欺瞞的善人の悲哀

欺瞞は汚いので消します。カレーはポークです。 この世の「最良の精神たち」よ さあ共に闘おう!

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日の丸の旗のもとに

2015-09-27 15:54:33 | 日 本
大日本帝国

帝国(ていこく)とは、一般的には皇帝が支配する国家のことを指す。また、多数の民族を含む巨大な国家を指す場合もあり、この場合はかならずしも皇帝が支配する国を意味しない。 そして、帝国制なのか共和国制かよりもその「国家理念」が問われるべきであるとすればその体制はどちらでもよいことになるが、「大日本帝国」に関しては 世界で意見が分かれるところだろう。

軍国主義?侵略国家?日本は世界からそのように呼ばれ、非常に評判が悪いようです。私たちはその「殺人者たち」の子孫なのだろうか。 「武士の情け」などという仁義は単なる飾りで、大和民族はほんとうは下劣な民族なのだろうか。大日本帝国軍は、中国や朝鮮、東南アジア諸国を侵略し、南京では、無差別大虐殺を行ったそうである。


■民族抹殺統治  国定韓国高等学校歴史教科書より

わが民族は日帝の内鮮一体、日鮮同祖論、皇国臣民化のような荒唐無稽なスローガンのもとで、わが国の言葉と歴史を学ぶことができなかった。 また、皇国臣民の誓詞暗唱、宮城遥拝、神社参拝はもちろん、甚だしくは、われわれの姓名までも 日本式に変えるように強制した。 日帝はこれを拒否する人に対しては投獄、殺傷までも躊躇せず、このような政策に従わない宗教系統の学校は閉鎖された。


このような「蛮行」を 大日本帝国は 大東亜戦争(太平洋戦争)などにて行った故に、そこには十分な「謝罪と賠償」が求められるだろう。実際に、莫大な賠償と幾度もの謝罪を行っている。

2001年10月15日 - 小泉純一郎首相。「日本の植民地支配により韓国国民に多大な損害と苦痛を与えたことに心からの反省とおわびの気持ちを持った」(略)

しかし、他の侵略国家は、謝罪や賠償を行っていない。 たとえば G-8諸国(米英仏伊独加露)を初め、オランダ、スペイン、ポルトガル、ベルギーなど世界に数多くあるが、それについて謝罪し、補償金まで支払った国は、世界中で唯一「日本だけ」である。 香港は1999年にイギリスから中国に返還されたが、その際、あの「カツアゲを生業とする中国」でさえイギリスには金銭の要求していない。 つまり、『日本は国際的な慣例を知らなかったせいで、「努力して独立させてあげた」上に、なぜか賠償金まで支払った異常な国であり、本当に例外中の例外だ』と認識しなければならない。 戦争で植民地にすることは当時の法律で完全に合法だったので、実は払わないのが国際的な常識で、払う方が異常である。  このことから見ても、日本という国は本当に「馬鹿で親切な国」なのである。しかしでは何故 日本は、世界で、アジアで、嫌われているのだろうか?

『アジア』とは、 アフガニスタン アラブ首長国連邦 イエメン共和国 イスラエル イラク共和国 イラン インド インドネシア共和国 オマーン カタール カンボジア王国、 キプロス共和国 クウェート サウジアラビア王国 シリア シンガポール共和国 スリランカ民主社会主義共和国 タイ王国 大韓民国 朝鮮人民民主主義共和国(北朝鮮) 中華人民共和国 中華民国(台湾) トルコ共和国 日本 ネパール王国、 パキスタン バーレーン バングラデシュ人民共和国 東トルキスタン フィリピン共和国 ブータン王国 ブルネイ ベトナム社会主義共和国 マレーシア ミャンマー連邦 モルジブ共和国 モンゴル ヨルダン ラオス人民民主共和国 レバノン共和国

これら全ての国々のことであるとのこと。意外と多いと感じるのは、私たちの無知ゆえにだろう。 さてそれでは 「各国の日本の評価」を見て見よう。


このアンケートでは「日本が好き96%」と「どちらでもない4%」である。 つまり、「嫌い」は「0%」である。 つい先日(2005.07)の世界女子バレーボール大会で 日本代表が韓国やアメリカと対戦した時も、会場はタイなのに まるでホームのような雰囲気で試合が行われたことは記憶に新しい。 

タイでは日本を“アジアの母”に譬えている。

★ククリット・プラモード 元首相 「日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが生まれた子供はすくすくと育っている。 今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは一体誰のお陰であるのか。 それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあった為である。 12月8日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意された日である。更に8月15日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。我々はこの2つの日を忘れてはならない。」 (12月8日 「サイアム・ラット新聞」)

次にシンガポールをみてみよう。


シンガポールは華僑の多い国で、中国の影響も強い。 それゆえシンガポールの政府発言と中国政府の意見は“異様に似る”ことが多い。 にも関わらず最近の反日デモの後、バンドン会議の一環としてシンガポールのリー・クアンユー元首相は「今回のデモは中国当局が自己のパワーをどう使うかに関して未熟さと、不安定さを有していることを明示した」と批判し、間接的に日本を擁護した。 そして教科書には 日本がシンガポールを支配していたことが12ページに渡って記載されている国であるにも関わらず、このアンケートでは「94%」が日本を「好き」と答えている。 ・・・さて、日本はそんなに「良い国」なのだろうか。。。

★ゴー・チョクトン首相 「日本軍の占領は残酷なものであった。しかし日本軍の緒戦の勝利により欧米のアジア支配は粉砕され、アジア人は自分たちも欧米人に負けないという自信を持った。日本の敗戦後15年以内にアジアの植民地は全て解放された」(「諸君!」1993年7月号)

ちなみにサイパンや台湾などの南国では、天皇陛下に対してこんなことを言う人もいる。 「太平洋戦争がなかったならば、私は今でもあなたの臣下です」  同様に南国・パラオ共和国も台湾などと同様に親日傾向が強く、今も「日本人と一緒に戦った」ではなく「日本人として戦った」と言うのだという。

日本は第一次世界大戦後、国際連盟からパラオの委任統治を求められたため たくさんの移民を送り、産業、教育、文化の発展に大きな功績を残した。だが、第二次世界大戦後にこの地域を占領したアメリカが 日本文化の影響を徹底的に破壊した。 学校の校庭にあった二宮金次郎像も引きずり降ろされ、毎朝村人が集まって日本海軍岡田中将から「この美しいパラオを一日も早く自分たちの手で治めるようにせよ」と訓示を受けた思い出の場所『南洋神社』も壊された。

パラオ人は大いに悲しみ、そしてアメリカ統治下でも勤勉の精神を教えてくれた日本人を心の中で敬い、日本統治時代が最もよかったと懐かしみ、後に南洋神社を再建させている。

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日本は各国への技術提供や経済援助などの国際貢献を続けているため 民間レベルでは嫌われる理由はほとんどない。 では、各国の国政に携わる人や、専門家たちはどう考えているのだろうか。 まずはインドネシアからみてみよう。

★モハメッド・ナチール元首相 「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。 大東亜戦争(太平洋戦争)は、私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです」 「大東亜戦争というものは本来なら私達インドネシア人が、独立のために戦うべき戦争だったと思います。もしあの時、私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。 大東亜戦争はそういう戦いだったんです」

★ブン・トモ元情報相 「我々アジア・アフリカの有色民族はヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが全部失敗した。インドネシアの場合は、350年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。 我々は白人の弱体と醜態ぶりをみてアジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。 そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった。そして実は我々の力でやりたかった」

★サンパス元復員軍人省長官 「特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけで済むものではない」

当時、世界は白人のものだった。 アジアやアフリカの有色人種は数百年の戦いを経ても白人に勝てなかった。『アジア人』というだけでそれは「支配される側」に生まれたことを意味した。 その世界の構図を正面から戦って変えた国がこの小さな島国・日本だったのである。 彼らの祖父やその祖父もずっと勝てずに苦しみ続けた強敵を、颯爽と現われた同じアジアの日本軍が、彼らインドネシア人の目の前で討ち破ってみせた。 日本軍が歓迎されないわけがあろうか。 そして、インドネシアの独立宣言文を起草したスカルノ大統領、ハッタ副大統領は “独立を宣言をしたその日付”を1945年という西暦ではなく、「日本の協力なしには独立できなかった」という感謝の念を込めて 2605年という「皇紀」で記した。

