眞壁 陸二
ebakam art studio blog
社会彫刻 ヨーゼフ・ボイスについて

photo by ANZAI
20世紀の美術史を語る上で欠かせないアーティスト、ドイツのヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys、1921−1986)
彼は単なる芸術品としての絵画や彫刻作品ではなくアーティストの思想が社会を変えるのだという強い意志を持っていた
芸術の概念を拡張し、教育制度の変革デッセルドルフアカデミーでは従来の入学制度に反対し学内で「自由国際大学」を始め
(彼の門下からポルケ、リヒター、キーファーといったスター作家が輩出されている)
政治家としても「緑の党」を立ち上げるなどし社会の意識そのものを彫刻としようとした。
印象的な作品としてドクメンタ7での7000本の樫の木プロジェクトという自然保護運動そのものがアート作品となった
思考、行動そのものがアートなのである
執拗なまでの学生との対話や直接民主主義と社会のシステムにたいする疑問や不満を徹底的に討論する人だった。
つまりボイスの言いたかった事は、「未来の社会に向けた提案をアートの力で考えてゆこう」という意思表明だったんだと思う
ボイスが今生きていたらどのような行動をとっただろうか
あらゆる社会でひずみが生まれ格差が問題になっている
そして我々の生きる日本では昨年3.11に東日本大震災がおこり原子力問題が頭を悩ませている
あきらかに良くない未来に社会が向かっている…
ではアートはアーティストに何が出来るか?
来月で震災から1年、まだあの日から1年も経っていない
何も無かったかのようにこのまま風化させてはいけない
いまになってボイスを読み返すとボイスの言いたかった事がようやく理解出来る様になった(と思う)
藤浩志さんのワークショップ

先日から参加している21世紀美術館での21世紀塾で知り合いになった金沢美大の中瀬先生の紹介でゼミにちょっと参加
藤浩志さんは瀬戸内国際芸術祭では豊島で「藤島八十郎をつくる」という架空の人物がいるという不思議な発想でのプロジェクトの作品を作ったアーティスト
古民家まるごと使って 姿の見えない藤島八十郎の気配を作品化するというものだった
残留物のようなモノを見て誰も知らない藤島八十郎像を鑑賞者は勝手に思い描く そういった作品だった
そこに既存の美術やアートと呼べるものは無い、こんな発想がアートになるのかと驚かされたしワクワクさせられた
今回のゼミのテーマは「あなたにとってのフェティシュ」とは?という自分の趣味趣向を探り編集し発表するというもの美大の学生さん達にとっては自分を知るきっかけだったのかな
後半は「30年後の〜」というテーマでのディスカッション
そこからは僕も飛び入りゲストとして加わった
「30年前はどうだったかな?」とも考えつつ
30年もたつとものの価値観や基準がガラリとかわる
今ある既存のシステムはたぶん崩壊しているだろう
ギャラリーや美術館の役割、社会の中のアートの関わりなど…
変わるもしくは変えるためには、現状を知らないと変わらないわけで 僕の知りうるアートシーンを学生さん達にお話した
社会とアートの関わり、ギャラリーのシステム、美術館、アートフェア、オークション、国際展、公募展コンペの実態と問題点など
そこから東京流ではなくオルタナティブな方法を考えてもらいたい
今の学生の気持ちもいくらか聞けて面白かった
ARTEFIERA ART FIRST2012 アートフェア ボローニャ

イタリアのボローニャで開催されたアートフェアARTEFIERA ART FIRST 2012 が終了いたしました
(僕はイタリアには行ってません作品とBASEギャラリースタッフが現地に行っています)
今年は日本から参加したギャラリーはベイスギャラリーのみだったそうです
イタリアも日本同様経済状況は芳しくないとの事で心配でしたが まずまずの成果が得られホッとしました
見ず知らずの外国人(日本人)の作品を作品だけ見て「買ってくれる」というのは本当に嬉しい
ちょっと日本の感覚からすると信じられない
「ちゃんと市場が行くとこに行けばあるんだなと」 改めて実感する

昨年から二回目の参加ですがイタリアといえばダヴィンチにミケランジェロにラッファエロ
ルネサンスの天才たちの国 そしてボローニャは敬愛する画家モランディの生きた街
その街に住む(眼の肥えた)人に気に入ってもらえた事が何より嬉しい
次回はスペインのマドリッドへ ARCO madrid 2012 2/15-19
こんどはピカソとミロとガウディの街です 楽しみ
アートxまち そのシステムとアイデアを考える


