7月21日の続き
前回は、久遠本仏と絶対神の間には区別があり、それを同一視することが謗法となると説きました。
次に、仏教といっても日蓮聖人門下である法印とは何かといえば、いくつか挙げられるでしょう。
その代表的なものをいくつかあげますと、第一に南無妙法蓮華経の御題目を御本尊とされたこと。これについては、日蓮聖人のお書きものの中では、観心本尊抄や本尊問答抄、法華取要抄などに解説を日蓮聖人がされています。
第二に、凡位の成仏。成仏は特別な人に限らず、ふつうの人が信心さえ起こして、本門八品所顕上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経とお唱えして、信心の位(名字即位・・みょうじそくい)に入れば可能であること。これは四信五品抄(ししんごほんしょう)に出ています。
また、第三には、折伏行(しゃくぶくぎょう)。その実践修行は、折伏行(しゃくぶくぎょう)で他の人にも正法のご信心を弘めることである、今の時代に人里離れた山の中で、一人静かに瞑想にふけり坐禅するようなことは摂受(しょうじゅ・・消極的修行)で、それではダメだといわれています。これは如説修行抄(にょせつしゅぎょうしょう)に出ています。
以上の三つの事柄が日蓮聖人門下の法印で、基準です。この基準の枠内に収まっているかどうかによって、真実に日蓮聖人の教えを継承しているか否かを判定できます。これから外れたら謗法となり、ただしく教えを受け継いでいるとは言えません。
そのほかの特徴として前記の三つと関連していますが、経典中心主義、現証(経力)中心主義、反権力志向、そして現実改革志向ということもあわせて挙げることができます。
最後の現実改革志向というのは、日蓮聖人ご出現以前の仏教者は現実の社会からかけ離れた環境で修行することをもっぱらとしていたのに対して、日蓮聖人は現実社会のあり方にも目を向けて、社会的弱者の救済に心を砕いておられたことをいいます。
日蓮聖人は
涅槃経(ねはんぎょう)に云く、「一切衆生の異(い)の苦を受くるは、悉く(ことごとく)これ如来一人(いちにん)の苦なり」等と云云。日蓮云く、「一切衆生の同一の苦は、悉くこれ日蓮一人の苦なり」と申すべし
と、おっしゃっています。異の苦とは、それぞれの個人が背負っている苦しみ。同一の苦とは、同時代に生きている人々が背負っている共通の苦しみ、また、共業(ぐうごう)というものです。
釈尊は、それぞれの人の内部的な苦しみを取り除くことを課題としておられたが、日蓮聖人はそれだけでなく、皆の共通の苦しみを取り除くことを使命とされるということです。
少し話が中心テーマからそれますが、いま、フィリピンではご信者が30人となりました。その中心となってご奉公されているテディーさん、ジャネットさん夫妻がいま日本に来ておられます。テディーさんのお話を聞きますと、フィリピンには少数の富裕層と圧倒的多数の一般国民とが生活していますが、その貧富の差は相当なものだといいます。すべての社会的システムは、依然としてわずかな富裕層を支えるために機能し、一般の人々は安い賃金で働いているとのことです。
このあり方を変えていかなくては、なかなかフィリピンを今以上に発展させ、国力を付け、国民が皆しあわせな生活を送ることはできないのではないでしょうか。
これを良い方に変えていくには、仏教をさかんにする必要があります。
仏教、特に法華経の思想の一大特徴は平等思想です。一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょう・しつうぶっしょう)。これも誰でも仏性を具えているという涅槃経の御経文です。これよりも、さらに法華経は平等を徹底化しています。仏性とは、言い換えれば無限の可能性です。フィリピンに限らず、人々に無限の可能性があることを教え、夢を実現していくことができると説くのが法華経のご信心です。
特定の人の利権を認め、その支配を後押しするような宗教は社会の発展を阻害します。
つい、先日、シンガポール在住のゆかさんという方から遠妙寺にメールを頂いたそうです。シンガポールにおられるフィリピンの方を教化されている最中であるとのこと。彼女が教化できたらフィリピンの家族も教化できるかもしれないとのことでした。ありがたいですね。
私は彼女のご主人が子どもの時、清風寺の西淀の薫化会を担当していましたから、古い知り合いのはず。記憶もありますよ。