次はマレーシアをみてみよう。

★ラジャー・ダト・ノンチック 元上院議員 「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。 しかも、マレーシアを占領した日本軍は日本の植民地としないで 将来のそれぞれの国の独立と発展の為に、それぞれの民族の 国語を普及させ青少年の教育を行ってくれたのです」

教育は、日本にとっては当たり前の行為だが、欧米の支配下に置かれた国は「鉛筆を買わされること」はあっても「自分たちで鉛筆を作る方法を教えてもらうこと」はなかった という。

「日本はインドネシア語の公用語を徹底して推進し、インドネシア国民としての連帯感を人々に植え付け、広域の大衆をインドネシアという国家の国民として組織した。とくに若者に民族意識を植え付け、革命の戦闘的情緒と雰囲気を盛り上げた。またPETA(ペタ)の革命における意義は大きく、これなくしてインドネシア革命はあり得なかった」 (ジョージ・カナヘレ『日本軍とインドネシア独立』)

★マハティール首相 「日本は、軍国主義が非生産的であることを理解し、その高い技術とエネルギーを、貧者も金持ちも同じように快適に暮らせる社会の建設に注いできた。質を落とすことなくコストを削減することに成功し、かつては贅沢品だったものを誰でも利用できるようにしたのは日本人である。 まさに魔法も使わずに、奇跡とも言える成果を創り出したのだ。(中略)東アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは日本である。 そして他の東アジア諸国はあえて挑戦し、自分たちも他の世界各国も驚くような成功を遂げた。東アジア人は、もはや劣等感に苛まれることはなくなった。 いまや日本の、そして自分たちの力を信じているし、日本が実際にそれを証明してみせた。もし日本なかりせば、世界は全く違う様相を呈していただろう。 (欧州・東アジア経済フォーラム 1992年10月14日)

ビルマ(ミャンマー)も日本を評価する国のひとつである。

★バーモウ初代首相 「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」 (バー・モウ博士著『ビルマの夜明け』より)

バーモウ初代首相は、戦争中は独立義勇軍で戦った。 その彼が、ビルマの独立宣言でなんと言ったか。

★同バーモウ首相 「約50年前、ビルマは3回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。 愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば死そのものを甘受して突進して来れり、これらの英雄はビルマの生存のため苦難を受け遂には斃れたり。 ビルマ人はアジアを統合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが、ついにこれを大日本帝国に発見せり。 ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり。(独立宣言書より)」

ビルマの首相が自ら全ビルマ国民に向けた独立宣言で このような日本への感謝を述べたのである。 ちなみにビルマでは3月27日の国軍記念日になると、全国のビルマ国軍を首都ヤンゴンに集結して盛大なパレードを繰り広げるのだが、そのパレードでは なんと日本の“軍艦マーチ”から演奏が始まる。 ビルマでは政府の高官からジャーナリストに至るまで口を揃えてこう言う。 「ミャンマー(ビルマ)が今日あるのは、日本のおかげです。 日本のおかげで、英国の圧制を逃れ、独立をすることができた。 我々は深く日本に感謝しているのです」と。

次にインドをみてみよう。


★ネルーインド初代首相 「日本の勝利は私を熱狂させた。 私は新しいニュースを見るために毎日 新聞を待ち焦がれた。どんなに感激した事か。どんなにたくさんのアジアの少年、少女、そして大人たちが、同じ感激を体験した事か。 ヨーロッパの強国ロシアはアジアの国、日本に負けた。だとしたら、アジアはヨーロッパに勝てるかもしれない」

当時の白人たちの軍は「敗れることが想像できないほど」強かった。 それを撃破する日本の姿がアジアの人々に勇気を与えたのだ。ちなみに激戦地・コヒマでは日本兵が撃破したイギリス軍の戦車を今も『勇気のシンボル』として大事に保存している。 そしてその地に咲く可憐な花にも「ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー(日本兵の花)」と日本の名が刻まれ、親しまれている。

では、フィリピンはどうだろうか。 日本では「フィリピンは反日」という間違った認識がある。

■神風特攻隊はフィリピンで英雄だった (井上和彦「PHOTO & REPORT 神風特攻隊はフィリピンで英雄だった」より)

その中の一人が続けた。「フィリピンにも“英雄”はたくさんいます。ですから私達も神風特攻隊という日本の“英雄”をたいへん尊敬しています……」 引率の男性教師は、「こうした歴史教育を通して、子供達に国を守ることの大切さを知って欲しいのです」と語る。 私は学生達にもう一度訊いた。「君達は、カミカゼのパイロットを尊敬しているのですね」 屈託のない笑顔で皆は答えた。 「もちろんです! だってあの人達はヒーローですもの」

ちなみにフランスの教科書には「日本がアジアを開放した」
と書かれている。 また、立場上、日本に同調しづらいはずの オランダ政府高官でさえもこう言っている。

★サンティン・アムステルダム市長(現内務大臣) 「本当に悪いのは侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。 日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現した。即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わった。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成した。日本の功績は偉大であり、血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。 自分を蔑むことを止め、その誇りを取り戻すべきであります」




パラオは1994年にアメリカから独立した時、日本の国旗である日章旗をモデルにした月章旗を作り、自国の国旗にした。 ちなみにパラオの国定教科書では全462ページのうち36ページが日本統治時代にあてられ、章には「日の丸の旗のもとに」というタイトルがつけられている。 日本の統治が終わった時にはパラオでも米国による反日教育が行われたが、年長者に「そんな話は無い」とあっさり否定され、浸透しなかった。 日本軍はパラオを死守するために文字通り死を覚悟して戦った。 日本は圧倒的に不利だった。アメリカに制海権・制空権を掌握されている上に、兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍という歴然たる戦力差。しかしそれでも「アメリカの上陸作戦史上最高の損害比率」を出させるほどに抵抗し、全く補給もなく73日間も守り通し、玉砕したのだ。 最期に『サクラ・サクラ』という電文だけを残して。

その戦いの甲斐あって最大激戦地・パラオ・ペリリュー島での民間人死傷者は「ゼロ」だった。 日本軍としては、「住民を戦火に巻き込んではならない」という配慮から、船舶の乏しい中、空襲を避けつつ「夜間を利用して全員をパラオ本島に退避」させた。これが日本の「サムライ精神」である。 戦争後に島に戻った島民たちは、放置されていた夥しい数の日本兵の亡骸を 泣きながら埋葬した。 そして当時を知るパラオの長老たちは、今でも日本をこう呼ぶという。


「内 地」


 と 。


******************************************

このように、世界、アジア各国で大日本帝国は評されている。そこには、欧米諸国と同様に植民地政策や残虐行為を行ったとしても、尚、「余りある功績」がある。  では何故、「反日運動やデモ」が頻発し、継続され、帝国軍人の英霊が眠る「靖国神社参拝」が咎められるのか。 それは、それによって「得」をする国家や民が存在するからである。 反日活動をすることによって、それが特定の国家や民にとって 何らかの利益となるが故に、そこに反日の「存在理由」がある。
反日活動は、「経済活動」である。  

大日本帝国と日本国を貶めようとしているのは どの国かどのような勢力か!
そこにはどのような精神と仕組みが働いているか! それは、水面上水面下で、外部から内部から、着々と侵攻している! そしてそれにより、大日本は、今まさに沈もうとしている!



遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。 「あそこでみんな死んでいったんだ……」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

大東亜戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。 日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。

やがて戦況は日本に不利となり、 いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は 代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。 「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!!!」

日本人は仲間だと思っていたのに……それは見せ掛けだったのか。
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。

船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人 見送りに来ない。 村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。 先頭では、あの隊長が笑顔で手を振っていた。

その瞬間、彼は悟ったという。 あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだ、と……。

真如苑 民主党 口蹄疫 運慶 GHQ 管直人 在日 尖閣諸島 鳩山 売国 蓮舫 仕分け 中国共産党 侵略 チベット ウイグル 尖閣諸島 テロ 管直人 真如苑
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パラオ共和国の神社に建設された碑(1994年建立)には、米軍提督の詩文とされる文字列が彫り込まれている。

「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ」
米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ


初出:2011-01-12 17:20:02

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若 き 血 潮

2015-08-03 23:13:31 | 人 類 





つくば発ニューウェイブポップバンドDENSHI JISION、佐野元春カバーをチャリティー配信 2011/08/02 11:11

つくば発のニューウェイブテクノポップバンド「DENSHI JISION(デンシジション)」が、佐野元春のカバー“Young Bloods”をチャリティーシングルとして配信形式でリリースした。

同バンドは、2008年に筑波大学の学生・大学院生によって結成。様々な個性のメンバーが1980年代エレクトロポップなどの音楽をルーツとして繋がっているというユニークな6人組だ。

結成当初から地元つくばを中心に活動していた同バンドだが、東日本大震災によってつくば在住のメンバー数名が被災。 事態の重大さを感じていた折に、ふと耳にして感銘を受けたのが 佐野元春によるアフリカ難民救済チャリティーソング“Young Bloods”だったという。なお、今回のカバーによる売上の一部は、震災孤児への支援金として寄付される。

また、同バンドは今回のチャリティー配信について「被災地の若い人やオリジナルを聴いて育った30~40代の方達が聴いて、この曲の持つパワーを受け取ってもらいたい。 そして、前を向いて進んで欲しいです」とコメントしている。

【Go URL】---> DENSHI JISIONオフィシャルサイト   
【Go URL】---> YouTubeで試聴
【Go URL】---> iTunes Store
【Go URL】---> mora
【Go URL】---> 着うた



YOUNG BLOODS に関して

僕たちDENSHI JISION は、80'Sのエレポップをルーツに音楽を作りながらも、VJがメンバーにいたりUSTREAMを放送したり、さまざまな個性のメンバーが音楽でつながっているチームです。 それは尊敬するYMOや電気グルーヴのような、メンバーそれぞれの個性がつながって独自の世界を作り出しているように。

3月11日14時46分に東日本を襲った大震災。僕たちのメンバーの何人かはつくばで被災しました。 2〜3日はライフラインも復旧せずに自分たちが企画したイベントも延期を余儀なくされました。そのときにいろいろなことを考えさせられました。

そんなときにふと聞いた1曲の楽曲が耳にとまりました。 佐野元春さんの「ヤングブラッズ」です。 85年にリリースされたこの曲は佐野さん自身初のトップ10ヒットです。そして、この曲の印税がアフリカ難民救済に寄付されたチャリティーソングでもあります。

「ヤングブラッズ」にはこんな歌詞が出てきます。 「冷たい夜にさようなら、一人きりの夜にさようなら」この歌詞に込められている前向きなメッセージは みんなが協力して復興を目指す今にピッタリだと思いました。 そして「つながること」がテーマである僕たち、DENSHI JISION にも。

奇しくも、今は国際青年年なのだそうです。 2010年8月からの1年間が1985年の(第1次)国際青年年の25周年記念として設定されました。 今回のテーマは「対話と相互理解」。 最近のニュースを見ていると「対話と相互理解」の必要をつくづく感じます。 「対話と相互理解」をしてみんなが「つながること」で復興ができるのではないかと、希望を込めてこの曲をカバーしました。

被災地の若い人や、オリジナルを聞いて育った30〜40代の方人たちに、聞いてこの曲の持つパワーを受け取ってもらいたい。 そして、前を向いて進んで欲しいです。     DENSHI JISION  吉田





我らの DENSHI JISION



佐野元春

「佐野元春」は、1980年デビュー、ライヴエイド(1985)に日本人代表として出演した、日本のロックミュージシャン・ギタリスト・作詞家・作曲家・音楽プロデューサー・ラジオDJ・詩人。



デビュー当初は、「英語のように聞こえる何を唄っているのか分からない歌詞」のためセールスが思わしくなかったが、最後のアルバムとなるかも知れなかったサードアルバム“SOMEDAY”(1982)により、初のセルフ・プロデュースを敢行。 オリコンアルバムチャートで4位を記録する。しかし、その後のツアーの最終公演である東京・中野サンプラザのステージ上で、突然 N.Y.C行きを宣言。 渡米した佐野は安アパートメントを借り、そこから残された日本のファンに向けて「NHKFM.サウンド・ストリート」を配信し続けた。 ここでは果敢にも、公園の「山羊」に「ヘイ!ハウアーユー?」とインタビューを敢行したが、残念ながら「無視」されている。 そのころ日本では、それまでのベスト盤“ノー・ダメージ”がオリコンで1位を記録。本人不在ながらも、日本国内ではいわゆる「佐野元春文体」を模した商品コピーなどの佐野元春ブームが起きる。 しかし佐野は、それまでの青写真のすべてを捨てて、現地のミュージシャンとともに新しいサウンドで新曲をレコーディング。 混乱と自己破壊、友の喪失、生への祝福、そして次代への連なりを、ラップスタイルのボーカルとヒップホップサウンド、エレクトリックとアコースティックの融合というアプローチで奏でられたアルバム“VISITORS(訪問者たち)”を完成させる。

1984年帰国。しかし冒頭の“コンプリケーション・シェイクダウン”を含む数曲でラップを取り入れたことで賛否両論が巻き起こった。 当時、レコード会社にデモテープを聞かせると、担当者は「無言」だったという。そのため、佐野は帰国当初、「失語症」に陥ったと、後に告白している。 これはメジャーレーベル系ミュージシャンとしては初の日本語によるラップであったが、“VISITORS”は、オリコンで初登場1位を記録。 そして佐野は、「このアルバムはツアーの完了をもって完成する」と宣言し、長期ライブツアーに出発、ファンの目の前で、異端の曲を演奏して廻った。











VISITORS TOUR '84~'85


ライヴエイドでは、アフリカの飢餓状況を映した映像とライブでの演奏シーンをミックスした“SYAME─君を汚したのは誰”が、歌詞の英語訳テロップと共に世界に発信された。 同年、「国際青年年」のテーマソングとして依頼され書き上げた“Young Bloods”のビデオクリップが、1月4日、早朝の代々木公園で撮影され、国内初のプロモーションビデオとして公開され、この曲の印税の一部は、アフリカ難民救済のチャリティーとして寄付された。これが、佐野のライブエイドへの回答だった。 1990年、渡辺美里とともに、TBS宇宙プロジェクト テーマソング“Home Planet ―地球こそ私の家”を唄う。 同年、ジョン・レノンの生誕50周年を記念したイベント『グリーニング・オブ・ザ・ワールド(G・O・W)』の趣旨に賛同、テーマソングを作成、東京ドームにおいてトップバッターとして、ビートルズのカバー“Revolution”を演奏した。

1995年、阪神・淡路大震災被災者チャリティ・コンサートに出演。“君を連れて行く”を演奏。 同年、国内初のアーティスト・公式サイト「Moto's Web Server」を開設。 2001年、坂本龍一の呼びかけの元、UA(ウーア)ら世界中のミュージシャンとともに地雷廃絶を訴えるキャンペーンに参加し、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」に出演。 坂本龍一氏による地雷除去のためのチャリティーソング“ZERO LANDMINE”の制作にも参加する。 また、「チベット自由と人権の集い」にも、坂本龍一とともに名を連ねる。 アースコンシャス・アクト・2003 では、忌野清志郎と“明日なき世界”を演奏。 清志郎は“憧れの北朝鮮”を唄ったが、ラジオ放送ではその途中からボリュームダウンされ、そこに女性アナウンサーの声が被せられた。




YouTube:トランジスタ・ラジオ


佐野は、身近な人々の魂が社会の中でスポイルされることも、9.11のようなテロ事件も同一に感じると言う。 佐野にとって、「渡米した時の初めての友達がドラッグで死んだ」ことも、「人の欲望が生み出す社会の歪み」も、「ウイグルやチベットで、我ら同胞が幾度もの原爆実験により人体実験され、殺害よりも酷い侵略を受けている事実」も、同じ地平線上に見えているのだろう。



