僕ね 燃えています

2018年10月30日 | Weblog

バンデ・グローブとかいう、過酷なヨットレースに挑戦する白石康次郎氏の言葉です。

4年に1度開催される。単独無寄港で世界一周を目指すヨットレースです。

バンデ・グローブなんて聞いたことありませんでしたが、極めて厳しいレースだそう。全長60フィートの外洋レース艇の乗組員は、一人。しかも、地球一周をめざして1回も補給基地の港に1回も寄ることなく、帰還しなくてはならないとのこと、これ以上の単独レースはないということです。故障が起こっても、修理は自分一人でやらなくてはいけないし、南半球1周およそ2万6千マイル(約4万8152km)の航程をおよそ100日間かけて帆走するというものです。フランスの大西洋岸のヴァンデ県の港を出発して、南下してアフリカの南端、喜望峰回り、インド洋を通り、オーストラリアとニュージーランドの南側を抜け、南米大陸のホーン岬と南極大陸の間、ドレーク海峡を抜けて大西洋に再び入って北上してバンデ県の港まで戻るというコースという事です。

厳しい気象の連続、どんなに体調が悪くても緊急処置も許されない危険なレースで外部からの援助は一切なし。
何で、こんなことやるんだろう。無意味だと思う人には無意味ですが、本人は命を懸けているのです。
自己満足といわれるかも知れませんが、皆に勇気を与えてくれるのは事実です。

私たち佛立宗が挑戦しているのは、世界に法華経の教え、上行所伝の南無妙法蓮華経の御題目を普及させることです。
多くの教務員(僧侶)とご信者がいますが、最後は結局、一人ひとりの過酷な修行です。一人一人を説得して教えに帰依し、上行所伝の南無妙法蓮華経の御題目を唱えるように導くのは、一人の教務であり、一人のご信者です。
ただ、この挑戦はまったく自己満足ではなく、相手の方のためを思う菩薩(他の為に尽くす人)の修行だという事です。

フィリピンでは、いま、遠妙寺の挑戦が続いています。教務の黒柳彰明(くろやなぎしょうみょう)師と妻のジャネットさん、そして各地のご信者が今、燃えてご信心を勧めてご信者になるように、フィリピンがすばらしい国となり、一人ひとりが幸せになるよう活動しています。
ただ自己満足ではなく、完璧に他の人のために、あなたのためにという思いで、この教えを弘めることに命を懸けています。

私もいよいよ、人生の締めくくりというか晩年という年齢になりました。
言葉の障壁を越えて、本当はフィリピンに渡り、生涯を捧げたい気持ちもあります。一方では、東京での活動、ご奉公もキチンとしなくてはという思いもあります。
どちらにしても、最後は燃えて燃えて、ご信心を弘めるために生涯を捧げたい気持ちです。

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安田純平さん よく耐えた3年4ヶ月

2018年10月27日 | Weblog

安田純平さんが帰還したというニュースが日本中を駆け巡りました。

まずは、帰還おめでとうと言いたいですね。
なにしろ、シリアで武装集団に囚われてから正味3年4ヶ月、脅迫と身動きできない監禁生活を余儀なくされてきました。
朝になれば帰れるかも知れないと希望を持たされ、夕方には、やはり今日もダメ、明日もダメかも知れないという絶望感にうちひしがれたり。あるいは、朝日が昇ると今日は殺されるかも知れないと恐怖にとらわれ、夜には今日は何とか生き延びたと安堵し、次の日のことが心配になるという「揺さぶり」に悩まされたでしょう。精神的拷問ですね。
また、ある時は銃を突きつけられてビデオの撮影をさせられたり、生きている心地もしなかったと思います。

いま、その安田さんをめぐって「自己責任論」がネット上で騒ぎになっているといいます。あるいは、バッシングまがいの批判的意見が突きつけられていると言います。

おかしいと思うのは、犯罪を犯したのは武装勢力集団であり、安田さんは被害者です。しかし、声が届きそうにない加害者集団に対する批難はそっちのけで、被害者を更にむち打つ行為が横行しています。
自分の責任だから自分で何とかすれば良かったのにと、言っている人は別に安田さんによって迷惑を蒙ったわけではないのに、被害者のような立場に立って言いたい放題です。
助かって良かったネーという、寄り添う気持ちとは全く無縁で、怖いような感じです。