金沢21世紀美術館にて「二十一世紀塾」と名打ったワークショップが連続5回で開催されている
テーマばアートを使ったまちづくり
金沢に限ったことではないが社会の中にアートが生かされている地域はほとんどない
「アートなんてアーティストが勝手に好きなことをやってるだけだ」とか「さっぱりわからん」「好き嫌い」で語られることが多い為だ
もったいないことだと思う
社会にアートを還元する仕組みを考えていく
最大の問題は、アーティストと社会、もしくはアーティストとアーティストもコミュミケーションが不足している事だろう
今回の二十一世紀塾をきっかけにアーティストと社会、市民、美術館が連動し魅力的な街づくりを提案しそのシステムをつくっていこうと思う
今回の塾は、作家だけでなくNPOまちづくりの方、ギャラリーの方、教育関係者、地元美大の教員などと様々、聴講席にも様々な業種の方が来ているようだ
まちづくりをアートを使って活性化したいと願う塾生が世代を超えて集まった
こんな機会はたぶん今まで金沢では無かっただろう
金沢は確かに美術が盛んな町だけど、伝統工芸は伝統工芸で美大は美大の中で現代アートは現代アートの中だけで内側に向いて外に開いていっていない
それぞれの良さを認め、良くない点も話し合いたい
そして社会に生かされ共生出来るプロジェクトを提案したい
点と点でしかない現状を線につなげて面にしていきたい
最初は兎に角 対話からだ
1回目、2回目とスパイラルの方がおこなってきたまちづくりの事例の報告を聞いた
たくさんの素晴らしいアイデアとシステムづくりだった、しかし我々は結局は「金沢スタイル」を創出しないといけない
金沢でやる以上「金沢だから出来ること」「金沢じゃなきゃ出来ないこと」をアイデアを出し金沢システムを作らないとダメだと思う
そしてそれが持続可能なシステム(経済性)になるように考えてみたい
2回目の後半は車座になり互いのやりたいことやプランを出し合った
今後5つ程のプランに絞り最終5回目にはチームに分かれてプレゼンテーションする計画だ
まだまとまってないが興味深い意見がいくつか出てきた
面白くなりそう いや面白くして行こう
興味のある方は聴講も出来ます ご是非参加下さい
次回3回目は来週2月3日の19時より「ケベック州の取り組み」
4回目は2月4日16時より「Art Complexグループの取り組み」
最終5回目は2月25日16時から「塾生の発表」となっています
詳しくはwww.kanazawa21.jpのホームページをご覧下さい
西田幾多郎 絶対矛盾的自己同一

昨年秋からの哲学マイブーム、鈴木大拙に引き続き西田幾多郎(Nishida Kitaro)を読む
西田哲学なんて呼ばれるぐらい東洋哲学の世界では最大メジャーな哲学者ですが恥ずかしながら今まで読んだことがありませんでした
読むにつれてその懐の深さを痛感 悟ってますねこの方は完全に、素晴らしい
興味深い洞察は「純粋経験」とう感覚で主客が同一となる状態だ
例えば夕日に見とれている時に、「私はきれいな夕日を見ている」とするならばどこか遠い所から自分を客観視しているもう一人の自分がいることになる、しかし本気で「見とれている場合」「自分」という「主」はもはや意識されることはない 自分自身が夕日になっている
主も客も区別無く渾然一体とした無我の境地
このことは芸術やスポーツの世界では実感しやすい、無意識のうちに絵筆を運び、楽器の名人は指の動かし方を意識せずとも自在に操る、頭で考えてから身体を動かすのではもう遅い 熟練者は無意識の中で身体が瞬間的に反応する。
そして西田哲学の中で最も興味深いのは、「絶対矛盾的自己同一」
これは世界の仕組みを哲学している たぶん「世界とは何ぞや?」という大き過ぎる問いにこのように考えたのだだと思う
この世の中には色んな考え方、宗教、人種、ありとあらゆる正義、ありとあらゆる価値観がある
そのいずれかが正しいとか正しくないとかと言うのではなしに、矛盾を含めあらゆるものごとが同時に存在し共存する、それを認め合う、それがこの世界なのだ と言っているような感じだ。
理想的な考え方だと思う 呉越同舟といったところか
ちょっとナウシカ(漫画版)みたいな感じだが僕もその考えに賛同する
僕自身の 哲学 と言えるか分からないが疑問を持ち 考えるきっかけは「いい絵って何だ?」「うまい絵といい絵の違いは何だ?」という素朴な疑問から出発している
どんどん考えていくと「アートとは何だ?」「何の為にアートは存在する?」「誰のためにアートは存在する」……さらに続けて行くと「日本らしさとは?」「自分とは」「生きるとは」「幸せとは」「〜とは?」と何でもかんでも哲学になってしまう
何にも考えないのも問題だが こう悩んでばかりいても参ってしまう
ある程度言葉で考えてはみるが最終的には直感に頼ることになる。
…たぶんそれが一番いい方法だ
対象と一体化する程にのめり込んだ状態になればいいのだろう
人は誰しも「人生とは何か」を悟ってから人生を始めるわけではない
生きていきながら悩み考えその時々にその時点での答えを探しながら生きていく
鈴木大拙も西田幾多郎もちょっと文章が難解なので複数の研究者の本も読み飛ばしながら勝手な解釈で呼んでます
自分ならこう読むという感覚がないとがんじがらめになっちゃいそうですから誤訳覚悟でいいと思います
ジャン=ミシェルオトニエル MY WAY
前回が批判でしたので今回は素晴らしい是非見るべき展示から
ジャン=ミシェルオトニエル フランスの作家です

