橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

「曲先、詞先」と「映像とナレーション」から考える「自分の言葉」の大切さ

2012-09-28 07:44:45 | Weblog

<テレビ番組における詞先と曲先(画先)>

曲先、詞先というのは、歌を作る時に曲と詞のどちらを先に作って合わせるかということだけれど、それって、映像とナレーションの関係に似ているなあと、あらためて思った。

そんなことを考えて、このブログを書き始めたら、丁度NHKでプロフェッショナルの脚本家・遊川和彦の回の再放送が始まった。

ドラマの脚本は、映像に言葉を乗せていくナレーションと違って、文字から映像を興していく。言ってみれば「詞先」だが、もともと脚本家の頭の中にある映像を脚本という文字にしているから、ある意味映像が先、純粋に「詞先」ではないかもしれない。

脚本家のイメージは文字に媒介されて、演出家という別の人間の頭の中で再び映像化され、そのイメージによる演技指導と脚本をもとに演者たちが演じて最終的に映像と音で再現される。そして、その脚本家から演者に至る文字とイメージの変換がうまく行けば、そのドラマは、多分、多くの人の心を動かす。

取材ものの番組のナレーションは、基本的には、映像を繋げた後に、それを見て書き上げる。歌で言えば曲先、画先の世界だ。もちろん、映像を編集する前の段階で、編集のためのガイドとなるラフな構成原稿はあったりするが、より映像イメージにあった、音で聞いても美しいナレーションにするのは、映像が繋がって、それを見ながらとなる。映像から喚起される言葉というのは確実に有る。先に自分の思いから湧き出た叙情的な文章を書いても、実際に撮れた映像のイメージがそれと合わなければ、そのナレーションは生きない。

 一方、ニュースなどの速報性を重んじるものは、編集を速く上げないといけないのもあって、先に原稿を作って、それにタイムを合わせて映像を繋いでいくことが多い「詞先」だ。もともと制作系の番組にいた私は、情報番組や報道番組など、生放送の番組をやり始めた時、この、放送用原稿を先に作ってから編集するシステムに驚いた。

 

<今回の仕事はまさに「曲先」> 

ところで、私は最近、構成作家としてナレーションの仕事をしている。報道ではなく、おもに日本文化や自然を扱った取材ものだ。こうした番組の構成の場合、ディレクターが取材をしてくるので、私は、打ち合わせのもと、彼が取材してきたVTRの映像と彼がそのVTRを編集するためにラフに書いた構成や、このブロックではこういうことを言いたいという仮のざっくりしたナレーションを元に、資料などもふまえて、より分かりやすく整理され、音で聞いて美しい文章に書き換えていく。ただ、今回は担当のディレクターが極端に自分の作品に他人の意思が入るのを拒み、ほとんど打ち合わせもせず、取材内容についての何の説明も無く、ただ、繋げられたVTRと仮のナレーションだけを渡して、書いてくださいという状況であった。しかも、文章を整理し美しくするレベルでは、番組としてOKレベルに達しない感じだったから、映像を頼りに、再度内容を練り直すことになった部分も多かった。伝えるべきことを、独自の資料で裏を取りながら、新しいナレーションで埋めてゆく。ただ、映像はもう繋ぎ終わっているので、面白ければ、どんな文章でも入れればいいというわけでもない。伝えるべきことの中で、その映像に最も合ったものを選ぶ。

まさに「曲先→画先」だ。

最初は大丈夫だろうかと思っていた。映像は違う意図をもって編集されたか、もしくは綺麗なものを漠然と繋いでいる。そこに、さらに異なる意図のナレーションをつけていって整合性はとれるものか・・・?

しかし、実際に作業をしていると、しっくり来る文章が意外と見つかることに気づくのだ。私が当初から構成に組み込むべきだと思っていた内容で、かつディレクターは外していたというような文章を乗せてみても、意外と大丈夫だったりするし、当初ノーアイディアでも、映像を見ていると、ふっと言うべきことが浮かんでくる。

考えてみれば、こういうことは、このディレクターとの仕事に限ったことではない。

 

<言葉では説明できていなくても映像が語る>

ディレクターから渡される仮ナレは、何がいいたいのか明確でない部分が結構有る。特に、取材したものの本質を最後にまとめて語るような部分とか、ブロックとブロックを繋ぐときの論理展開の部分が曖昧なことが多い。しかし、最初は「なんだよ、わからないよー」と思いながらも、映像をじっと見ていると、ディレクターが言いたいであろうこと、もしくはそこで語るべきことが、取材に行ってなくてもなんとなく見えてくる。ディレクターたちが、自分で書いた仮ナレーションでは表現しきれていないものを、繋がった映像が無言で語っているということがあるのだ。

