『島とクジラと女をめぐる断片』 アントニオ・タブッキ ☆☆☆☆☆
再読。というかもう何度読んだか分からない。タブッキは大好きな作家だが、その中でも特にお気に入りの一冊である。
タブッキには他にも『インド夜想曲』『供述によればペレイラは』など傑作があるが、この『島とクジラ』はそういう他の作品とは全然違う形式の小説になっている。まず、一貫したプロットと登場人物が存在しない。異なる断片的なテキストの寄せ集めになっている。短編集のようでもあるが、全体がクジラ、難破、アソーレス諸島というテーマで統一されていて、何より一冊の本としてバランスよく美しく構成されている。
具体的には次のような構成になっている。
『まえがき』
『ヘスペリデス。手紙の形式による夢』
『アソーレス諸島のあたりを徘徊する小さな青いクジラ――ある話の断片』
『その他の断片』
『アンテール・デ・ケンタル――ある生涯の物語』
『沖合(法規~捕鯨行)』
『ピム港の女――ある物語』
『あとがき――一頭のクジラが人間を眺めて』
異質なテキストというのは、例えば『ヘスペリデス』はボルヘス風の幻想的な散文(島の人々があがめる神々について)、『小さな青いクジラ』はヘミングウェイ風、『その他の断片』はクジラや難破に関するとりとめのないエッセー風、『沖合い』の後半『捕鯨行』はドキュメント風、という具合にそれぞれ違っている。違っているが、わざとスタイルを変えたという頭でっかちなところは微塵もなく、どれもタブッキ以外の何物でもない文章になっている。それがなんといっても素晴らしい。
こういう本であるため、具体的なストーリーに引き込まれる魅力には欠けるが、その代わりにどこまでも広がっていくような透明な幻想性と詩情をたたえている。アソーレス諸島、滅び行くものの隠喩としてのクジラ、遂行されなかった行為の隠喩としての難破、そして船乗りたち。これらのイメージが具体的にではなく抽象的なまま、リリシズムだけが抽出されてどんどん膨らんでいくような、不思議な読書体験ができる。訳者の須賀敦子が書いているように、タブッキの特徴である暗示性が極限に達したような作品である。
断片性、暗示性ということでいうと、例えば『アソーレス諸島のあたりを徘徊する小さな青いクジラ』は男女の会話を描いた一幕物的な短篇だが、この男女の会話の背景にあるものは読者には分からないようになっている。複雑な愛憎関係が存在することが暗示されるだけだ。しかしタブッキはその暗示、ほのめかしだけで小説を成立させてしまう。むしろ具体的なプロットを作りこまない方が、読者の想像力に訴える力が強くなることを知っているのである。この暗示、ほのめかしの技法はタブッキの他の作品でも非常に洗練された形で駆使されている。
それからタブッキの魅力といえばなんといっても独特の文体だが、冒頭の『まえがき』からその麻薬のようなタブッキ文体を堪能できる。たとえば、次のような一節。「この本の主題は、主としてクジラだが、生き物としてのクジラというよりは、むしろ隠喩としてのクジラだと言いたい。それから、難破についていうと、これも、遂行の域に達しなかった行為あるいは失敗という、この言葉の本来の意味において、クジラに劣らず隠喩的といえる」
魔術的なタブッキ文体は、『捕鯨行』のようなドキュメント・タッチの文章においても、終盤にちょっとした文章を付け足して、それまでのすべてを詩的に変容させてしまう離れ業を演じる。捕鯨に同行した「僕」が捕鯨手になぜ同行したのかときかれる。「こう、言ってみる。たぶん、あなたがたは、あなたもクジラも、まもなく消えてしまう種族だからじゃないでしょうか。たぶん、そのためです。だが、エウジェニオ氏はもう眠っているのだろう、応えはない」
タブッキの文体は誰の翻訳でも輝きを失わないが、個人的には須賀敦子氏の翻訳が一番魅力を引き出しているように感じる。
それから最後の『ピム港の女』。これはトリをつとめるにふさわしいきわめてタブッキ的な、とても美しい短篇小説だ。暗示性と象徴性と音楽性に満ちている。須賀敦子氏はあとがきでこの短篇に触れ、「(読んだあと)しばらく本を置くことができなかった」と書いている。ちなみにこの本のイタリア語の原題は『ピム港の女』である。須賀敦子氏は港と女という常套的な組み合わせから逃れたかったのと、クジラと島が抜けてしまうのが惜しいと思ったので邦題を『島とクジラと女をめぐる断片』にしたそうだが、私はやはり『ピム港の女』の方がいいと思う。
そして最後の『あとがき――一頭のクジラが人間を眺めて』だが、あとがきとはいえこれもちゃんと作品になっている。副題の通り、人間を見ているクジラの独白という、これまたタブッキ的遊戯性が横溢する小品だ。やはりアントニオ・タブッキは最高である。