ガラスを使ったインスタレーション
球体のムラノガラスをループ状に繋げている
「装飾的」という言葉がすぐに浮かぶ
装飾とアートは一見正反対のように思われるかもしれないが空間を美しく飾る
その作品があることで 空間が魅力的な場所になる
ジャン=ミシェルオトニエル作品は近年パリの地下鉄入口のランドマークに採用されている
サイトスペシフィック(場所性を孕んだアート)なパブリックアート(公共のアート作品)にふさわしい
しかもガラスは経年劣化が少ないので屋外展示にもってこいだ
ガラスは何千年も前からほとんどの文明で発見されており重宝されてきた
疑似宝石のような存在だし素材として「美しい」
しかしこのように現代アートの領域で素材としてガラスがピックアップされるのは珍しい
ほとんどの場合、現代工芸となってしまっている
他にはレイチェルホワイトリードが透明樹脂をキャストでブロック状の作品を作っていたが、こちらも素材として文句無く美しい
人は透明(半透明)なもの光を透過する素材に無意識で美しいと感じる本能があるのだろう
アートは素材に対しまだまだ開発の余地がある
今までそれを素材(画材)と思っていなかったものが表現のツールになるという可能性が沢山ある
品川 原美術館にて開催中3月11日まで
ジャン=ミシェルオトニエル フランスの作家です

