アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

2011-01-17 23:15:28 | 
『樽』 F.W.クロフツ   ☆☆☆☆

 本格推理史上名高いクロフツの『樽』を読了。初読である。黄金期の名作と言われるものはわりと読んでいると思うが、これはまだだった。クイーンやクリスティーと違って地味な印象があるせいだ。

 『黒いトランク』と似ているというのは聞いていた。設定は確かに似ている。港に着いた樽から死体が出てくる。警察が捜査を開始し、ロンドンとパリを行き来しながら捜査が展開する(樽はパリからロンドンに送られた)。が、『黒いトランク』ではトランクの動きと、二つのトランクがどこですりかわったか、にはやばやと謎が集約するのに対し、『樽』ではいかにも犯人に見える容疑者が本当に犯人か、というところにフォーカスしていく。ただアリバイ崩しが重要になってくるのはどっちも同じだ。

 大きく二部に分かれている。前半は警察の捜査が描かれ、さまざまな証拠が発見され、当然のなりゆきとして容疑者の逮捕となる。後半は弁護士側の捜査で、絶望的な状況から突破口を見出すべく、さらに緻密な捜査が展開される。特徴としては、捜査が緻密で堅実だということ。もうこれに尽きる。それまでの本格ミステリみたいなトリッキーさ、飛躍、ハッタリはなく、神の如き名探偵もいない。捜査のやり方は非常に組織的かつ網羅的だ。捜査官はみな状況を整理し、確認すべきことを都度チェックし、何が確かめられ何が確かめられていないかを自問自答しながら仕事を進めて行く。警察側も弁護側も同じだ。警察側を横柄に描き、弁護士側を正義漢に描くなんてことはない。みんなプロフェッショナルで、誠実だ。

 その反面、強烈なキャラクターがいないためにハッタリには欠ける。地味といえば地味だ。

 それに捜査官の発見や推理はすべてその都度読者に提供される。最後まで隠しておいてあっと言わせるなんてことはない。確かにこれはそれまでの本格推理小説とは大きく違っていただろう。それまでのミステリにおいて、名探偵は自分の考えは隠しておく。隠しつつ、「口には出さないけどおれにはちゃんと分かっているんだよ」といわんばかりの意味ありげなほのめかしをしまくる。そうしないと名探偵ということをアピールできないからだ。このタイプの典型がファイロ・ヴァンスである。『ベンスン殺人事件』や『カナリア殺人事件』では、そのあまりのいやみったらしさにぶん殴りたくなる。とてもこんな奴と友だちにはなれない。よくマーカム検事はつきあっていられるなと感心する。初期のエラリイ・クイーンも思わせぶりな発言や、哲学書や文学書からの引用が多い。

 クロフツはそういう名探偵へのアンチ・テーゼとして凡人探偵フレンチ警部を創造した。本書は処女作ということでフレンチは登場しないが、ここに登場する刑事、弁護士、そして私立探偵はみなフレンチの分身である。あっと驚くトリックや意外な犯人などのけれん味には欠けるが、ロジックとプロフェッショナリズムを淡々と描いた、渋いミステリである。


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