震災復興

言うまでもなく、震災復興のキーは日本政府の対応である。 もちろん名も無き衆生たちが貧者の一灯を持って集まるその力も積み重ねられ助けと成るが、問題は日本政府の力がそこに注がれるかどうかにある。 この震災において、世界中の「最良の精神たち」が注目し、注力を宣言した。 そこに寄せられた支援に対しては、語る言葉も無い。しかし肝心の日本政府はどうか。 日本を米国の影響から独立させ 極東の、日の出ずる国として復活させることを目的とする自民党は腰砕け。 そして、与党・民主党は、バラマキ政策で国民を欺き「この日本から再び日が昇らないように」と画策する。 与党がそのように画策している、現在の日本である。 そして彼らは被災地を明確に見殺しにした。 そして呆けた日本人はそれに気付かずに、このまま日本は失われようとしている。 共産主義と中韓朝の餌食になろうとしている現在の日本。 その裏工作は、戦後から始まっていた。 中韓朝の「特亜三国」の侵略を跳ね除け、大和の魂を呼び醒ますことが 即ち復興に繋がるというこの簡明な理屈を、国民はまず理解しなければならない。 そして視点を換えれば 国家問題などはどうでも良い。国境は無い。 大事なのは、国家や民族を越えた幾つもの精神たちが、『悪を悪として、善を善として認識し、それにどう対処するか』である。 我々は、『偽りに沈むこの世界』で『鋼のようなWISDOM』を持ち 永遠に『FREEDOM』を追い続けなければならない。



必聴!30周年アニバーサリーライブ東京ファイナルがNHK BSで放送決定

今年デビュー30周年を迎えた佐野元春が1年がかりで取り組んできたアニバーサリー・ツアーの最終公演を送る。 30年の集大成と呼べるファイナル・ライブは、当初3月12日に予定していたが、今回の東日本大震災により公演が中止。この日、佐野は自身のホームページで震災を受けた散文詩「それを希望と名づけよう」を発表した。そして、6月19日ようやく記念ライブの公演が決定。 番組では、舞台裏のドキュメントやヒストリー映像を織り交ぜ、常に革新的な音楽の在り方にチャレンジしてきたシンガー・ソングライター・佐野元春の名曲の数々をたっぷり送ると共に、今の思いを描いていく。

■番組名 :「佐野元春30周年アニバーサリー・ライブ・ファイナル(仮)」
■放送局 :NHK BSプレミアム
■放送日時:8月24日(水)22:00~23:30






仲良しの爆笑問題と



YouTube:スカパラのロケットマン・冷牟田竜之がステージで暴れまくる International Hobo King Tour
しかし、1996年、タイでのツアー中、ヒヤムタはバイク事故で瀕死の重傷、それでもヒヤムタは進む



YouTube:佐野元春 & チーム生殺し-FREEDOM



SMAP×SMAP



YouTube:Young Bloods by スガシカオ



YouTube:Young Bloods at 1985

「Notice; たとえ近くにいる人にとがめられてもボリュームはMAXにして聴こう。
そしておごそかなYoung Blood
(若き血潮)をたぎらせて、この曲を一緒に歌おう!」


魂は継続する

東日本大震災 KARA最新情報 口蹄疫 都市伝説 sengoku38 GHQ 管直人 在日 斎藤佑樹 ルーピー 鳩山 蓮舫 仕分け 中国共産党 侵略 チベット 尖閣義士・sengoku38 ウイグル 民主党 口蹄疫 虐殺 尖閣諸島 テロ 管直人 AKB48 千葉景子 福島原発 人災 韓国 超新星 アグネス・チャン

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初出:2011-08-11 00:54:03

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嵌められた大日本帝国 日中戦争の真実 南京大虐殺

2015-07-17 21:05:46 | 中国共産党
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史上最悪の内戦国家中国
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大東亜戦争の緒戦となった日中戦争(1937-1945)当時の中国はひどい混迷と分裂の状態にあり、内乱と騒乱にあけくれる史上最悪の内戦国家であった。 各軍閥は血で血を争う抗争を続け、その犠牲となっているのは一般民衆だった。民間の犠牲者は、ときに数百万人、また数千万人にも達しており、そのうえ、頻繁に起こる飢饉により、百万人単位の民衆が餓死するといった事態も何度も起きていた。そしてその度に、中国人同士による「共食い」が発生している。 「日が暮れる前に、街という街には通行人の姿は見られなくなった」-資治通鑑 当時、中国の市場では「人肉」が売られていた。人肉は獣肉よりも「手軽に」入手できたため安値であり、男性の肉は女性の肉よりも硬いために最も価値が低かったという。 彼らは、生きる術として人を狩りその肉を喰った。そうした、生きるだけが目的である「最大不幸社会」の中、人々の中に「他人が早く死ぬことを望む性格」や、「人の弱みを見ればとことんつけこむ民族性」などが形成されていった。

西欧列強は、当時次々とアジア諸国に手を伸ばし、「植民地化」を進めていた。「主人は白人で、黄色人種は召使いとなる」という「白人至上主義」がアジアを覆っていた。 1839年には、英国が大量のアヘン(麻薬)を清国に売りつけようとしたことが発端となり、それを清国が拒むと、圧倒的な軍事力をもって清国を叩いた(阿片戦争 1840-1842)。 一方、ソ連も、アジアに対し膨張主義をとっていた。共産主義革命を経たソ連は、さらに「世界革命」を目指し、全世界を「赤化」(共産主義化)しようと、「南下政策」すなわち侵略を続けていた。 この混乱する中国に「西欧列強またはソ連」の勢力が居座ってしまえば、それは日本の危機に繋がることから、日本は、中国が外国の勢力に侵されることのない近代化された強力な国家となり、やがて日本と共に西欧の植民地主義やソ連の侵略に対抗していく戦略をとった。

日本は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、清国(中国)からの留学生を毎年受け入れた。 その中国人留学生の数は、ピーク時の1906年には、2-3万人にものぼった。 後に中国に、親日また反共(反共産主義)の南京国民政府を樹立した汪兆銘(おう ちょうめい、1883-1944)も、法政大学で学んだ人物である。日本は彼らを進んで受け入れ、中国の未来のために官民をあげて支援していった。 日本は、それが「資源獲得と安全保障のため」というだけでなく、中国と東アジア全体の繁栄のために不可欠と考えた。 それが中国社会に与えた文明開化の衝撃は、かつて日本が遣隋使や遣唐使を通して文明開化を経験したときに匹敵するものだった。 「人民」「共和国」「社会」「主義」「改革」「開放」「革命」「進歩」「民主」「思想」など、現代中国語にある外来語のうち約36%は、元々日本語のものである。



中国人の子供や大人と共に正月の万歳をする日本兵たち(1938) すでに日中戦争は始まっていた



中国人の子供と日本兵(1938)

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清朝の滅亡と中華民国の誕生 大東亜共栄圍構想の頓挫
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清朝の終わりに中国で革命が起こり、南京に「中華民国」臨時政府が樹立した(1911)。臨時大総統に革命家の孫文(そんぶん)が就任する。 しかし、それが全土を統治していたわけではなく、実際は他に幾つもの自称「政府」が乱立していた。そしてその「政府」たちは、互いに他を「偽政府」と罵り合い、内戦を繰り返していた。 孫文は「日本と連携して近代的な独立国家の中国をつくろうとした」が、清朝の軍人、袁世凱(えんせいがい)の陰謀により、新政府は乗っ取られる。 中国の歴史は、李登輝・台湾元総統の言葉を借りれば、常に「騙す者と、騙される者」の歴史である。中国『六韜』(ろくとう)と呼ばれる歴史書が有名で、これは一言でいえば、「いかにして人を騙すか」ということが趣旨になっている。

袁世凱は、崩壊寸前の清朝から孫文を討つために遣わされて来たが、こともなげに清朝を裏切り、新政府の乗っ取りを謀った。新政府の弱体さに悩んでいた孫文は、やむなく袁世凱に大総統の地位を譲ってしまった(1912)。 かつて日本の明治維新の推進者たちは、私利私欲では決して動かず、大局を観て、国家の未来だけを思っていた。しかし中国では「利害次第でどうにでも動く人々」が大勢を占めていた。 あの関東軍の石原莞爾も、孫文の中華民国政府が誕生し心から喜んだ一人だったが、孫文の袁世凱への政権委譲を聞いて落胆し、「漢民族に近代国家を建設するのは不可能だ」と語った。この時、中国での維新を目指し「中国人による中国人のための近代的中国」をつくろうとしてきた日本の「大東亜共栄圍構想」は、実質的に「頓挫」した。こうして、近代中国の独裁政権による歴史が開始された。