安田さんはジャーナリストとして、現地に行き現場を見なくては何も実際のところが分からないし、人にも伝えられないと思い、純粋なジャーナリスト魂に鼓舞されて中東に赴いたと言います。
これは、かつて我が本門佛立宗の祖師、日蓮聖人が命まで狙われ殺されかかっているのに、あえて辻説法を行い、鎌倉幕府に救国の建白書「立正安国論」を提出して迫害を招いたことと重なってきます。そんな事を招いた日蓮聖人がむしろ口の悪い宗教者で、自業自得だとか、あまりに激越な発言をしたのだから殺されて当たり前だとか、被害者を責めた人びとがいました。
また、日蓮聖人の精神を継いで、故郷・種子島への弘通布教を行い、現地の人びとに殺されてしまった日典上人という室町時代の僧侶がいます。日典上人は、もともと律宗の僧侶、林応という名を以って得度、奈良等の諸大寺に七年間、遊学して、戒律を修め故郷に帰還する時、堺の船着き場で盲目の法華信徒、太都(たいち)という人と出会いました。
そして、互いに仏法について話をするうち、太都の仏法に精通していることと、その信仰心の純粋さにひかれ、太都が師事する堺・顕本寺の日浄上人(門祖日隆聖人のお弟子、甥に当たりやはり盲目)に教化を受け、ついに南無妙法蓮華経の御題目をお唱えし護持するようになりました。
やがて、日典上人の仲介によって門祖日隆聖人にもお目にかかり、帰依してお仕えして、ついには尼崎・本興寺(現・法華宗本門流本山)の「勧学院」(僧侶の学問所)学頭の地位にまで至りました。
しかし、晩年、どうしても故郷の種子島の人びとを思い御題目を弘め、幸せになってもらいたいという一念から、勧学院学頭という要職も辞して帰郷され、熱心に妙法弘通、御題目のご信心を弘められました。
しかし、律宗信者の迫害にあい、ついに寛正四年四月二十一日夜、桟敷ヶ丘下の浜辺(日典ガ浜)において石で生き埋めにするという残虐な仕打ちにあって殉教の死を遂げられました。これが後に、種子島に日典上人の遺志を継いで渡島し、ついに種子島の全島教化をなし遂げたばかりか屋久島、沖永良部島の教化をされた日良上人という方の偉業の下地、基礎となりました。日良上人は、最初は僧侶の身分を隠して、茶道の師匠、茶人の姿で島に入り、徐々に島の人びとの教化をされたと言われています。
このような場合、日典上人の殉教、殉死は無謀なやり方をした結果で、当然のことであるとするのでしょうか。
子どものいじめの問題でも、似たようなことがあり、いじめられる子にはイジメに遭うだけのものがある、当然だという意見がよく語られます。
よくよく、考えてみなくてはならない点があります。


 

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あー最高

2018年10月23日 | Weblog

プレッシャーというものは、あるものですね。
2期6年間、私、木村玄妙は宗門の責任者として務めてきましたが、10月12日をもって任期満了しました。
この解放感は何とも言えねーという感じです。
サイコーです。

これからは、少しは自分のやりたいことをやれるような、自由がきくような感じがします。
以前は熱心にやっていたブログも再開して、少しずつ日記代わりにでも書いておこうと思っています。
かなり以前から、自分の好きなことをやりたいし、好きなように時間を使いたいと思っていましたが、今のところはまだ、完全にフリーではありません。
住職就任以来、32年も経ちますが、後継者に次代を任せればだいたい、フリーとなります。

私どもの宗旨、本門佛立宗では禅宗の「雲水」というような、1箇所に定住せず諸国をめぐり歩いて修行するようなお坊さんはいません。
いろいろなお寺をめぐって、手助けをするとか。かえって邪魔になり、お節介なヤツと追い出されるかも。不謹慎ですが、これは面白そうな気がします。
あるいは、水戸黄門のように方々を歩いて回り、悪い奴をやっつけるような、そんなのもやってみたい感じです。ただ、今の世の中は物騒なので助さん格さんみたいな人が10人くらいは必要かも知れません。
こんなことを考えるのは、少し「ヒマ人」になったのでしょう。結構、日程はいっぱい詰まっていますが、精神的余裕ということかな。
昔々の本門佛立宗のお教務さんは、今より自由がきいたようで、小倉不軽寺を開かれた宮川日厚上人は神出鬼没だったようです。
東に困っている人があれば、飛んで助けに行き、西に病気の人がいればいつの間にかお助行をして、足の立たない人にご利益を頂かせて歩けるようにされたとか。
そのようにして中国、四国地方の主立ったお寺の基礎を築かれたと聞いています。
不軽菩薩のいきかた、そのものですね。
爪の垢を煎じて飲み、できれば明日からでもやってみたいですね。



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