きい。
そして、本来それが意図しているはずのトラルファマドール星人の人生観が、充分にテーマとして強調されていない。原作では主人公のビリーがことあるごとにそれに言及するが、映画ではある場面で説明されるもののそれほど前面に出てこず、従って、この時系列バラバラの意図が余計に分かりづらく、また必然性が薄く感じられる結果となっている。
同じ理由により、ビリーがドレスデン空襲を体験するエピソードと、トラルファマドール星人に生け捕りにされるエピソードの繋がりが弱い。原作を知らずに映画を観た人は、ドレスデン空襲の映画なのになんでビリーが円盤に連れ去られる必要があるのだろうか、どんな関連があるのだろうかと、訝しく思うのではないだろうか。戦争の悲劇を描く重厚な場面と、トラルファマドール星の妙にチープなSFのセットとの違和感もある。まあ、そのアンバランスが一種風変わりな魅力になっているといえなくもないが。
やはり、この映画の力点はドレスデン爆撃の描写にあり、もっとも印象に残るのもそれに関連するエピソードだ。ビリーはドイツ軍の捕虜になり、「エルベ河畔のフィレンツェ」といわれる美しい都市、ドレスデンに移送される。軍事拠点ではないドレスデンは安全と言われ、爆撃されることはないと誰もが信じていたが、2月13日、連合軍の無差別爆撃が始まる。ビリー達は防空壕に非難して生き延びるが、空襲後、地上に出て目にしたドレスデンの変わり果てた姿に茫然となる。ドイツの若い士官は炎上する家族のアパートに泣き叫びながら駆け込もうとする。この空襲前後の場面は非常に迫力がある。空襲後のドレスデンの映像は、一体どうやって撮ったのだろうと思うほど臨場感に溢れている。
ドレスデン空襲は「連合国の国民がはじめてナチスを倒すための軍事作戦に疑問を持った瞬間だった」(Wikipediaより)と言われ、ヴォネガットがこれを批判する立場にいることは明白だが、映画の中には「ナチスがやったことを考えろ、それでもドレスデン爆撃がいけなかったと言うのか」と主張する元軍人も登場する。また、焼け跡で人形を拾ったアメリカ人捕虜を官僚的に射殺するドイツ兵の描写や、アメリカ人でありながらナチスに協力する軍人も登場し、戦争の不条理と悲惨を多面的に描き出している。
そしてこの哀しい映画を象徴するような戦場の雪景色に、グレン・グールドの美しいピアノがよく似合っている。
風変わりな、ちょっとチープな、そして独特のムードを持った映画であることは間違いない。個人的には結構好きだ。が、傑作というにはいささか散漫だとも思う。時系列を無視したエピソード構成はヴォネガットの魅力的な語り抜きでは充分な効果と上げていないし、映画の結末時点でも、ビリーの人生からはいくつかのパズルのピースが抜け落ちている。何より、こまぎれにされることによって物語のダイナミズムがうまく流れていない点が惜しい。ただし、原作ファンにとって一見の価値はある映画だ。
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