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反日運動の発生と継続
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袁世凱は、中国の伝統的手法「夷(い)をもって夷を制す」(敵勢力同士を対立させ戦わせて力をそぎ、自己の延命をはかること)を実践し、西欧列強と日本を対立させ、さらに嘘とデマゴギーにより反日運動を展開する。 さらにそこには「中華思想」(中国は世界の中心であり最高であるという根拠無き独善的思想)があり、西洋人に対するテロや、焼き討ち、虐殺といった事件が多数起こされた。 しかし、中国人のそうした排外運動は、やがて西洋人よりも「とくに日本人に対して」向けられるようになる。西洋が排外運動を強圧的に封じ込めたのに対し、日本はそれをしなかったからである。 台湾の歴史家 黄文雄氏は「自分の敵わない相手とみるや、とことん従順になるのが中国人の特性である」と語っている。 1926年の「万県事件」では、反英運動が広まるなかイギリスの商船が中国側に拿捕されたが、その時イギリスは、砲艦二隻を派遣し、砲撃の末、町を徹底的に破壊した。 これにより反英運動は消滅した。

日本の中国での行動は、暴虐な西洋諸国に比べるとあまりに誠実だった。 西欧列強の軍隊が占領した地域では「白人至上主義」により、住民への略奪、暴行、殺人が繰り返されていたが、日本軍の占領地域では、ほぼ完璧なまでに治安が維持され、住民の救済も周到に行なわれていた。日本には、「弱きを助け、強きをくじく」という伝統的美徳があるが、中国人にはこれが理解できず「単にそこに弱味があるから」と解釈する。 中国の文豪・魯迅(1881-1936)も、「中国人は、相手が弱いとみるや、その弱みにつけこむ民族だ」と嘆いている。 中国にとって米国は昔も今も大きな敵であるが、米国は日本のように「理由も無く謝り引き下がらない」ので、中国で反米運動は燃え上がらない。 そして反日運動を利用して「国内の不満を外に向け」中国政府への不満のガス抜きをする。

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中国共産党の台頭
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さて、孫文の作った「中国国民党」は、孫文亡き後、蒋介石(しょうかいせき)が継いだが、国民党もひどい内戦を繰り返し、分裂していく。しかしそこから分かれた汪兆銘(おうちょうめい)が、中国の未来を考え、1940年親日政権(南京政府)を樹立した。 汪兆銘は、当初は反日家だったが、国民党内では蒋介石より人望があり、孫文の「三民主義」を継承し、日本と中国の協力により東アジアに平和と安定と繁栄を築けると信じていた。 日中戦争は、大東亜戦争(太平洋戦争)終結までの8年間と言われているが、実際には日中の戦闘は1年半あまりで終結し、日本軍はそれ以上進攻せず、占領地域でのインフラ建設や、経済建設に集中した。 その支配地域では、経済、財政、物価、治安が安定し、鉄道も作られ、民衆の生活は他と比べると天国と地獄ほどの差があった。  蒋介石は当初、日本と戦う気は無かったが、毛沢東率いる「中国共産党」の策略に嵌った。 蒋介石は、「張学良」の裏切りにより、西安にて潜んでいた際 中共兵に捕らえられ捕虜となってしまう(西安事件・1936)。そこに、ソ連のモスクワにある「コミンテルン」(国際共産主義運動)本部から、「蒋介石を殺さず日本軍と戦わせよ」との指令が下された。 毛沢東は蒋介石に「命を助けてやるから、お前は日本軍と戦え」と告げ、いわゆる「国共合作」が実現した。 また、ソ連政府からも、直接、蒋介石へ要請があった。この当時、蒋介石の息子の蒋経国がモスクワに留学中だったので、蒋介石としては息子がソ連の人質に取られているようなものだった。昭和12(1937)、国民政府とソ連との間で「中ソ不可侵条約」が締結され、国民党政府はソ連から大量の武器援助を受けることになった。

蒋介石が、敵を共産軍から日本軍に変更したことは、彼の人生において最大の過ちといっていいだろう。 なぜならば、そのために彼は後に共産軍に負け、中国大陸から逃げ出して、泣きながら台湾に渡らねばならないはめになったからである。 また、これは単に彼の過ちだったというだけでなく、中国の歴史にとって極めて不幸なことだった。「国共合作」といっても実際は共産軍はほとんど何もせず、日本軍と戦ったのは(米国に手引きされた)蒋介石だけだった。 国民党軍が日本と戦っている間に、中共軍は力を回復し、やがて日本が中国大陸から去った後に国民党軍を打ち負かすことになる。 その結果、中国は近代的国家になるどころか、結局、独裁的な共産国家となってしまった。



道端に打ち倒されていた孫文の銅像に中華民国旗をかける日本兵。日本の文化には破壊的行為はそぐわない。


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盧溝橋事件/通州事件から日中戦争へ
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当時、日本軍は中国の北京近郊や満州に駐留していた。こうした駐兵は、平時においてはすべて国際条約に基づいた合法的なものであって「北京議定書」という法的根拠に基づいていた。当時の中国は、外国の平和維持軍の存在なしには治安を守れなかった。 ここで毛沢東の共産軍は、盧溝橋(ろこうきょう・北京市南西郊外)の北で夜間演習の休憩時間中の日本軍に、国民党軍第29軍(宋哲元軍長)の駐屯地の方角から数発の銃弾を撃ち込んだ(事件の首謀者・劉少奇自身が自分の手柄話として語っている)。 しかし当時、日本は中国との紛争を避ける方針だった故、それに応戦しなかったが、翌朝、再三にわたる銃撃を受けたため、ようやく付近にいる「国民党軍」を攻撃した。 これが、「盧溝橋事件」(1937)と呼ばれる「日中戦争」すなわち蒋介石の軍と日本軍の最初の交戦である。しかし、この事件は現地の日本軍も国民党軍にも腑に落ちない事件であって、「共産党軍が仕掛けたワナ」だということが分かり、数日後には「現地停戦」が成立。これで収まってしまえば共産党軍が意図している国民党軍と日本軍の戦争拡大には繋がらないので、中共軍は、現地の停戦協定が成立しそうになると、各地で日本人に対するテロ虐殺を繰り返し、挑発した。米国の新聞記者、ウォルター・リップマンも、「日本は激しい挑発に直面しながら、通常の国際的基準からすればきわめて忍耐強かった」と記述している。当時のイギリス陸軍の元師も、「彼ら(日本)はひどい挑発を受けてきた。……彼らが満州で地歩を固めれば、それは共産主義の侵略に対する真の防壁となる」と述べた。 そして日中全面戦争突入の決定的な原因となった事件は「通州事件」である。 中共軍に対して日本は忍耐の限りを尽くし、1938年から1941年の間に、中国側に有利な条件で12回もの和平提案を行なっている。 しかしやがて日本は中共軍の罠に嵌り、蒋介石の国民党軍と全面的戦争状態に入っていく。