ディレクターたちは、多分、「言葉で」うまく伝えられていないだけなのである。

多分、言葉以前の意識の段階では、自分がこの映像で何がいいたいか漠然と分かっているのではないだろうか。しかし、ナレーションとして言葉にしようとすると、それを正確に表現できず、結果、頭に浮かんだ美辞麗句を並べて、なんとなく仮ナレの形にしてるのではないかという気がする。正確に他人に意図を伝えるのは案外厄介で、自分が思ってるほどには他人に物事は伝わらないものだ。

一方で、映像や音声はより無意識を映し出すから、そっちの方には本意が滲んでたりする。

 

<「“言葉”で伝えられないこと」が生む誤解>

しかし一方で、言葉で上手く伝えられないということは、説明を受けた側からすれば、「こいつ分かってないなあ…」ということでもある。それで、適当な仮ナレーションを書いてしまったディレクターは、プロデューサーから「意味分からないよ」という批判を浴びることになる。

そういう場合、批判された側はよく「上の人は分かってくれない」と思ったりするが、それは、言葉に変換できなくても、自分の中ではなんとなく分かっているつもりだからだ。でも、上手く言葉にしないと他人には伝わらない。

このように、批判された側が反発を抱くのは、自らの無意識を意識化するための表現能力が乏しいということを本人が理解していないからではないのだろうか。面白いものを発想する才能がどうとか、そういうもんではなくて、それを伝えるコミュニケーション能力、言語能力の問題ではないのかと思う。若い人で、その辺を誤解して、ちっとも言語能力を磨かずにプレゼンで失敗している人をよく見かけるのだ。

ただ、本人が言語化できなくても、彼らが繋いだ映像が物語るものはあって、そこから第三者が、彼らと同じようなものを感じ取ることは有り得る。

ナレーションを、取材した本人ではない構成作家が書き直すことに意味が有るとしたら、分かりやすく、美しい文章に書き直すだけでなく、別の人間が同じ映像を見ることで、取材した本人も気づいていなかった、映像に潜む無意識を発見することなんではないかと思う。

とはいえ、やはりそんな無意識にも濃淡あって、編集する本人にあまりに思い入れがないと、あまり感じられない気もする。

それに、ディレクターが意識していないものを発見するのは、あくまでおまけの部分であって、基本的には伝えたいことを明確にして、お互いの知識を出し合ってより良いものにすることが本来だと思う。やはり、言語による説明能力は大切だ。

さらに、このことから、最近のこんな傾向のことも考える。

<コピー&ペースト蔓延の弊害>

私たちが何かを伝えたいと思って言葉を発する前には、頭の中になにがしかのイメージがあり、それを言語に変換する。そして、言葉を受け取った人は、その言葉を、自分の頭の中でイメージに変換できて初めて物事は伝わる。その人がさらにそのイメージを自分の言葉に変えて説明出来れば、伝達は完璧だ。

ネットの文化が浸透しだしてから、コピー&ペーストということの弊害がよく言われるが、言葉を言葉として受け取り、自分の頭の中でイメージに変換すること無く、文字そのままで第三者に伝えても、その人の文章は理解に繋がる説得力は持たない。そして、最近、そういう場面によく遭遇する。

一緒に仕事をする若いディレクターたちが、言葉で自分の意図をうまく伝えられないのも、もしくは自分の意図がまるで存在しないかのような文章を書いてしまうのも、こうしたコピー&ペーストが浸透し切ってしまって、自分で噛み砕くということや、自分の意図を表現するためにぴったりの言葉を探すという作業をおこたっているからではないかと思える(実際にどうかはわからないが)。

映像の文化は、本当はナレーション=言葉など無くても良いのである。映像から喚起されるものからナレーションは書き始められることから考えても、言葉はイメージの従者かもしれない(もちろんその逆もあって言葉が喚起するものもあるが)。

しかし、それで言葉は重要ではないということではない。言葉の運用をコピー&ペーストで済ませるということは、物事の理解や自発性の放棄でもある。そうなると、言語能力の乏しさから来るコミュニケーション不全などというスキルの問題ではなく、自分で考えないという本質的な問題になってしまう。やはり、イメージを言葉に置き換えられるということは人間の特権である。現代の人間が、直感など肉体に直結した野性的な感性を忘れて、脳的な言語の奴隷になっていると言われるのは、音声と文字からなる言葉の本質や本来の意味を理解せず、わかったようなわからないような外来語の羅列や、どこかのコメンテーターの言葉を引用して世の中を分かったような気になっているからなのではないだろうか。

そして、そういう言葉の使い方の傾向は、政治家をはじめとしたエリートと呼ばれる人々に多いのもなんだか頭が痛いのだ。