狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

「生命倫理」について・・・(2)私の考えと聖書

2013-02-07 18:36:36 | 予防医療の危険性と生命倫理
 旧約聖書・エレミヤ書1章4~5節次のような主のことばが私にあった。『わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。』
 キリスト者である私の考えは、着床前診断、出生前診断、代理母出産、例外を除いた人工妊娠中絶いずれも間違いで行ってはならないと言う事です。人其々には「運命」が有り、障がいを持ってこの世に生まれる事は「運命」、子供が産めない事も「運命」です。「運命」万物の創造主である唯一の神様の考え・計画による人其々に与えられた「使命」であり、その神様からの命令に従わなくてはなりません。人間の考えでその「運命」を変えようとすることは間違いで、人間の科学によって「神の領域」である生命の操作をしようとする事は人間の傲慢さの表れであり、神様の命令に反抗して神様に背を向ける事になり「罪」になります。
 子供を授かる事が出来ない場合に、親の居ない子等の里親になる事も出来ます。代理母出産の場合で代理母と遺伝的繋がりの無い受精卵を移植する場合の内で、精子、又は卵子、或いは両方とも夫婦以外の第三者のものを使う事は、夫婦の内の片方とは血の繋がりが無い、或いは夫婦のどちらとも血の繋がりが無いと言う事であり、その代理出産に果たしてどこまで意味が有るのか疑問に思います。
 人は皆、生まれる時も死ぬ時も自分の意志・考えで行う訳では有りません自分が此の世に生まれたいと言う望みによって生まれて来た訳では有りません。また自分の能力で生まれて来た訳では有りません人は皆、創造主によって造られ、人其々の死期も神様が決めます人其々の命はそれを造った神様の所有するものである為に、自分の死期を自ら決める自殺は間違いです。つまり此の世で生きる事も、神様の為に生きる事が正しい事になります。人の為と書いて「偽り」、神様の為に行う事が本当の「義」となります。
 「自分」の能力では無く「神様」の能力で行う事、つまり「自己実現」では無く「神実現」である事が正しい在り方です。生命は「神様」の能力、「神実現」です。
 聖書は「神実現」する事が必要である事を教えていますが、創造主の神様の御心に適う事を行う様に、神様に従う様にと教えています「自己実現」では無く、「神実現」である様にと。例えば人間が物を作る場合は人間に役に立つ物を作りますが、創造主である神様も人間が神様に役に立つようにと人間を造られた訳であります。物がそれを作った人間に従わなければならない様に、人間も創造主・神様に従わなくてはなりません
 新約聖書・ヨハネの福音書9章2~3節弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
 本ブログ2012年12月4日付け「人権週間、全ての人が障がい者・・・曖昧な根拠・基準」でも記載しました様に、人間は皆完璧な者はおらず長所と短所を併せ持ち、その短所のあるレベルによって人間が勝手に健常者と障がい者を線を引いて区別しているだけで、その基準にしているレベルも根拠が無く曖昧であります。
 健常者障がい者の方を傍から見て不幸と決めつける事も間違いで、本人がどの様に感じているのかが大事であります。障がい者の方々の殆どは、自分を不幸であるとは思っていません。人其々、自分の幸せに対する基準や測り・物差しは違います。自分の基準に当てはめて他人を見て決めつける事は間違いです。
 又、マジョリティーの意見が正しい訳では無く、却ってマイノリティーの意見の方が正しい事の方が多く有ります多数派の世間一般的な見方や捉え方をする場合に「根拠」が伴っていない事が殆どで、世間の中に在っては「根拠」よりも他人の顔色や反応を基準にしているだけの様に思います。つまり「真実」よりも人に嫌われない様にしようとか、人に笑われない様にしようと言う事しか考えていません
 キリスト者(クリスチャン)は日本に在っては極めて少数派ですが、西欧各諸国においては多数派となっています。多数になるに比例して組織(教会)がより強固になり、組織(教会)の考えが強まって権力も強くなり、本来の根拠(聖書)から離れる傾向にある様に思います。組織(教会)は人の考えが入っている為に、純粋に根拠(聖書)のみでは無く様々な装飾や手垢が付いています。それ故、西欧諸国の教会はイエス・キリストの死と復活の後のパウロ等の使徒の活躍した頃の原始キリスト教からかけ離れて、派手で立派な教会を建てたり、権力や財産等の世の様々なものを所有したりしています。
 日本の仏教は俗に「葬式仏教」と言われていますが、戦後の人工妊娠中絶の増加を背景にして、中絶で死んだ胎児の霊を弔う水子供養の習慣が広まっていきました。檀家制度が破綻して経営が苦しくなった多くの寺院は、大手墓石業者と協力して水子供養を宣伝し始めた「ビジネス」です。因みに戒名・位牌は日本の仏教独自のもので、お金の掛け方で行く先が決まるとされています仏教の発祥インドでは墓を建てることが無く、お金を掛けずに火葬して川や山に遺灰を撒いています仏教の場合、開祖の釈迦(ブッダ)の教えが説いてある経典が仏教の中での全ての「根拠」となるはずですが、日本の仏教の場合、歴史上の風土や習慣・生活・葬送等に合わせて、独自に都合の良いように変えられて来た様で、其の「根拠」からかけ離れてしまっています
 一方、聖書には神様の御言葉が書かれています今日まで全く変化無く、一度も改ざんされずに全く同じものが発行され続けて来た、世界中でのベストセラーです。3500年前(B.C.1500年頃)から書かれ始め、A.D.100年頃までの約1600年間に渡って書き足されていきました。其の約1600年間、及び其の後の約1900年間、聖書其の物は全く変化せず、世間に妥協せず、時の権力・政治にも妥協せず、迫害にも屈せずに、「真実」をそのままにして今日まで受け継がれて来ましたジェネレーションギャップも無く、どの様な時代にも、どの様な世代にも、其の中に在る考え方や生き方の指針道徳、哲学等のあらゆるものの「根拠」となる神様からの御言葉が、其の時そのときに一致して受け入れられて来ました。また聖書には一貫性が有り、一つの教理的体系、一つの道徳的基準、一つの救いの計画、一つの歴史的筋書きをもって貫かれています。また様々な職業・階層の人達によって、同じ一つの意味合い完全な一冊の書物を成しています。よって聖書の御言葉それぞれに矛盾が全く無く意味合いが共通している為に、主を信じて従う事で迷いが無くなります


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