北京の東にある通州というところで起きたこの「通州事件」は、今ではほとんど語られない。学校の教科書には全く出て来ず、多くの歴史書や年表からも消されているため、事件の名前すら知らない人が殆どかもしれない。 この事件は、昭和12年(1937)7月29日に起こった、「中国人の保安隊」による大規模な日本人虐殺事件である。通州の日本軍守備隊は全滅、日本人居留民(多数の朝鮮人も含む)の約260名は、婦女子に至るまで、およそ人間とは思えないような方法で惨殺された。 戦後の「東京裁判」で、弁護団は通州事件についての外務省の公式声明を証拠として提出しようとしたが、しかしウェッブ裁判長によって、その申し出は「却下」された。何故なら、この事件にふれてしまうと日中戦争は日本だけが悪いと言えなくなってしまうという判断があったからだと思われる。ただし、通州事件の目撃者による口述書だけは受理された。あまりに残虐な内容だが、その一部を引用しよう。 「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全員強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、7,8名の女が全員裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部にほうきを押しこんである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。 東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家6名数珠つなぎにして引き回した形跡歴然たる死体が浮かんでおり、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、叫び、各戸ごとに捜索すると、鼻に牛のごとく針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこのちり箱の中やら塀の陰から出てきた」 中国の保安隊は、日本人居留民を通州城内に集め、城門を閉じ、逃げられないようにして一斉に殺戮行為を開始したとされる。決して偶発的な出来事というわけではなく、明らかに事前準備と計画をともなった組織的な行為だった。この虐殺は、当然ながら現地の日本軍兵士を激昂させ、東京日日新聞は1937年7月31日付号外で「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐」と事件を報道し、国民の中国に対する怒りは頂点に達した。 「盧溝橋事件」は純粋に軍どうしの衝突であり、それは現地で解決がはかられたが、この「通州事件」は明らかな「国際法違反」であり、その殺し方はまさに鬼畜の仕業と言える。この事件を他に置いて日中戦争を語ることはできない。

やがて、国民党軍はどんどん弱体化し、首都南京が陥落。首都を重慶に移し、そこに日本軍が爆撃を行うと、それが「中国に権益を持つ欧米」の反感を買い、日本への「経済制裁」へと繋がった。一方、中共軍はどんどん力を回復し、日本軍の後方に広がることに成功した。 やがて1945年、日本がポツダム宣言を受諾し連合国に降伏すると、日本は中国大陸から引き上げていく。しかしその直後、共産軍と国民党軍の内戦が再び勃発し、共産軍はまたたく間に国民党軍を破り、全土を制覇する。こうして共産主義の「中華欺瞞共和国」が誕生した(1949)。

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中国民衆を虫けらのように大虐殺した中国軍
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中国軍と日本軍の間には、大きな質的差異があった。それは、中国軍は同胞である中国民衆を行く先々で強奪し、また大虐殺したのに対し、日本軍は行く先々で彼らを救済しようとした。 中国では伝統的に、「民衆とは戦乱で虫けらのように殺される存在」であり、少なくとも権力者から愛護を受ける対象とはなっていなかった。梁啓超(りょう けいちょう)は、中国の民衆を「戮民」(りくみん 殺戮される民)と呼んでいる。 共産軍は、民衆から「共匪」(きょうひ)すなわち共産主義の匪賊(盗賊)と呼ばれていた。 彼らが軍隊に入ったのは、占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからであり、中国の司令官は、ある土地を占領すると、最低一週間は兵士たちの好きなように略奪や強姦をさせた。また、そうしないと司令官が殺されてしまう状況があった。 また、中国兵は、負傷すると置き去りにされた。ある戦場で、中国兵の一団が塹壕(ざんごう)の中で戦死していた。それを発見した日本兵たちは、思わず涙を流したと言われる。彼らの足には、逃亡防止のための鉄の鎖がつけられていたからだ。 しかしこれらも至当な政策だということができるだろう。 中国では人民は不足しないからである。そしてこれらの記録にはその証拠は少ない。であれば、中国の嘘プロパガンダは有効なはずである。 「南京大虐殺」もまた、そのようにして、戦後創作されたものだ。



「中国無名戦士の墓」と書いた墓標の前で、慰霊祭を行なう日本兵(1938)。
日本軍は戦闘が終わると敵味方の区別なく、戦闘地にお墓を作ってきた。 このような文化は中国には無い。

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南京大虐殺
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南京大虐殺とは、日中戦争において「日本人が中国人を30万人虐殺した」という捏造事件である。 日本軍は、都市に近付く時には必ず自由都市(オープン・シティ)宣言をした。これは、「降伏するなら都市を破壊することもせず住民の安全を保証する」というもの。「歴史ある都市を戦場にし破壊してはならない」との発想である。 これに対して中国の場合は、退却のたびに道路や工場、橋、潅漑施設、その他の施設を次々に破壊する「焦土作戦」を採った。それによって中国経済は破壊され、農業も工業も壊滅的被害を受け、人民は苦しむばかりとなった。 とくに悲惨だったのは、民衆の大半を占める農民たちだった。 一方、その後にやって来た日本軍は、中国の住民の救済、治安維持、戦災復興などに取り組んだので、それまで軍隊とは匪賊にすぎないと思っていた中国民衆は驚き、日本軍を熱烈に歓迎した。統率がとれ、略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というものを、彼らは生まれて初めて見た。 これこそは、「人民解放軍」と呼ぶことができるだろう。



日本兵と遊ぶ中国人児童ら(1937)

日本政府は1938年に中国での「農業復興計画」を発表し、実行している。それは日本・満州・支那(中国)の三国が相携えて、互助関係を築くことを目的としたものだった。 絶望視されていた中国の製糸業を復興させたのも、日本の投資によるものである。 1945年までの日本の対中国投資の累計は、約47億円にも達していたとされる(当時の日本の国家予算は約20億円)。 当時を知る中国人には当然親日家は多く、いわゆる中国残留孤児は彼らによって保護されたと思われる。

「南京学会」の調査によれば、日本が南京を占領したあと避難していた市民たちが戻り、1ヶ月後には人口が25万人になっている。仮に大虐殺が行なわれたとすれば、その都市に住民が戻ってくるわけはないと考えることが出来る。 東中野修道著『南京事件「証拠写真」を検証する』では、3万余枚の写真を3年あまりかけて、撮影者、撮影場所と時期、キャプション、出所・提供者など写真の特性を洗い出し分析し、「証拠写真」とされる143枚の写真に通用するものは1枚もないことを明らかにした。 南京で、日本軍兵士による犯罪がまったくなかったわけではないだろう。その中国人の中には劉啓雄(りゅう・けいゆう)少将のように、南京戦で日本軍の捕虜になりながら、のちに汪兆銘の親日政府において和平救国軍軍長になった人物もいた。 南京攻略の司令官だった松井石根大将は、南京攻略戦の最中、焼け跡から赤子の泣き声を聞き、秘書の岡田尚に捜して来るよう命じた。彼は松井の一字をとって「松子」と命名し、南京の入城時には、岡田秘書がこの赤子を背負って入城した。

しかしながら、ここに真実を示すNHKの資料がある。 証言記録 昭和の戦争 前編「1937-1944 熱狂と破局」(BS103 2012/08/01(水)15:00-17:58 00:16-) 元陸軍第9師団 軍曹 鍋島作二さん:老人と子供以外の男性はすべて逮捕し、その中から中国兵を選別することだった・・・南京城内に10万か20万か敵がおり、全部軍服を脱いで住宅街などに逃げ込んだ時に、そのままにするには・・・それを逮捕して、これが正規軍人、これが非戦闘員、分けられると思いますか・・・揚子江の河原で、敗残兵を選り分けるため連行せよと命じられ、取り調べるといっても、言葉も通じないし・・・その時に、何かのきっかけで捕虜が全員川へ飛び込んだ その時に、一部で、機関銃か軽機関銃で射撃した・・




南京城内には、無数の軍服が脱ぎ捨てられていた。上海・南京戦で日本が最も悩まされたのは、支那の「便衣兵」(ベンイヘイ)である。便衣とは、民間人の平服(普段着)のこと。 彼らは戦況不利と見るや、軍服を平服に着替えて一般市民を装い、武器を持って市中に潜伏し、隙を見て、奇襲・破壊工作をする。 このゲリラ部隊が、「便衣兵」と呼ばれ、日本軍は便衣兵を攻撃したので、民間人の姿をした人を撃ったという事実はあったことになるが、それは一般市民ではない。軍人を何人殺しても「虐殺」とはならない。 指揮官が相手の指揮官に正式に降伏を申し入れれば、捕虜として扱われる場合はあるが、軍司令官は既に逃亡していた。これが、南京事件の本質である。

日本軍は、大東亜戦争時アジア諸国に迷惑も掛けたが、日本の戦いが、「欧米による支配からの解放」のきっかけとなった見方もあるので感謝されている。 元南海支隊の西村幸吉さんによれば、「対オーストラリア戦」にて、先方の小隊長が狙撃され亡くなり、その遺骸を西村さんが引っ張りに出たとき、彼らオーストラリア兵は、一切、西村さんに対して、撃ってこなかったという。そして西村さんが自陣に戻ったそのあと、猛然と撃ち掛けてきたとのこと。これが、「オーストラリアの武士道精神」である。 今更ではあるが、中国、朝鮮人には、そのような精神は無い。 福沢諭吉は、今から100年以上も前に『脱亜論』にて、「中国、朝鮮の狡猾さ」を看破し、「彼らとの絶交」を宣言している。

