アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

海に投げこまれた瓶

2017-02-13 23:26:16 | 
『海に投げこまれた瓶』 コルタサル   ☆☆☆☆☆

 コルタサル最後の短篇集。なぜか絶版になっているので古本で入手した。晩年の短篇集らしく、コルタサルの超絶技巧をたっぷり堪能できる素晴らしい作品集だ。何が超絶技巧かというと、何はともあれこの文体。アイデアももちろん相変わらず冴えているのだが、もはや融通無碍となったこの文体をもってすればこの世に可ならざるものはなし、ということを思い知らされる。村上春樹がフィッツジェラルドを評して「すぐれた文章家に不可能はないのだ」と書いていたが、本書のコルタサルにも同じことが言えると思う。

 もちろん、フィッツジェラルドとコルタサルはまったく異なるタイプの文章家だ。フィッツジェラルドが五感に訴えるみずみずしいイメージを泉のように迸らせる書き手だとしたら、コルタサルは透明なガラス細工のような硬質で抽象的な文章を紡ぐ。本書におけるコルタサルの文章は、何かを目に見えるようにいきいきと描き出すものではなく、むしろつかみどころがない、目に見えないミステリアスな情緒を精緻に醸成していく。描こうとしているものをはっきりとさらけ出さず、むしろ蜘蛛の糸のような多義性の靄で包み込み、ぼやかし、逆説的にその対象の神秘的な本質に迫っていく。そんな文章だ。秘すれば花。あるいは不在による顕現。言葉を尽くしても表現しきれないものを、むしろ隠すことで逆説的に表現してしまう。

 たとえば表題作「海に投げこまれた瓶」の冒頭のパラグラフを読んでみればいい。美しく曲がりくねったアラベスク模様の如き見事な文章が続くが、何が書いてあるのかあなたはっきり分かりますか。文章は仄めかしと暗示に満ち満ちていて、それ自体が魅惑的なミステリーのようだ。コルタサルの文章は何も説明せず、一方で精緻な蜘蛛の糸で編まれた情緒を絶え間なく作り出していく。形のないもの、もしくは何ものかの不在、を自在に文章で作り出す。これが名人芸でなくて何だろうか。

 収録作を順に見てみると、まず「海に投げこまれた瓶」は、先の短篇集の表題作「愛しのグレンダ」のエピローグとして書かれた短篇である。女優に宛てて書かれた手紙の体裁になっている。最初、この女優は「グレンダ」その人かと思わせるが、やがて、どうやら「グレンダ」のモデルになった女優らしいと分かってくる。「愛しのグレンダ」というフィクションのレベルと、その外側のコルタサルとモデルの女優がいる「現実」のレベルが交錯し、きわめてメタフィクショナルな構造が立ち上がってくる。まるで騙し絵だ。先に書いたようにコルタサルの文章はまがりくねったレトリックとメタファーで読者を霧の中に引きずり込む。一体何が起こっているのか見定めがたい不安の中で、読者をあちらこちらと引きずり回した挙句に、コルタサルの小説世界と女優の映画の世界がシンメトリーを描いてこの短篇は終わる。核となっているアイデアはごくシンプルなものだが、それを膨らませてひとつの作品に仕上げてしまうこの文体の離れ業に唸らされる。

 「局面の終わり」もまた、コルタサルが到達した至高の境地を示す見事な短篇である。語り手の女性が絵の展示会に行き、やがて絵画の世界と現実の境界が揺らぎ出す。お得意の題材だが、ここでもコルタサルの文章が魔法の如くに読者に働きかけ、自在に世界をたわめていく。このデリケートな情緒のコントロールとヴィジョンを作り出す確かなテクニックは、神技の域と言ってもいいのではなかろうか。「二度目の遠征」はボクサーの話で、語り手の友人であるこのボクサーは何かにとりつかれたように強くなり、試合を勝ち進んでいく。これもアイデアはむしろ他愛のないものだが、それをはっきり書かず、極力ぼかし、仄めかす書き方がされているせいで神話性を帯びた短篇となっている。

 「サタルサ」はネズミ狩りをしている人々の物語で、私はあまりピンと来なかった。一昔前のディストピアSFみたいな雰囲気で、そこに回文(上から読んでも下から読んでも同じになるフレーズ)のアイデアを絡めてあるが、翻訳されているせいか全然面白さが分からない。「夜の学校」もちょっとシュールな怪談、もしくはスリラーみたいな話である。雰囲気は悪くないがエンタメ風の結末で、コルタサル作品としては物足りない。「すれた時間」は、タイトルに似合わずロマンティックかつノスタルジックな短篇で、とても気に入った。『ラテンアメリカ五人集』に収録されているパチェーコの「砂漠の戦い」にちょっと似た感じだ。語り手の男性の子供時代の回想譚で、彼は自分よりずっと年長の、友だちの姉に恋をする。しかしコルタサルが単にロマンティックな回想譚を書くわけもなく、後に二人が再会するエピローグが付け加えられている。コルタサルの超絶技巧文体が再び発動し、何が起きたかをぼかしつつ微妙な終わり方をする。

 「夢魔」は不安と恐怖の書き手たるコルタサルの面目躍如の、ミステリアスかつシュールレアリスティックなスリラーともいうべき見事な一篇。ある家族に病気で眠り続けている娘がいて、彼女が目覚める時に何かが起きる。はっきり何と名指すことのできない、得体の知れない不安と緊張がだんだん高まっていく。これもまた名人芸だ。そして最後の「ある短篇のための日記」は比較的長い作品で、複雑なプロットと複雑な情緒で読者を酔わせる物語的な一篇である。娼婦たちのため、その恋人である船乗り相手に手紙を書いてやっている翻訳業の男が主人公で、彼は否応なくアナベルという娼婦と若い船乗りの関係に巻き込まれていく。毒薬による殺人も起きる、ミステリ色の濃い物語だ。

 コルタサル最後の短篇集の名に恥じない、濃密な作品集である。



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2 コメント

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Unknown (サム)
2017-02-16 00:22:37
おっしゃるようにコルタサルの文体は非常に魅力的ですね。硬質でありながら随所に企みが潜んでいるとでもいった感じで。ちょっと前に岩波文庫の三冊の短編集を読んだんですが、異物侵入パターンとか表と裏がひっくり返るパターンとか筋書き自体のバリエーションは少なくても文体の魅力で五割増し以上になるような気がします。
コルタサルの短編集はいずれ全部読みたいと思っています。
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コルタサル (ego_dance)
2017-02-21 10:26:45
コルタサルの短篇はアイデア三割文体七割ぐらいじゃないでしょうか。特に後期作品の文体の精度はただ事ではありません。私もコルタサルの短篇は全部読もうと思っています。
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