ガラスを使ったインスタレーション
球体のムラノガラスをループ状に繋げている
「装飾的」という言葉がすぐに浮かぶ
装飾とアートは一見正反対のように思われるかもしれないが空間を美しく飾る
その作品があることで 空間が魅力的な場所になる
ジャン=ミシェルオトニエル作品は近年パリの地下鉄入口のランドマークに採用されている
サイトスペシフィック(場所性を孕んだアート)なパブリックアート(公共のアート作品)にふさわしい
しかもガラスは経年劣化が少ないので屋外展示にもってこいだ
ガラスは何千年も前からほとんどの文明で発見されており重宝されてきた
疑似宝石のような存在だし素材として「美しい」
しかしこのように現代アートの領域で素材としてガラスがピックアップされるのは珍しい
ほとんどの場合、現代工芸となってしまっている
他にはレイチェルホワイトリードが透明樹脂をキャストでブロック状の作品を作っていたが、こちらも素材として文句無く美しい
人は透明(半透明)なもの光を透過する素材に無意識で美しいと感じる本能があるのだろう
アートは素材に対しまだまだ開発の余地がある
今までそれを素材(画材)と思っていなかったものが表現のツールになるという可能性が沢山ある
品川 原美術館にて開催中3月11日まで
最近の美術シーン批判
本当はあまり人の批判はしたくはないが反対意見を言わないと賛同していることと同じ、と昨年気がついたので主観にもとずいて「良くない」と思うことは「良くない」と言おうと思う。
年末年始にかけておこなわれている展覧会から2つ、一つ目は水戸芸術館でおこなわれている清川あさみ展「美女採集」
二つ目が横浜美術館での松井冬子展「世界中の子と友達になれる」
どちらも若くて美しい作家さんだが内容はヒドい
美女の写真にイラストを描き加え刺繍したりコラージュをする清川作品はすでにいくつかの作品集が出版されるほど人気があるらしいが?この手の作品は美大の1〜2年生(いや目指そうとした経験のある人)レベル
アイデアも陳腐だしアートとは全く思えない。
次に松井冬子 この方は日本画のもつオドロオドロしい部分に焦点をあて人の背後、幽霊や影の世界や毒を描こうとしている
視点は決して悪くないが描画方法が何故かルネッサンス風。
二次元の媒体である紙や絹という支持体に三次元空間を明暗法でスフマート(朦朧体?)ぎみにボリュームたっぷりに描く。
これは東京芸大日本画の伝統なのか?
卒業制作を見ればすぐわかると思うが自画像と自由制作なのだが、芸大は恥ずかしいくらいやけにアカデミックなのだ
写生写実が信条の大学であるから「上手く描こう」と皆必死なのだが何を目指してんだか?日展か院展か?と言いたくなる
日本画であるという盾を持ちながらその空間把握力はどういうわけか西洋のそれも印象派以前のアカデミズムなのである。
これは何も松井に限ったことではない、芸大を優秀な成績で卒業した無自覚な画家たちはなぜか大抵こうなる。
最も良くない作品は展覧会タイトルとなっている「世界中の子と友達になれる」と題された作品、ここにおける人物表現は予備校生かと思う程だ。骨格肉付き量感いづれも極めて常識的であり現実的だ。誰が見ても「上手だね〜」と言ってくれそうな技法だ
しかし作家なら(美大の学生ですら)誰しもその先を悩みそして何をどう描こうかと悪戦苦闘しもがく。
彼女たちを持ち上げる批評家やジャーナリストに絵を見る眼力のある人はいなさそうだ
そこには「こんなにも美女がアートをやっている」という週刊誌程度の話題性だけだ
僕は全く評価しない
全く不愉快な記事で申し訳ありません。
画像も貼りませんので気になった方だけ各自実際見にに行くか検索してみて下さい
個人的な感想ですがこの国のマスコミにはもはや批評は存在しませんので、せめてブログの中だけででもモノの善し悪しを個人のレベルでお話ししました。
年末年始にかけておこなわれている展覧会から2つ、一つ目は水戸芸術館でおこなわれている清川あさみ展「美女採集」
二つ目が横浜美術館での松井冬子展「世界中の子と友達になれる」
どちらも若くて美しい作家さんだが内容はヒドい
美女の写真にイラストを描き加え刺繍したりコラージュをする清川作品はすでにいくつかの作品集が出版されるほど人気があるらしいが?この手の作品は美大の1〜2年生(いや目指そうとした経験のある人)レベル
アイデアも陳腐だしアートとは全く思えない。
次に松井冬子 この方は日本画のもつオドロオドロしい部分に焦点をあて人の背後、幽霊や影の世界や毒を描こうとしている
視点は決して悪くないが描画方法が何故かルネッサンス風。
二次元の媒体である紙や絹という支持体に三次元空間を明暗法でスフマート(朦朧体?)ぎみにボリュームたっぷりに描く。
これは東京芸大日本画の伝統なのか?
卒業制作を見ればすぐわかると思うが自画像と自由制作なのだが、芸大は恥ずかしいくらいやけにアカデミックなのだ
写生写実が信条の大学であるから「上手く描こう」と皆必死なのだが何を目指してんだか?日展か院展か?と言いたくなる
日本画であるという盾を持ちながらその空間把握力はどういうわけか西洋のそれも印象派以前のアカデミズムなのである。
これは何も松井に限ったことではない、芸大を優秀な成績で卒業した無自覚な画家たちはなぜか大抵こうなる。
最も良くない作品は展覧会タイトルとなっている「世界中の子と友達になれる」と題された作品、ここにおける人物表現は予備校生かと思う程だ。骨格肉付き量感いづれも極めて常識的であり現実的だ。誰が見ても「上手だね〜」と言ってくれそうな技法だ
しかし作家なら(美大の学生ですら)誰しもその先を悩みそして何をどう描こうかと悪戦苦闘しもがく。
彼女たちを持ち上げる批評家やジャーナリストに絵を見る眼力のある人はいなさそうだ
そこには「こんなにも美女がアートをやっている」という週刊誌程度の話題性だけだ
僕は全く評価しない
全く不愉快な記事で申し訳ありません。
画像も貼りませんので気になった方だけ各自実際見にに行くか検索してみて下さい
個人的な感想ですがこの国のマスコミにはもはや批評は存在しませんので、せめてブログの中だけででもモノの善し悪しを個人のレベルでお話ししました。
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