アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

シュルツ全小説

2006-09-27 19:22:20 | 
『シュルツ全小説』 ブルーノ・シュルツ   ☆☆☆☆☆

 前に『コスモス 他』で読んで驚嘆したブルーノ・シュルツ、単独名義の、しかも「全小説」とあれば買わないわけにはいかない。こういうものはすぐに絶版になるものと相場は決まっている。『コスモス 他』に収録されていた『クレプシドラ・サナトリウム』は13編のうち6編が欠けていたので、これでようやく全部読むことができる。

 上下ニ段組だった『コスモス 他』に比べてこちらの方が字が大きく、読みやすい。訳者は同じ工藤幸雄氏なので翻訳文はほとんど同じだが、微妙に変えてある。しかし饒舌で華麗なレトリックがうねうね続く文体はあいかわらず独特だ。

 『肉桂色の店』は全部既読だし、『砂時計サナトリウム』も半分は読んでいるが、こうして再読すると読み落とした部分とか新たな発見とかあって面白かった。しかしこの人の壮絶な超現実的小説世界の面白さはもう読んでもらう以外に説明のしようがない。カフカに似ているが、カフカより耽美的なところもある。カフカとポーを足して二で割った感じだろうか。

 『肉桂色の店』でゴキブリを恐れるあまり自分がゴキブリになったり、怒りのあまりぶんぶん唸る蝿になったりした「父」は、『砂時計サナトリウム』の最後の一篇『父の最後の逃亡』の中で今度はざりがにになり、しかも母によって料理されてしまう。死んだと思ってたらやがて回復し、脚を一本だけ残して放浪の旅に出る。それ以来「私たち」は「父」を二度と見ていない。ふざけてんのか、といいたくなる話だが、これをポーばりの華麗かつ重厚なレトリックでやるのである。すご過ぎる。

 第二短篇集の表題作『砂時計サナトリウム』は大傑作である。これは「父」が入っているサナトリウムにやってきた私が経験する不条理と幻想の物語だが、このサナトリウムは時間を操作することによって、死人を生かしておくことができる。つまり「父」は実際は死んでいるのだが、ここでは生きている。父はサナトリウムに入っていながら、町で店を構えて商売をしている。父がレストランで馬のように大食いしているのを見て帰ると、病室のベッドで父が死にそうになっていたりする。これはどうもサナトリウムの時間操作と関係あるらしい。サナトリウムは罠めいている。病室のベルはドアのところで線が切れているし、ドクターに会おうとしてもなかなか会えない。廊下でここにいないはずの母を見かける。やがて町に軍隊が攻め込んでくる。獰猛な犬に吠えかかられるが良く見るとそれは人間で、一緒に部屋に戻り「ここで待っててください」と言い残して私はサナトリウムを逃げ出す。それ以来、私は汽車に乗り続けて乞食のような生活をしている。

 とあらすじだけ読んでも、何も分からないだろう。ストーリーにはあまり意味がない。このサナトリウムを舞台に繰り広げられる悪夢的、白昼夢的、ほら話的、幻覚的エピソードの非連続的つるべ打ち、これがシュルツの世界である。シュルツの幻想は濃厚に夢の雰囲気をたたえていて、カフカ的で、グロテスクなところもあるが叙情的なところもある。稲垣足穂のような奇怪なオブジェ嗜好もある。

 例えば「私」が父の店で小包を受け取るシーン。小包を開くと<組立て式天体用屈折望遠鏡>が入っている。それは布製で、アコーディオンのような形をしている。やがて蛇腹状の望遠鏡が出来上がるが、すごく大きくて部屋いっぱいになる。私は望遠鏡の筒の上に腰を下ろしてレンズを覗いているが、軽くハンドルを動かした拍子に、望遠鏡は紙で作った蛾のようにパタパタと音を立てて進み出し、のたくるように出口に向う。客や店員達が道をあけて見送る中、私は巨大な虫のような望遠鏡にまたがって通りへ出て行く。

 完全に夢の世界である。この異様な望遠鏡はここしか出てこない。こういう夢のようなシュールな世界はへたすると安易な「なんでもあり」になりがちであり、そうなると退屈なのだが、シュルツはそうならない。そこではどんな異様なことでも起きるが、息をのむような切実さが失われないのである。これはどういうことだろう。この文体のマジックなのだろうか、それとも想像力の質の問題か。強烈な磁場が読者を捕らえて離さない。だから私達は「父」があぶら虫になったり蝿になったりするたびに唖然とするのである。

 『ドド』や『エヂオ』を読むと、シュルツが不具者や畸形に惹かれていることが分かる。シュルツの絵でも男性は畸形的に描かれることが多いそうだ(この人は画家でもあり、本書の表紙はシュルツ本人の絵)。彼の小説の中に頻出するメタモルフォセスと畸形は、彼の中では同じものなのかも知れない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