『バーデン・バーデンの夏』 レオニード・ツィプキン ☆☆☆☆☆
うーむ、これは相当に独創的な小説である、内容的にも手法的にも。読み始めてから「なんじゃこりゃ」と思い、読み終えてから「へえー」と唸る。このツィプキンという人は医者で、職業作家ではなかったらしい。この小説を発掘したスーザン・ソンタグによれば、「自分の文学作品が活字になったところは一度も目にしたことがない」のである。彼はまったく発表するあてもなく、ただ原稿を書いては机の中にしまっていた。それで出来上がったのが箸にも棒にもかからないシロモノだったらただの変な人だが、こんな小説ができてしまうのだから凄い。これを発掘したスーザン・ソンタグのエッセーも巻末に収録されているが、彼女はこの作品を激賞している。
ドストエフスキー夫妻の旅と人生がテーマだが、ユニークなのはまず小説の構造である。語り手の「私」は汽車で旅をしており、そのつれづれにドストエフスキーの妻アンナの日記を読んでいる。私の旅とドストエフスキー夫妻の旅が二重構造になり、それぞれのレベルで話が進行するが、驚くのはこの二つが章を分けて交互にではなく、テキストの中に溶け合って語られるのである。
改行で時空を飛ばすのは筒井康隆やコルタサルもよくやるし、マルケスは改行もしないで話をどんどん脱線させていくが、このツィプキンはなんと無関係なエピソードを句読点もなしに、ダッシュ(―)でつないでいくのである。連想が連想を生んだ、というのでもなくまったく唐突にダッシュで場面が変わってしまう。しかも延々とダッシュでつながっていくので句点がなかなか出てこない。こんな書き方は他で見たことがない。創作教室でこんな書き方をしたらバッテンをくらうに違いない。しかしこの手法のせいで、すべてが渾然一体となったユニークな言語空間が出来上がっている。
さらに「私」の旅とアンナの日記(ただし日記に忠実ではなく虚実入り乱れているらしい)以外にも、ドストエフスキー作品についての考察や「私」の過去の回想なども盛り込まれ、二重どころか三重、四重の次元で物語が進んでいく。この時空を越えた多層構造がもたらす独特の浮遊感が、まずはこの小説の読みどころだ。
それぞれのプロットラインで語られる物語は、緊密な筋をもった劇的な話というより他愛もないエピソードや日常描写が多い。けれどもドストエフスキーが賭博に溺れて夫妻の金をあとさき考えずにつぎ込んでしまうところや、ツルゲーネフとの確執の話など(ツルゲーネフはドストエフスキーを馬鹿にしている)はスリリングで面白い。この小説の中でドストエフスキーは怒りっぽく神経質で、気まぐれで、奇行の持ち主として描かれている。『罪と罰』や『悪霊』などドストエフスキーの作品や、この文豪の不可解なユダヤ民族嫌悪に関する「私」の考察なども含まれている。
こんな掴みどころのない小説にどういう結末がつくのかと思っていると、ドストエフスキーの死の場面がクライマックスとなる。しかも「私」自身もドストエフスキーの死の現場を訪れるので、現在と過去の二つのプロットラインが合体してクライマックスに至る美しい構成になっている。
手法がユニークなのでそっちにばかり目が行ってしまうが、ツィプキンの文体も的確かつ詩的で、大変魅力的だった。スーザン・ソンタグが書いているように、愛する行為が泳ぐことにたとえられて繰り返し出てくるのがとても印象的だ。これも、突然「二人は水平線めざして泳ぎ出した」みたいになるので、おやまた場面が変わったかと思うのだが、読んでいると愛の行為のメタファーであることが分かる。そんなこんなでますますテキストは曖昧性を増し、夢幻性を深めていくのである。変幻自在の小説だ。
うーむ、これは相当に独創的な小説である、内容的にも手法的にも。読み始めてから「なんじゃこりゃ」と思い、読み終えてから「へえー」と唸る。このツィプキンという人は医者で、職業作家ではなかったらしい。この小説を発掘したスーザン・ソンタグによれば、「自分の文学作品が活字になったところは一度も目にしたことがない」のである。彼はまったく発表するあてもなく、ただ原稿を書いては机の中にしまっていた。それで出来上がったのが箸にも棒にもかからないシロモノだったらただの変な人だが、こんな小説ができてしまうのだから凄い。これを発掘したスーザン・ソンタグのエッセーも巻末に収録されているが、彼女はこの作品を激賞している。
