アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

ホロー荘の殺人

2010-12-23 19:56:49 | 
『ホロー荘の殺人』 アガサ・クリスティー   ☆☆☆☆

 何度目かの再読。ポアロもの。これはクリスティーがトリックより心理描写に重きを置くようになった頃の作品で、派手なトリックこそないものの、登場人物たちの心の襞を丁寧に描いて文学的な香りを漂わせる、読み応えのある一篇である。かなり普通小説寄りのミステリになっている。クリスティーの中でも好きな作品だ。

 メインとなるのは登場人物たちの恋愛感情で、全篇にロマンティックなムードが漂う。そういう意味では『杉の柩』に似ているが、『杉の柩』よりもうちょっと陰りのある、メランコリーを含んだ大人のロマンティシズムだ。ホロー荘に集まる人々はみんなそれぞれに屈託した思いを抱えている。クリスティーの淡々とした筆は各人のやるせない胸のうちを少しずつ明しながら、読者を物語へと引き込んでいく。このあたりはやっぱりうまい。他のミステリ作家にこの味は出せないだろう。

 こういう小説なので、殺人が起きるまでがかなり長い。やがて人々が集まった週末のホロー荘で、男性的で生命力に溢れ、常にまわりの女性を惹きつけるモテ男のジョン・クリストウ医師が殺される。息を引き取るジョンの目の前に、おとなしく従順、ちょっと愚かしい妻ガーダが銃を持って立っている。ポアロを含め数名がそれを目撃する。状況は明白に思えるが、果たして本当にガーダが犯人なのか? ガーダは自分が来た時はもうジョンが倒れていたと供述する…。

 とにかくキャラクターの描き分けがうまい。妖精のようなつかみどころのないホロー荘の女主人ルーシー・アンカテル、強烈な個性のジョン・クリストウ、彫刻家のヘンリエッタ、実際的なミッジ、そして優しい青年エドワード。ヘンリエッタとジョンは不倫の関係にあり、エドワードはヘンリエッタに求婚を繰り返し、ミッジは密かにエドワードを愛している。こう書くとなんだかハーレクイン・ロマンスみたいだが、たとえばジョンの強い個性の前では優しいエドワードは生彩を欠いて見えるとか、そういう人間関係のケミストリーがきちんと書かれているので、読者はこの人々の葛藤に思わず知らずのめりこんでいくことになる。

 特に複雑で魅力的なキャラクターは彫刻家のヘンリエッタで、芸術家的な神秘性を持つ女性だ。彼女とクリストウの関係はなかなか微妙である。また、ロマンティックで忘れがたいのはミッジとエドワードのエピソードだろう。エドワードは相続した田舎の家に住み、働かずに生活していける身分だが、ミッジはブティックの嫌味な女店長のもとでこき使われながら生計を立てている。ミッジはエドワードが好きなのだが、彼が自分を女として見てくれるはずがないと諦めている。エドワードが彼女に「あんな仕事を続けちゃいけない。このまま連れていきたい」と慰めの言葉をかけ、それにミッジが腹を立てて食ってかかる場面からの意外な展開は、なんともいえない真情に溢れていて胸に迫る。また、本書においてはクリスティーの巧みなミスディレクション能力が殺人事件のみならず恋愛関係にも適用されていて、人間心理というミステリーが本書を魅力的にしていることがよく分かる。

 殺人事件の謎は実にシンプルで、取り立てて大きな驚きもなく結末を迎える。むしろ意図的に淡々と書かれているようだが、単純な謎でもちゃんと読者を惑わせてくれ、そのあたりも手堅い。が、なんといっても登場人物たちの感情のせめぎあいに魅了される。トリックや奇想をもはや必要としなくなったクリスティーの渋い佳作だ。


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