『ディキシー・チキン』 リトル・フィート ☆☆☆☆☆
昔からプログレ好きだった私はウェスト・コースト・ロックというものにずっと興味がなく、なんとなく聴き始めたのはわりと最近のことだ。もちろんカーペンターズやイーグルスは知っていたが「軽いね」「ポップだね」と完全になめていた。やがて転がり落ちるようにスティーリー・ダンにはまるが、これはウェスト・コースト・ロックとしては例外だと思っていた。そんな私の目を本格的にウェスト・コースト・ロックに向けさせてくれたのがこのリトル・フィートであり、『ディキシー・チキン』である。
と言っても、一度聴いてすぐガツンときたわけではない。この『ディキシー・チキン』は名盤として有名なので20代の頃最初に聴いたが、いかにもアメリカン・ロックな泥臭さを感じて「これ、パス」となってしまったのである。若気の至りだ。ところがそれから十年以上たって再び聴いてみたところが、「あれ? これ結構いいんじゃない?」となり、あれよあれよという間にはまってしまった。リトル・フィートは全てのレコードを持っているわけじゃないが、『ディキシー・チキン』の他にも『The Last Record Album』や強力無比のライブ盤『Waiting For Columbus』などを愛聴している。
私のリトル・フィートへのハマり方はスティーリー・ダンつながりと言っていいと思う。スティーリー・ダンとリトル・フィートが似ているという人がどれぐらいいるのか知らないが、私に中ではどこかリンクしている。それは音楽のスタイルなどよりもっと根本的な、音へのこだわり具合とか、余裕とか、洒脱さとか、そういう音楽を創る姿勢の中に感じられる何かだ。リトル・フィートは『The Last Record Album』の頃からジャズ・フュージョン色を強めたと言われるが、それ以前の『ディキシー・チキン』の頃からすでに共通要素を感じる。
彼らの音楽はニューオーリンズ、ブルース、カントリー、ファンクなどをベースにした粘っこいもので、ぱっと聴くと泥臭さを感じさせるが、ルーツ音楽をそのまま再生産してますそれが幸せなんです、という素朴さはあまり感じられない。むしろ非常に計算され、こだわりを持ち、辛辣な批評性を持って独自に料理されているのが感じられる。そういうところが畸形ロックと言われるスティーリ・ダンに似ているように思うのだが、それを見せびらかそうとはせず、分かる奴だけ分かればいいよという大人の余裕があって、それがまた良いのである。いわゆる都会的に洗練されたオシャレな音楽と比べると最初は泥臭く感じるが、よく聞き込むとこっちの方がむしろ本物の洗練、洒脱さだと思えてくる。
そういったフィートのエスプリをよく表しているのが彼らのアルバム・ジャケットで、この『ディキシー・チキン』といい、『セイリン・シュー』といい、『Waiting For Columbus』といい、ユーモアと艶っぽさが同居した最高にクールなアートワークだ。彼らの音楽にぴったりだと思う。ちなみにサザンの桑田圭佑がリトル・フィートのファンであるのは有名で、デビューアルバムには「いとしのフィート」という曲が収録されているし、トリビュート・アルバムにも参加している。
『ディキシー・チキン』はフィートがニューオーリンズ・サウンドを導入した最初のアルバムで、それまでよりぐっとファンキーさと黒っぽさが増し、リズムが強化されているらしい(らしいというのはこれ以前のアルバムをちゃんと聴いたことがないから)。粘っこいリズムとホンキートンク調のピアノがご機嫌なタイトル・チューンで幕を開け、アコースティックな『Roll Em Easy』、メランコリックな『On Your Way Down』、フィートのアンサンブルが堪能できる『Fat Man in the Bathtub』などいろんなタイプの曲が聴ける。強靭なリズムとアレンジの妙がたっぷり愉しめるし、なんといってもこの艶っぽさが最高。売り物であるローウェル・ジョージのスライド・ギターも良いが、個人的にはリッチー・ヘイワードのドラムがツボに来る。ツェッペリンのジョン・ボーナムが彼の影響を受けているのは有名だ。バタン、バタンという乾いたドラムの音は実に味があっていい。
一度ハマるとクセになる、一筋縄ではいかないリトル・フィートの世界。あなたもぜひ体験してみて下さい。
