アブソリュート・エゴ・レビュー

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ピサへの道―七つのゴシック物語2

2007-12-15 13:47:14 | 
『ピサへの道―七つのゴシック物語2』 アイザック・ディネーセン   ☆☆☆☆☆

 『夢みる人びと』に続く「七つのゴシック物語」の二巻目。けれども原著ではこちら収録分が前半というねじれ翻訳となっている。収録は「ノルデルナイの大洪水」「老男爵の思い出話」「猿」「ピサへの道」の4篇。短篇の巧緻さはどれもこれも甲乙つけがたいが、個人的には『夢みる人びと』よりこっちの方が好きだ。「ノルデルナイの大洪水」と「猿」を偏愛しているのである。

 「ノルデルナイの大洪水」は、洪水が起きたノルデルナイの夜、水の中に取り残された4人の老若男女がそれぞれの身の上を語るという話である。4人の中には献身的に人びとの救助に当たった聖人のようなハミルカール枢機卿もいる。洪水の夜という状況も神秘的だが、それぞれが語る身の上話も例によって寓話的な、形而上学的幻想に満ち溢れた異様な物語ばかり。「他人の目に見えなくなる」ことを求めて逃れてきた青年ヨナタンもいれば、「他人の目に見えるようになる」ことを求めて逃れてきた少女カリプソーもいる。二人はお互いに数奇な縁を感じ、この洪水の夜、枢機卿の介添えで結婚する。そして若い二人が眠ったあと、老貴婦人を相手に枢機卿は驚くべき告白をする。「人は素顔によって判断されない、仮面によってこそ判断される」という逆説を中心にして展開する巧緻きわまる短篇。この一篇の中に更にいくつもの小さな物語がはめ込まれ、それぞれが容易に汲み尽くせない多義的な寓意をもち、互いにせめぎあい、アレゴリーの万華鏡を作り上げるというディーネセンの離れ業が炸裂している。これが作家デビュー作なのである。あり得ない。

 「猿」は驚くべき短篇である。この荒唐無稽さにはほとんど顎が外れそうになる。修道院長、伯母である院長をたずねてやってきた甥、そして森にすむ乙女、この三人が主要な登場人物。甥は男色の噂を立てられて破滅寸前、乙女アテナは頑なに結婚を拒む独身主義者。院長はこの二人を結婚させようと策をめぐらす。アテナを修道院に招いて、甥にわざと夜這いをさせ、「お詫び」として結婚をまとめようなどと、とても修道院長とは思えない手を使ったりする。なぜ院長はこれほどまでに二人の結婚に熱心なのか? なんとなくコミカルな艶笑譚のようなプロットだなと思って読み進めると、結末で度肝を抜かれる。艶笑譚なんてとんでもない、これはポーのもっとも狂気じみた幻想譚にも匹敵する非現実的な寓話だったのである。タイトルの「猿」とは院長が飼っている猿のこと。この話のどこに猿が関係してくるのか? すべてに関係しているのである。

 「老男爵の思い出話」は小品だが、やはり形而上学的なひねりと逆説的な寓話性がある。そして「ピサへの道」もディーネセン・マジックが存分に味わえる巧緻きわまる運命譚。個人的には「ノルデルナイの大洪水」「猿」の方が好きだが、巧緻さでは勝るとも劣らない。最初読んだ時はほとんど意味が分からなかった。

 こうして七篇通して読んでみると、まず小説の中で登場人物が語る物語、つまり物語中物語がとにかく多い。一つの短篇の中に必ず複数の物語がはめ込まれていて、それぞれに寓意があるわけだが、その寓意がまた一筋縄ではいかない。アクロバティックに逆説的だったり、多義的だったり、異端的だったりする。ほとんどボルヘスかチェスタトン並み。しかもある寓話が別の寓話のアンチテーゼとして語られたりするので、全体としては何が言いたいのかますます分からなくなる。でもそれでいいのである。こうして作品がどんどん多義的に、多層的になっていく。物語の迷宮が出来上がる。

 それからまた、作中人物がやたらに文学作品や宗教に言及するのも特徴。シェイクスピアから聖書、ゲーテやダンテ、ギリシャの古典文学や神話などが縦横無尽に引用される。それらがまた謎かけのようにストーリーの中に組み込まれるからたまらない。アレゴリーがアレゴリーを呼び、アラベスク模様を描いてアレゴリーの小宇宙を形成する。

 物語の魅惑的な迷宮性は多義性から生じる。AさんとBさんの勧善懲悪的な戦いをいくら錯綜したプロットで長々とやっても、それだけでは迷宮にならないのである。『アラビアの夜の種族』 の全三巻をもってしても、この『七つのゴシック物語』の短篇一つの迷宮性に及ばない、個人的にはそう思うがどうか。
 


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