再読。というかもう何度読んだか分からない。タブッキは大好きな作家だが、その中でも特にお気に入りの一冊である。
タブッキには他にも『インド夜想曲』『供述によればペレイラは』など傑作があるが、この『島とクジラ』はそういう他の作品とは全然違う形式の小説になっている。まず、一貫したプロットと登場人物が存在しない。異なる断片的なテキストの寄せ集めになっている。短編集のようでもあるが、全体がクジラ、難破、アソーレス諸島というテーマで統一されていて、何より一冊の本としてバランスよく美しく構成されている。
具体的には次のような構成になっている。
『まえがき』
『ヘスペリデス。手紙の形式による夢』
『アソーレス諸島のあたりを徘徊する小さな青いクジラ――ある話の断片』
『その他の断片』
『アンテール・デ・ケンタル――ある生涯の物語』
『沖合(法規~捕鯨行)』
『ピム港の女――ある物語』
『あとがき――一頭のクジラが人間を眺めて』
異質なテキストというのは、例えば『ヘスペリデス』はボルヘス風の幻想的な散文(島の人々があがめる神々について)、『小さな青いクジラ』はヘミングウェイ風、『その他の断片』はクジラや難破に関するとりとめのないエッセー風、『沖合い』の後半『捕鯨行』はドキュメント風、という具合にそれぞれ違っている。違っているが、わざとスタイルを変えたという頭でっかちなところは微塵もなく、どれもタブッキ以外の何物でもない文章になっている。それがなんといっても素晴らしい。
こういう本であるため、具体的なストーリーに引き込まれる魅力には欠けるが、その代わりにどこまでも広がっていくような透明な幻想性と詩情をたたえている。アソーレス諸島、滅び行くものの隠喩としてのクジラ、遂行されなかった行為の隠喩としての難破、そして船乗りたち。これらのイメージが具体的にではなく抽象的なまま、リリシズムだけが抽出されてどんどん膨らんでいくような、不思議な読書体験ができる。訳者の須賀敦子が書いているように、タブッキの特徴である暗示性が極限に達したような作品である。
断片性、暗示性ということでいうと、例えば『アソーレス諸島のあたりを徘徊する小さな青いクジラ』は男女の会話を描いた一幕物的な短篇だが、この男女の会話の背景にあるものは読者には分からないようになっている。複雑な愛憎関係が存在することが暗示されるだけだ。しかしタブッキはその暗示、ほのめかしだけで小説を成立させてしまう。むしろ具体的なプロットを作りこまない方が、読者の想像力に訴える力が強くなることを知っているのである。この暗示、ほのめかしの技法はタブッキの他の作品でも非常に洗練された形で駆使されている。
それからタブッキの魅力といえばなんといっても独特の文体だが、冒頭の『まえがき』からその麻薬のようなタブッキ文体を堪能できる。たとえば、次のような一節。「この本の主題は、主としてクジラだが、生き物としてのクジラというよりは、むしろ隠喩としてのクジラだと言いたい。それから、難破についていうと、これも、遂行の域に達しなかった行為あるいは失敗という、この言葉の本来の意味において、クジラに劣らず隠喩的といえる」
魔術的なタブッキ文体は、『捕鯨行』のようなドキュメント・タッチの文章においても、終盤にちょっとした文章を付け足して、それまでのすべてを詩的に変容させてしまう離れ業を演じる。捕鯨に同行した「僕」が捕鯨手になぜ同行したのかときかれる。「こう、言ってみる。たぶん、あなたがたは、あなたもクジラも、まもなく消えてしまう種族だからじゃないでしょうか。たぶん、そのためです。だが、エウジェニオ氏はもう眠っているのだろう、応えはない」
タブッキの文体は誰の翻訳でも輝きを失わないが、個人的には須賀敦子氏の翻訳が一番魅力を引き出しているように感じる。
それから最後の『ピム港の女』。これはトリをつとめるにふさわしいきわめてタブッキ的な、とても美しい短篇小説だ。暗示性と象徴性と音楽性に満ちている。須賀敦子氏はあとがきでこの短篇に触れ、「(読んだあと)しばらく本を置くことができなかった」と書いている。ちなみにこの本のイタリア語の原題は『ピム港の女』である。須賀敦子氏は港と女という常套的な組み合わせから逃れたかったのと、クジラと島が抜けてしまうのが惜しいと思ったので邦題を『島とクジラと女をめぐる断片』にしたそうだが、私はやはり『ピム港の女』の方がいいと思う。
そして最後の『あとがき――一頭のクジラが人間を眺めて』だが、あとがきとはいえこれもちゃんと作品になっている。副題の通り、人間を見ているクジラの独白という、これまたタブッキ的遊戯性が横溢する小品だ。やはりアントニオ・タブッキは最高である。
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