昔からプログレ好きだった私はウェスト・コースト・ロックというものにずっと興味がなく、なんとなく聴き始めたのはわりと最近のことだ。もちろんカーペンターズやイーグルスは知っていたが「軽いね」「ポップだね」と完全になめていた。やがて転がり落ちるようにスティーリー・ダンにはまるが、これはウェスト・コースト・ロックとしては例外だと思っていた。そんな私の目を本格的にウェスト・コースト・ロックに向けさせてくれたのがこのリトル・フィートであり、『ディキシー・チキン』である。
と言っても、一度聴いてすぐガツンときたわけではない。この『ディキシー・チキン』は名盤として有名なので20代の頃最初に聴いたが、いかにもアメリカン・ロックな泥臭さを感じて「これ、パス」となってしまったのである。若気の至りだ。ところがそれから十年以上たって再び聴いてみたところが、「あれ? これ結構いいんじゃない?」となり、あれよあれよという間にはまってしまった。リトル・フィートは全てのレコードを持っているわけじゃないが、『ディキシー・チキン』の他にも『The Last Record Album』や強力無比のライブ盤『Waiting For Columbus』などを愛聴している。
私のリトル・フィートへのハマり方はスティーリー・ダンつながりと言っていいと思う。スティーリー・ダンとリトル・フィートが似ているという人がどれぐらいいるのか知らないが、私に中ではどこかリンクしている。それは音楽のスタイルなどよりもっと根本的な、音へのこだわり具合とか、余裕とか、洒脱さとか、そういう音楽を創る姿勢の中に感じられる何かだ。リトル・フィートは『The Last Record Album』の頃からジャズ・フュージョン色を強めたと言われるが、それ以前の『ディキシー・チキン』の頃からすでに共通要素を感じる。
彼らの音楽はニューオーリンズ、ブルース、カントリー、ファンクなどをベースにした粘っこいもので、ぱっと聴くと泥臭さを感じさせるが、ルーツ音楽をそのまま再生産してますそれが幸せなんです、という素朴さはあまり感じられない。むしろ非常に計算され、こだわりを持ち、辛辣な批評性を持って独自に料理されているのが感じられる。そういうところが畸形ロックと言われるスティーリ・ダンに似ているように思うのだが、それを見せびらかそうとはせず、分かる奴だけ分かればいいよという大人の余裕があって、それがまた良いのである。いわゆる都会的に洗練されたオシャレな音楽と比べると最初は泥臭く感じるが、よく聞き込むとこっちの方がむしろ本物の洗練、洒脱さだと思えてくる。
そういったフィートのエスプリをよく表しているのが彼らのアルバム・ジャケットで、この『ディキシー・チキン』といい、『セイリン・シュー』といい、『Waiting For Columbus』といい、ユーモアと艶っぽさが同居した最高にクールなアートワークだ。彼らの音楽にぴったりだと思う。ちなみにサザンの桑田圭佑がリトル・フィートのファンであるのは有名で、デビューアルバムには「いとしのフィート」という曲が収録されているし、トリビュート・アルバムにも参加している。
『ディキシー・チキン』はフィートがニューオーリンズ・サウンドを導入した最初のアルバムで、それまでよりぐっとファンキーさと黒っぽさが増し、リズムが強化されているらしい(らしいというのはこれ以前のアルバムをちゃんと聴いたことがないから)。粘っこいリズムとホンキートンク調のピアノがご機嫌なタイトル・チューンで幕を開け、アコースティックな『Roll Em Easy』、メランコリックな『On Your Way Down』、フィートのアンサンブルが堪能できる『Fat Man in the Bathtub』などいろんなタイプの曲が聴ける。強靭なリズムとアレンジの妙がたっぷり愉しめるし、なんといってもこの艶っぽさが最高。売り物であるローウェル・ジョージのスライド・ギターも良いが、個人的にはリッチー・ヘイワードのドラムがツボに来る。ツェッペリンのジョン・ボーナムが彼の影響を受けているのは有名だ。バタン、バタンという乾いたドラムの音は実に味があっていい。
一度ハマるとクセになる、一筋縄ではいかないリトル・フィートの世界。あなたもぜひ体験してみて下さい。
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