アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

杉の柩

2007-10-11 17:46:13 | 
『杉の柩』 アガサ・クリスティー   ☆☆☆☆★

 再読。最近クリスティーは新装本で出ているが私が持っているのは古いやつ。表紙に赤と白のバラがあしらってあってロマンティック。この赤白バラは内容にも関係している。

 ポアロものの一つ。『オリエント急行』『アクロイド事件』『ABC殺人事件』などの有名作と違って大掛かりなトリックは特にない、ストーリーもとてもシンプルな小品といっていい作品だが、私はなぜかこれが昔から大好きなのである。クリスティーのミステリの中で特に愛着がある作品といっていい。どうやらこの作品に格別な愛情を抱いているのは私だけではないようで、読者をそういう気分にさせる何かがこの小品にはあるようだ。

 舞台はある村。ロデリックとエリノアは子供の頃からのいいなずけ同士。美人でクールに見えるエリノアは、実は深くロデリックを愛している。二人の結婚はもうすぐ。ところがそこへバラのように美しい娘、メアリイが現れる。ロデリックはたちまちメアリイに恋してしまい、エリノアとの婚約は破棄される。同時にエリノアの叔母が死に、莫大な遺産をエリノアに残す。そして叔母の家の片付けの日、メアリイが毒殺される。メアリイが食べたサンドイッチを作ったのはエリノア、動機を持っていたのもエリノア。誰が考えても犯人はエリノアしかいない。エリノアは逮捕され、まるで彼女自身も自分の罪を認めるかのような言動をする。エリノアを救いたい一心で、村のロード医師はエルキュール・ポアロを呼ぶ。彼女を救えるのはあなたしかいない。ロード医師はエリノアをひそかに愛しているのだった……。

 あらすじから分かるように、これはミステリと同じかそれ以上の比重でラブ・ストーリーである。エリノアとロデリックのラブ・ストーリーであり、ロード医師のラブ・ストーリーでもある。舞台となるのはイギリスの風光明媚な村、エリノアとロデリックは子供の頃から一緒に育ち、いいなずけで、叔母は大金持ち、遺産相続にまつわる醜聞、そして突然現れて悲劇を招くバラのように美しい娘。古典的にロマンティックな筋立て、道具立てだ。デュ・モーリアの『レベッカ』とかああいう古き良きロマンスものに共通する香りがある。クリスティーのミステリはこういう雰囲気を持ったものが多いが、本書ではそういうムードが特に高い純度で抽出されている感じがする。たとえばロデリックが初めてメアリイを見て、「なんて美しいんだ……」と呟いて恋に落ちる場面など、ほとんど幻想的といってもいい。マンガ化するなら萩尾望都の絵が似合いそう。

 それから、殺人の経緯がとてもシンプル。メアリイと看護婦が片付けを手伝いにきて、エリノアがサンドイッチを作る。サンドイッチはエリノアがメアリイに手渡し、そしてメアリイは毒で死ぬ。すべてを看護婦が見ている。どう考えてもエリノアが犯人だ。シンプルなだけにトリックを弄する余地などないように見える。
 もちろん事件を解決するのはポアロだが、いつもと違ってポアロが犯人を指摘するのではなく、クライマックスは法廷シーンになっている。この法廷シーンが実に見事。さすが『検察側の証人』のような法廷物の名作を書いたクリスティーだけのことはある。まずは検察側が分かりきった事実を述べていく。どうみても状況はエリノア不利。ところが、いくつかの一見些細な、思いがけない事実が弁護側によってそれに付け加えられることで、状況は魔法のように一変する。あんなに決定的だった「エリノアしか犯人はありえない」状況が完全にひっくり返ってしまうのである。この展開はあまりにも鮮やかで、まさにクリスティーの独壇場。状況がシンプルなだけに見事さが引き立っている。妙に不自然で無理矢理なトリックなどないからかえっていいのだ。その代わりに誰もがこうだと思い込んでいた全体像がガラリと変わってしまうという、上質なミステリの快感に満ちている。
 
 そしてエリノアは救われる。エリノアとロデリックはどうなるのか、そしてロード医師は? 最終章でロード医師は言う、「きっとあの人とロデリックはこれから幸福に暮らすでしょう」それに対してポアロが言うセリフ、これがなんとも泣かせる。このロマンティックな物語にふさわしい、美しいエンディングだ。

 というわけで、本書はクリスティーの上品なロマンティシズムと、シンプルながら鮮やかなミステリの快感が結びついた佳作である。どういうわけか「クリスティーの代表作は多分これじゃないけれども、個人的にはこれが一番好きかも」という気分にさせられる、不思議なマジックがある作品だ。


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