アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

薔薇の名前(上・下)

2008-06-05 22:12:09 | 
『薔薇の名前』 ウンベルト・エーコ   ☆☆☆☆☆

 再読。もう何度読み返したか分からないが、周期的にこの雰囲気に浸りたくなっては読み返すということを繰り返している。色んな意味で、これほど読書の愉悦を感じさせてくれる書物も珍しいと思う。

 まず、これはミステリである。フランチェスコ会の修道士バスカヴィルのウィリアムと見習修道士のアドソ、この師弟二人があるイタリアの僧院を訪れ、そこで繰り広げられる連続殺人の謎に挑むという、どこからどう見ても堂々たる王道ミステリ文学だ。書物全体はアドソの手記という形だが、そもそもイギリス人であるウィリアムがシャーロック・ホームズであることは「バスカヴィル」の呼び名からも明らかで、アドソはもちろんワトソンのもじりだ。ウィリアムが登場早々、僧院から逃げ出した馬の行方を言い当ててみんなを驚かせる、なんて場面は、ホームズもの以来綿々と続く名探偵の定石ど真ん中を堂々と見せてくれる。

 次に、これは中世へのタイムスリップである。余談だが、澁澤龍彦はあるエッセーの中でSFについて、遠い未来では人々の価値観や世界観は現代とはまったく異なっているはずで、それこそが真に面白い文学的主題であるはずなのに、凡百のSFでは現代人と同じような感覚で権力争いや陰謀に明け暮れている、そこが甘っちょろく、物足りなく思えてしまう、みたいなことを書いていたが、これはSFに限らず時代ものでもそうだと思う。時代劇にしろ古代劇にしろ、コスチュームを変えただけで現代人とちっとも変わらない言動を登場人物が繰り広げる場合があり、なんだかなあと思ってしまうわけだが、この『薔薇の名前』は違う。キリスト教会がすべての上に君臨し、異端と名指されることが死と破滅を意味し、聖書の一字一句の解釈の相違が政治上の大問題となる中世の世界が、リアルに、圧倒的なディテールをもって描き出されている。人間の行動も悪魔の唆しや天使の介入によって左右され、女は本質的に邪悪なもの、肉体の愛は罪、複雑怪奇な神学がすべての学問の基礎となる。この世界では論理的、合理的に推理するウィリアムですら異端的なのである。さらに異端の系譜やそれぞれの教義の違いがウィリアムとアドソの会話の形で折りにふれ詳述され、当時の価値観、世界観をありありと伝えてくれる。中世の人々の「悪魔の仕業だ」「魔女だ」みたいな言動なんて私たちにとってはたわごととしか思えないが、その時代にあっては複雑な背景に裏打ちされた現実そのものであったことが分かる。たとえば、本書の中で皇帝派と教皇派が論争する「イエスが身につけていた衣服は果たしてイエスの所有物であったか否か」というテーマ。そんなんどうだっていいじゃんと呆れそうになるが、当時これは教会の権威を揺るがす重大問題であったことが、本書を読めば分かる。

 というようなことに加え、もちろん僧院の中、修道僧たちの生活、写字室での仕事、そして何より印刷機がない時代の書物、といったものが目に見えるようにありありと描写され、読者はたっぷりと中世へのトリップを堪能できる。中世の雰囲気に惹かれる私のような読者にとってはたまりません。

 そして、これはまた迷宮でもある。序文からいきなりアドソの手記が見つかった経緯とともに、ラテン語版やフランス語訳やら錯綜する文献の異同が詳述され、読者を「書物」というものの迷宮に誘い込む。手記が始まると修道院の五角形、六角形、八角形が組み合わさった外観とその象徴についての記述で建築物意匠の迷宮が現れ、ウィリアムとアドソの会話でわけのわからない迷宮的な異端の系譜についてこれでもかと薀蓄が傾けられ、とどめに世界そのものを迷宮化したようなあの異様な建築物、文書館が登場する。このように本書は多重構造の迷宮そのものである。

 さらに、これは書物の書物である。事件の核心には一冊の書物がある。ウィリアムとアドソは書物について会話を交わし、人々は議論する時常に書物から引用する。この物語世界の中心に位置する文書館があれほど特別なのは、それが書物を保存する場所だからだ。アドソはウィリアムとの会話から、書物は現実だけでなく他の書物にも言及するものであることを悟り、文書館の書物がお互いに会話しているような気がして戦慄する。また印刷機がない中世では、書物の貴重さは現代とは比べ物にならない。僧たちは一冊の書物のためにはるばる異国からやってきて、長い歳月を写本に捧げる。そしてもちろん、写本の対価として別の書物を文書館に提供しなければならない。この世界では文字通り人々は書物によって生き、争い、そして死ぬのである。

 最初にこれはミステリだと書いたが、最後まで読むと同時にアンチ・ミステリでもあることが分かる。連続殺人はヨハネの黙示録に従って起きるが、その真相はルール違反、つまり本格ミステリ的にはアンフェアと言われる類のものだ。しかしそれによってこの小説はミステリを越える。ウィリアムはその真相に至った時、論理と理性で世界に立ち向かう自分の無力を知り、この世界が不可知の迷宮であることを知るのである。

 ところでこの小説はショーン・コネリー主演で映画化されているが、中世の暗い雰囲気、そして何といっても神秘の文書館が雰囲気たっぷりに視覚化されていてかなり良い出来だ。もちろんこれだけの大長編なので細かい部分ははしょられているが、特に大きな変更点はアドソが恋する村娘の扱いである。本書では重要ではあるものの一エピソードに過ぎず、結局娘は異端審問官に連れていかれる(そして火あぶりになることが暗示される)が、映画ではこの娘とアドソの恋物語がほぼメインプロットに昇格し、娘は結局助かる。必然的に異端審問官ベルナール・ギーは全篇の悪役ということになり、最後には悲惨な死を遂げる。ということで全体的に勧善懲悪色が強まり、エンディングがロマンティックになっている。おそらく娯楽作品としてはこれで正解だろうが、実際はそんなに甘いもんじゃなく、異端審問官の権威は絶対であり、一度魔女と断定されたらもうその身は焼かれたも同然、という中世の現実は、この原作の中でこそ容赦なく描かれつくしている。


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