※参考1:【南京大虐殺は真実ではないと思う理由】:月刊「WiLL」2011年4月号 アナウンサー鈴木史朗さん:歴史を学べば学ぶほど、また中国での日々を思い出せば思い出すほど、「大虐殺なんてあり得ない」という確信を得るに至ったのです。
※参考2:【南京大虐殺というデタラメ】:当時の日本軍の機関銃は、米国製の1秒間に何発という高性能機関銃ではなく。断続的に撃つのが精いっぱい。1分間に打てる弾はおおむね40発。これで30万人殺すには、いったい何日かかるのか。
※参考3:【国際委員会の日本軍犯罪統計】:当時外交官補佐の福田篤泰(ふくだとくやす)氏談:「役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。彼らをつれて強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。とにかく、こんな訴えが、連日山のように来た。

1997年、中国系アメリカ人のアイリス・チャンが、『ザ・レイプ・オブ・南京』を出版した。 米国では「ワシントン・ポスト」が大きく本書を取り上げ、チャンの主張を詳細に紹介し、「ニューヨーク・タイムズ」でも絶賛され、同紙のベストセラーリストに10週間掲載された。 しかしその後その内容やデータの誤りが多くの批判書によって明らかになり、岩波書店は全面謝罪文を掲載するまでに至った。 米国は、日本国民30万人を無差別殺戮したが、これは当時の国際法にも違反する残虐行為であり、彼らはそれを正当化するために日本軍の蛮行を探したが、不法裁判として悪名高い「東京裁判」でも、南京大虐殺は根拠無く主張されたに過ぎず、蒋介石にさえも「そんなものは無かった」と言わせ、著者・アイリス・チャンは、その死の前に「日本人に謝罪しなければならない。私の本は絶版にしてほしい」と語り、2004年の暮れにピストル自殺している。中国共産党のプロパガンダの手口を知る意味では価値がある書と言えるだろう。 南京が日本軍によって陥落した時、日本軍兵士日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど欧米の多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入った。その総勢は100人以上。しかし、その中の「誰一人として」大虐殺を報じていない。

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ローマ法王も日本の行動を支持していた
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そもそも、中共の策略に嵌められたかたちで中国内部に足を踏み入れた日本軍だったが、介入した以上、多大な尽力をなした。 日本は中国の「領土保全」を掲げ、中国人による中国人のための安定した国家がそこに誕生し、アジアを共産主義から守る防波堤になること、そこに一大経済圏が生まれることを目指した。 日中戦争が始まった年である1937.10に、当時のローマ法王、平和主義者として知られるピオ11世(在位1922-39)は、この日本の行動に理解を示し、全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけた。 法王は、「日本の行動は侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしている。日本は共産主義を排除するために戦っている。独裁共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」との声明を出している。 この声明は当時の日本でも報道された(「東京朝日新聞」夕刊、昭和12年10月16-17日)。 しかし、そのピオ11世も1939年には世を去ってしまい、欧米の反日主義や日米戦争勃発を防ぐまでには至らなかった。



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愚かな日本の愚かな謝罪
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日本の戦争謝罪発言一覧  このようなことで、中国さんにもちろん謝罪は必要無い。逆に我々が謝罪されるべき立場であるが、日本はこれまで愚かにも沢山謝罪してしまっている。 奴らは、「人の弱みを見ればとことんつけこむ民族性」なので、そういうのはちゃんと叱ってぶん殴って、その根性を叩き直してあげることこそが思い遣りというものだろう。日本は、その中国に対する「教育」を怠っているのである。 日本社会党(現社民党)は、共産主義万歳の日本の政党であるが、1964年に、佐々木更三委員長を団長とする日本社会党訪中団が毛沢東と会談し「日本軍国主義の中国侵略」について「謝罪」した。 その時毛沢東は言った。「何も申し訳なく思うことはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれた。皇軍(日本軍)なしには、我々が権力を奪取することは不可能だった」 そう言って「日本に感謝」した。おっしゃるとおりである。笑。

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南京大虐殺の源流
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中国では、歴代王朝が交替するたびに京師(都)での「屠城」(兵士による城民の大虐殺)と「市民による共食い」が繰り返されてきた。これは、「正史」や「資治通鑑」などの記録に多く残っている。南京城では虐殺のたびに共食いが発生した。 西安、南京、北京、揚州など、政治、文化、経済の中心地であった都では、人口が増えすぎたことにより共食いが起こった。戦乱時になれば、多くの民衆は軍隊に捕らえられ、敗残兵も数千単位で喰われた。軍は人肉を加工し、最前線に輸送していた。 「耕作をする人が居なくなり、加えて飢饉の酷い年であったので、ほとんどの人間は人肉を喰らい年を越した。その混乱は空前のものであった」-「唐書」昭宋本記 中国では大量の人骨が出土した場合「万人坑」(まんにんこう)として騒がれる。そしてそれがそのまま「日本軍虐殺の根拠」とされ「便利な反日のプロパガンダ」となる。 このような中華の欺瞞に、いかに対処するのか、それが、我々、大日本帝国人の末裔に問われている。

初出:2011-01-20 16:20:37
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サンマリノ共和国の「積極的平和主義」

2014-09-14 05:13:39 | 人 類 
サンマリノ共和国の歴史 Wikipedia

サンマリノ共和国(さんまりのきょうわこく)、通称サンマリノは、イタリア半島の中部に位置する共和制国家。共和国とは、君主(王族)が存在しない国家であり、君主が存在する国家(王国、帝国など)を君主国という。 周囲は全てイタリアで、イタリアから入国審査なしで入れる、世界で5番目に小さな国であり、アメリカ大陸が発見される前に、初代大統領が就任していた現存する世界最古の共和国である。 海とは接していないが23kmしか離れておらず、国土自体が高台にあるためアドリア海を眺望することはできる。大きさは東京都世田谷区とほぼ同じ、人口は約3万人。 サンマリノはとても小さいが、1つの国として認められており、いわゆる「国家の中の国家」である。 60名の議員、大議会と総会、任期6ヶ月の2名の大統領、司政長官からなる。EUには加盟していないが、1992年、ニューヨークにて、国連に全員一致で加盟。 ティタノ山がその国の大部分を占めている。山頂には古い街と政府官邸を持つ首都、その周りの粘土質の土壌から、かつては貧困の地方だったということが分かる。 こんな小さくて貧しい州が、どのようにして国になれたのだろうか? 






「NEMINI TENERI」とは「誰にも頼らず」の意味を持ち、「自由」の概念を表わす中世の言葉である。 聖人の名前はマリノである。石工で、ローマ皇帝ディオクレティアヌス時代、ダルマチアから、アドリア海を越えて信仰仲間と一緒に渡って来た。おそらく迫害から逃れるためだったと思われる。石ですべて自分の手で礼拝所を建設し、土台から屋根の瓦まで、自分の信頼同様に強くて永遠に残る作品を造ろうとした。山の片隅を掘ってベッドも造ったと云われている。伝説によると、301年9月3日に亡くなった。共同体への遺産として、その山と、後に「自由」と呼ばれる概念を残した。

礼拝堂周辺には、平民、貧民、信者からなる集団を形成した。山の南下に菜園を作るため、灰色がかった岩石台地を開拓し、種がまける状態にまで土をやわらかく耕し、苦労の末それに適した土壌を開拓した。この世のものとは隔離された状態で、住民達は自給自足を行なった。 他人に無視され、非常識と思われるであろう彼らの信条「他人へのいかなる義務も負わない」という「NEMINI TENERI」を貫き通した。