ドストエフスキー夫妻の旅と人生がテーマだが、ユニークなのはまず小説の構造である。語り手の「私」は汽車で旅をしており、そのつれづれにドストエフスキーの妻アンナの日記を読んでいる。私の旅とドストエフスキー夫妻の旅が二重構造になり、それぞれのレベルで話が進行するが、驚くのはこの二つが章を分けて交互にではなく、テキストの中に溶け合って語られるのである。
改行で時空を飛ばすのは筒井康隆やコルタサルもよくやるし、マルケスは改行もしないで話をどんどん脱線させていくが、このツィプキンはなんと無関係なエピソードを句読点もなしに、ダッシュ(―)でつないでいくのである。連想が連想を生んだ、というのでもなくまったく唐突にダッシュで場面が変わってしまう。しかも延々とダッシュでつながっていくので句点がなかなか出てこない。こんな書き方は他で見たことがない。創作教室でこんな書き方をしたらバッテンをくらうに違いない。しかしこの手法のせいで、すべてが渾然一体となったユニークな言語空間が出来上がっている。
さらに「私」の旅とアンナの日記(ただし日記に忠実ではなく虚実入り乱れているらしい)以外にも、ドストエフスキー作品についての考察や「私」の過去の回想なども盛り込まれ、二重どころか三重、四重の次元で物語が進んでいく。この時空を越えた多層構造がもたらす独特の浮遊感が、まずはこの小説の読みどころだ。
それぞれのプロットラインで語られる物語は、緊密な筋をもった劇的な話というより他愛もないエピソードや日常描写が多い。けれどもドストエフスキーが賭博に溺れて夫妻の金をあとさき考えずにつぎ込んでしまうところや、ツルゲーネフとの確執の話など(ツルゲーネフはドストエフスキーを馬鹿にしている)はスリリングで面白い。この小説の中でドストエフスキーは怒りっぽく神経質で、気まぐれで、奇行の持ち主として描かれている。『罪と罰』や『悪霊』などドストエフスキーの作品や、この文豪の不可解なユダヤ民族嫌悪に関する「私」の考察なども含まれている。
こんな掴みどころのない小説にどういう結末がつくのかと思っていると、ドストエフスキーの死の場面がクライマックスとなる。しかも「私」自身もドストエフスキーの死の現場を訪れるので、現在と過去の二つのプロットラインが合体してクライマックスに至る美しい構成になっている。
手法がユニークなのでそっちにばかり目が行ってしまうが、ツィプキンの文体も的確かつ詩的で、大変魅力的だった。スーザン・ソンタグが書いているように、愛する行為が泳ぐことにたとえられて繰り返し出てくるのがとても印象的だ。これも、突然「二人は水平線めざして泳ぎ出した」みたいになるので、おやまた場面が変わったかと思うのだが、読んでいると愛の行為のメタファーであることが分かる。そんなこんなでますますテキストは曖昧性を増し、夢幻性を深めていくのである。変幻自在の小説だ。
僭越ながら、TBさせていただきました。
ぼくは、起伏のある俗受けするような小説をおもしろいと感じてしまう人間なので、本書は少し退屈だと思ってしまったのですが、なんでもっと楽しんで読めなかったのかなと自分のセンスのなさが恥ずかしいです…。
それにしても文体は見事ですね。確かにマルケスなんかと比較したくなります。
毎回読み応えのあるレビュー、ありがとうございます。
私はようやく重い腰をあげ、数年かけてドストエフスキーの長編作を読み終えたんですが、もうちょっとヘロヘロでして、しばらくドの字もみたくない感じでしたが、今回のレビュー本(とツィプキン)に興味が沸いてきました。いま読んでいる本の次はこれにしようかな、と。
読む前から頭が痛くなりそうな予感がしますが、面白そうなんだから仕方ない(笑)