前回は、久遠本仏と絶対神の間には区別があり、それを同一視することが謗法となると説きました。
次に、仏教といっても日蓮聖人門下である法印とは何かといえば、いくつか挙げられるでしょう。
その代表的なものをいくつかあげますと、第一に南無妙法蓮華経の御題目を御本尊とされたこと。これについては、日蓮聖人のお書きものの中では、観心本尊抄や本尊問答抄、法華取要抄などに解説を日蓮聖人がされています。
第二に、凡位の成仏。成仏は特別な人に限らず、ふつうの人が信心さえ起こして、本門八品所顕上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経とお唱えして、信心の位(名字即位・・みょうじそくい)に入れば可能であること。これは四信五品抄(ししんごほんしょう)に出ています。
また、第三には、折伏行(しゃくぶくぎょう)。その実践修行は、折伏行(しゃくぶくぎょう)で他の人にも正法のご信心を弘めることである、今の時代に人里離れた山の中で、一人静かに瞑想にふけり坐禅するようなことは摂受(しょうじゅ・・消極的修行)で、それではダメだといわれています。これは如説修行抄(にょせつしゅぎょうしょう)に出ています。
以上の三つの事柄が日蓮聖人門下の法印で、基準です。この基準の枠内に収まっているかどうかによって、真実に日蓮聖人の教えを継承しているか否かを判定できます。これから外れたら謗法となり、ただしく教えを受け継いでいるとは言えません。
そのほかの特徴として前記の三つと関連していますが、経典中心主義、現証(経力)中心主義、反権力志向、そして現実改革志向ということもあわせて挙げることができます。
最後の現実改革志向というのは、日蓮聖人ご出現以前の仏教者は現実の社会からかけ離れた環境で修行することをもっぱらとしていたのに対して、日蓮聖人は現実社会のあり方にも目を向けて、社会的弱者の救済に心を砕いておられたことをいいます。
日蓮聖人は
涅槃経(ねはんぎょう)に云く、「一切衆生の異(い)の苦を受くるは、悉く(ことごとく)これ如来一人(いちにん)の苦なり」等と云云。日蓮云く、「一切衆生の同一の苦は、悉くこれ日蓮一人の苦なり」と申すべし
と、おっしゃっています。異の苦とは、それぞれの個人が背負っている苦しみ。同一の苦とは、同時代に生きている人々が背負っている共通の苦しみ、また、共業(ぐうごう)というものです。
釈尊は、それぞれの人の内部的な苦しみを取り除くことを課題としておられたが、日蓮聖人はそれだけでなく、皆の共通の苦しみを取り除くことを使命とされるということです。
少し話が中心テーマからそれますが、いま、フィリピンではご信者が30人となりました。その中心となってご奉公されているテディーさん、ジャネットさん夫妻がいま日本に来ておられます。テディーさんのお話を聞きますと、フィリピンには少数の富裕層と圧倒的多数の一般国民とが生活していますが、その貧富の差は相当なものだといいます。すべての社会的システムは、依然としてわずかな富裕層を支えるために機能し、一般の人々は安い賃金で働いているとのことです。
このあり方を変えていかなくては、なかなかフィリピンを今以上に発展させ、国力を付け、国民が皆しあわせな生活を送ることはできないのではないでしょうか。
これを良い方に変えていくには、仏教をさかんにする必要があります。
仏教、特に法華経の思想の一大特徴は平等思想です。一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょう・しつうぶっしょう)。これも誰でも仏性を具えているという涅槃経の御経文です。これよりも、さらに法華経は平等を徹底化しています。仏性とは、言い換えれば無限の可能性です。フィリピンに限らず、人々に無限の可能性があることを教え、夢を実現していくことができると説くのが法華経のご信心です。
特定の人の利権を認め、その支配を後押しするような宗教は社会の発展を阻害します。
つい、先日、シンガポール在住のゆかさんという方から遠妙寺にメールを頂いたそうです。シンガポールにおられるフィリピンの方を教化されている最中であるとのこと。彼女が教化できたらフィリピンの家族も教化できるかもしれないとのことでした。ありがたいですね。
私は彼女のご主人が子どもの時、清風寺の西淀の薫化会を担当していましたから、古い知り合いのはず。記憶もありますよ。