アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

冬の夢

2011-10-27 21:42:24 | 
『冬の夢』 スコット・フィッツジェラルド   ☆☆☆★

 村上春樹訳のフィッツジェラルド短編集を再読。函入りである。和田誠のイラストをあしらった装丁が大層チャーミングだ。収録作品は以下の通り。

「冬の夢」
「メイデー」
「罪の赦し」
「リッツくらい大きなダイアモンド」
「ベイビー・パーティー」

 村上春樹はこれを「若き日の名作集」として編んだとあとがきに書いている(そのうち「晩年の名作集」も出すそうだ)が、「名作集」というには物足りないラインナップだ。『若者はみな悲しい』と重複し過ぎているし、名作「リッチ・ボーイ」が落ちている。おそらくこれまで村上春樹訳で出ているフィッツジェラルド本と重複しないようにしてあるのだろうが、だったら「若き日の名作集」とは言えないはずだ。

 まあそれはいいとして、本書の目玉はもちろん「冬の夢」である。光文社の文庫にも収録されているが、村上春樹が一番好きだというこの作品を村上春樹の訳で読めるのはやっぱり嬉しい。確かにこれはA+級の名作である。他は、個人的にはまあまあレベル。村上春樹は他の場所で「メイデー」もA+クラスと書いていたが、私はそれほどとは思わない。フィッツジェラルドにしては珍しく群像形式になっていて、複数の登場人物の運命が交錯する一夜を描いている。パーティーの喧騒がみっちり描かれているのは例によって例の如し。「リッツくらい大きなダイアモンド」はファンタジーである。若き日の作品集だけあって(「名作集」かどうかはおいておくとして)、全体に軽やかで、浮かれた雰囲気が漂っている。ただし、その中にもフィッツジェラルドらしい苦さや、不吉な崩壊感はやはり漂っている。

 「冬の夢」はデクスターという青年が奔放な美女に振り回される話である。この美女、ジュディー・ジョーンズはまさにフィッツジェラルド特有のヒロインで、人の気持ちなどこれっぽっちも考えない、きわめてエゴイスティックな女である。大輪のバラのように美しく、そして自分の美しさを熟知している。回りの人間を傷つけることを何とも思わない。デクスターはジュディーに振り回され、苦しめられる。『グレート・ギャツビー』のギャツビーのように、『ジェリービーン』のジムのように。フィッツジェラルドの小説ではおなじみの光景だ。しかしこの小説ではデクスターは破滅せず、ジュディーから離れていき、結果的に自分なりの幸福をつかむ。歳月が過ぎ、彼はジュディーの噂を聞く。彼女は結婚していて、不実な夫に耐え、幸福ではないようだ。彼女は「気立てのいい女性」だと言われ、かつての色香はもはやない。デクスターはかつての彼女と、彼女とともに過ごした夢の時間を思い浮かべ、失われたもののために涙を流す。

 フィッツジェラルドはここで、残酷な女に振り回される男を憐れんでいない。彼の哀しみの視線は今回男の方ではなく、残酷でエゴイスティックに男を振り回す女の方に向けられている。たとえ美しさを誇り、この世の春を謳歌したとしても、それはただ一時のこと、ほんのつかの間のことなのだ。美しさはたちまち消えていく。同時に、青春の痛みも、盲目的な恋も、若さの歓びそのものもやがては消えていく。その儚さと哀しみをこの短編は見事に捉えている。
 
 そしてまた、これは他のフィッツジェラルドの小説と同じように誤解されやすい短編でもある。フィッツジェラルドの世界にはきれいで残酷な女に騙される男、アル中になって身を滅ぼす男、金持ちに憧れる若者、パーティーからパーティーを渡り歩く男、などがたくさん出て来て、軽佻浮薄であるという非難がつきまとう。この短編も読む人によっては、きれいじゃなくなった女は憐れむべき存在だというのか、けしからん、と批判したくなるかもかも知れない。しかし、それは誤解だと言っておきたい。

 デクスターは色香を失ったジュディーを、かわいそうな女になってしまったんだなと憐れんで涙を流したのではない。彼は失われた色香そのもの、そしてそれとともにあった自分の青春を悼んで涙を流したのである。現在のジュディーは「気立てのいい女性」であり、女たちから好かれているという。彼女は昔より良い人間になり、幸せですらあるかも知れない(まあ、それは疑わしいけれど)。だとしても、デクスターはやはり、あの残酷で美しかったジュディーがもう存在しないことに涙を流しただろう。その涙はジュディーという女性の人間性や、その価値を云々するものではない。それが若さというものの残酷であり、美しさであり、哀しみだからだ。

 フィッツジェラルドの描く世界は軽佻浮薄かも知れないが、そこにある哀しみと痛み、そして崩壊の感覚は本物だと思う。彼は「きれいな女の子との恋愛、それとニューオーリンズかデューク・エリントンの音楽、それ以外のものは醜いから消えてしまえばいい」と言ったボリス・ヴィアンにどこか似ている。その小説の中で人々は、子供たちと同じく永遠の快感原則の中に生きている。しかし世界はそれを許さない。いつか子供たちは目覚めて、苦い現実原則に対峙しなければならない。これを当たり前といってはいけない、なぜなら楽園喪失の痛みは、アダムとイブの昔から人類の変わらないトラウマなのですから。



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
というわけで・・・ (青達)
2012-12-02 15:10:09
「グレート・ギャツビー」再読のきっかけになった「冬の夢」の方にもちょいとコメントさせて頂きます。

大学時代に買わされた英語のテキストの中にフィッツジェラルドの短編数編が納められた小冊がありまして。大学を中途で辞めた為に一切そのテキストに手を触れないまま、後は長らく放っておいたわけですが、先日野崎訳で読んでいたく気に入ったというタイミングで押入れから引っ張り出し、現在英和辞書を片手にちょびちょびと自分で翻訳しております。

多分(いや、確実に)村上訳はちゃんとしてるだろうと思いますが、原文を読みつつ野崎訳を再確認してみると「ん?」という部分がありまして。

例えば原文に「fancy diving」とあるのをそのままカタカナで「ファンシーダイヴィング」とあってそのままでは何のことやらさっぱりなんですが、当然ego_danceさんならお分かりのようにこれは「高飛び込み(空中で体を回転させたりする曲飛び込み)」のことなんですよね。分かってみれば何のことはないのですが。

あと、原文にある「raft」というのが英和辞書を引いただけでは一切分からない。「ボート」みたいな訳しか載ってなくてイメージが一切湧かないのです。ネットで調べてみるとスティーブン・キングによるショートテレビドラマがそのものズバリの題名。どれどれ・・・

映像で見ると「はいはい、アメリカのドラマとか映画で見るアレね!」ってなるけど日本人のカルチャーにはほとんど見られませんよね?raft。少なくとも僕はこれを日本で見たことが無い。

翻訳そのものが問題ってこともあるけど、外国文学を翻訳で理解した気になるのはかなり危険だな、と思い知らされました。
返信する
Unknown (ego_dance)
2012-12-04 12:32:50
よく覚えていませんが、Raftという言葉がありましたっけ?確かに日本ではなじみがないかも知れません。アメリカではラフティングのツアーというのがあって、わりと人気があるようです。翻訳は確かに曲者で、特に古い訳にはびっくりすることがありますね。 
返信する

コメントを投稿