周辺では君主統治が繁栄するなか、サンマリノだけは自治都市のままであった。リミニのシジスモンド、ウルビーノのフェデリコは主権者として彼らの領地を小国家として再編成し、居城を豪華絢爛に飾り立てるなどまるで国王気取りであった。 サンマリノはその両者に抵抗した。敵の追従と策略を回避しながら、自国とそれらとの違いを訴え、自国を「共和国」と定義し「共和国は民主国家である」と唱えながら、自治体としての位置を確固たるものにしていった。 サンマリノを外敵から守る、高くそびえる城壁にさらに防壁を建設し、そこの兵士は常に目を光らせ、武器をピカピカに研磨し、戦の始まりを意味するグアイタの鐘が鳴る日に備えていた。 サンマリノには武器が豊富にあり、任期6ヶ月の2名の司政長官は強力な新型石弓を所持していた。また、渇水や飢餓の脅威に苛まれながら、市民は傭兵をすることで武器の使い方も習得していった。善行苦行を積み重ね、自らの信条を手にサンマリノは時代の鍵を握るまでになった。そして悪行にはすばやく目をつけ威嚇した。 サンマリノ彼らにとって戦攻略は、あらゆる規則やモラルを取り去った芸術であり知的なゲームであった。

1463年、マラテスタ家が教皇とモンテフェルトロに挟まれ困難な状況になり、サンマリノは攻撃を開始した結果、この一つの勝利だけでサンマリノの面積は二倍に拡大した。やがて戦いは終わり、マラテスタ家を筆頭に、全ての領主が落胆し武器を捨て降伏した。

ナポレオンもまた1797年、イタリア半島遠征の際、サンマリノを前に震え立ち尽くし、自由主義共和国の模範であると指摘し、直に海までの領土拡大を申し出た。しかし思慮深いサンマリノはその申し出を断った。 ナポレオンの攻撃により次々に降服していき、彼の領土が拡大するにつれ全ヨーロッパに衝撃は広がり、もはや世界は彼の思いのままであった。領土拡大により、外交的地理も変化し続け、古代共和国ルッカ、ジェノバ、ヴェネツィアなども圧縮されたが、サンマリノは例外であり、ナポレオンが自らの頭に冠を掲げ、革命の理想を欺いたときでさえ「共和国」として存続し続けた。サンマリノにとってナポレオンは巨匠であり賢人で、彼はサンマリノを保護庇護し、サンマリノに寄付贈与を申し出るなど、そしてついには、国家間の大使間貿易や条約締結を行なう実在国家としてサンマリノを表明するまでとなり、独立国家「NEMINI TENERI」がこれにより初めて民衆と国家間で承認されることとなる。

20世紀:国際的な承認と国連への加盟

現在サンマリノは政治的な実体を持つひとつの国であると承認されている。この公認により、アルプス以北のどこの協定にもサンマリノの主権がその中に含まれている。40年間の努力の結果、まずイギリス、次にオランダ、ベルギー、米国と「逃亡犯人引き渡し協定」を締結した。1908年、さらに前進。サンマリノは国際農業機関に加盟。それはサンマリノにとり最初の国際団体への加入となる。1971年より大使を任命し、欧州連合閣議と欧州安全保障協力会議に加盟。次に世界間で最も重要な会議が行われる国連に加盟。国連の盟約には、「加盟諸国間では、それぞれの国の大小や地理的な位置に関係なく法律的に同権であり平等である」と記されている。それは、キリスト教の中世初めにティタノ山・聖人の礼拝堂の近くで生まれた「自由の概念」の実現ではないだろうか? 閉ざされた山地に住んでいた何人かの人々の力から生まれ守られ続けてきたその「自由の概念」が、今では広く承認された概念となったと言っても過言ではない。


「自由」とは、「平和」とは、勝ち取るものである。 智慧と武力が無ければ侵略されて当然。 それを、サンマリノ共和国の歴史は示している。






世界遺産にも認定されている。サンマリノのGDPの50%以上は観光客(281万人、2004年)によるものであり、1997年には330万人以上が訪問している。その他の基幹産業は、銀行業、電子産業、窯業であり主な農産品はワインとチーズである。最近、海外との経済ネットワーク作りを国家をあげて力を入れている。特に、日本との経済交流、情報交換、サンマリノ企業が日本への進出および提携に力を入れている。サンマリノの法人税は17%と定額であり、それ以外の税金はない。特に消費税は一切ないため、イタリア国内または、海外からの買い物観光客が多い。税率が低いため、海外からの企業進出も増加の傾向にある。

ペ・ヨンジュン 배용준 Bae YongJoon 勇俊 イ・ジュンギ 이준기 Lee JunKi 李準基 チャン・グンソク 장근석 Jang GeunSuk 張根碩 イ・ビョンホン이병헌 Lee ByungHun 李炳憲 ハン・ヒョジュ 25049 한효주 Han HyoJoo 韓孝珠

※尖閣諸島領有権に関して。 → 尖閣事変
※従軍慰安婦の嘘に関して。 → 宮崎駿の【従軍慰安婦講座】
※竹島領有権に関して。   → 宮崎駿の【竹島講座】
※北方領土領有権に関して。 → 北方領土への道
※靖国参拝に関して。    → ☆きゃりーぱみゅぱみゅパフュームらが靖国で演舞。2014年「平和の誓い」は最高潮へ。



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初出:2010-06-20 17:19:33
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日本を護るオスプレイ超まとめ。 激安全??そりゃそうでしょ最新鋭。

2014-09-02 01:35:11 | 日 本


MV-22オスプレイ


米軍初の実用ティルトローター機 MV-22オスプレイの日本配備に「安全性に問題がある」として反対運動が起きている。 しかし、最新鋭機だけに安全性には十分な配慮がなされており、彼ら反対派の指摘は当たらないようだ。 オスプレイは、主翼両端の回転翼の角度を変えることでヘリコプターのような垂直離着陸と、固定翼機並みの速度での長距離飛行ができる。離陸は、ローター(プロペラに似た回転翼)を前傾にして、着陸はヘリモードで行う。騒音はヘリよりは静からしい。 「ティルトローター」とは、ローターを、機体に対して傾ける(ティルトする)こと。 愛称のオスプレイ(Osprey)とはタカ目の猛禽類の一種である「ミサゴ」を意味する。う~ん。それっぽいですね。


ミサゴ


MV-22は、現在配備されているCH-46(V-107)と比較して、速度は約2倍、行動半径は約4倍、搭載量は約3倍と、極めて高性能。基地を出動してから任務を終え帰還するまでの「作戦行動半径」は約700キロと、CH-46の行動半径約150キロの4.6倍もある。 米海兵隊は、世界規模でCH-46 をMV-22に換装する過程にあり、普天間飛行場においては、機体を1機ごとにMV-22 へと更新し、老朽化しているCH-46 を退役させる。 オスプレイには、「安全性」に関する幾つかの問題点が指摘されているため、その解消が求められる。


CH-46

CH-46

1.オスプレイは「安全」

オスプレイの事故率は10万時間あたり「1.93」回。 米海兵隊の垂直離着陸戦闘機 AV-8Bハリアーの事故率は「6.76」回で、海兵隊全体の平均事故率は「2.45」回。 その構造から、開発段階から墜落事故が相次いだが、直近の事故率は低い。

ロールス・ロイスアリソン社製T406エンジンを2基搭載し、仮に飛行中に片方のエンジンが故障した場合、「もう一方のエンジンのみで」両翼のローターを回転させ、飛行を継続できる。また、2つのエンジンは離れた位置にあり、同時に損壊する可能性が極めて低い。同時故障確率=1×10-10(100億時間に1回発生する確率)。 しかし、万が一2つのエンジンが停止した場合は、固定翼モードで「滑空」するか、垂直離着陸モードで、ローター(回転翼)が、自然落下により回転し、機を軟着陸させる「オートローテーション」を行う。 滑空着陸の際、ローターのブレード(羽根)が地面に接触するが、その衝撃によってブレードがはずれて飛散しないよう、ブレードが折れ曲がり、衝撃を吸収するように設計されている。 パイロットは、両方のエンジンが停止した場合にも対処できるよう、シミュレータを使って緊急着陸の訓練も行っている。

2.オスプレイの「バリエーション」

同型亜種も幾つか存在し、米海兵隊向けがMV-22(輸送型)、米空軍向けがCV-22(特殊作戦型)、米海軍向けがHV-22(救難型)となる。 後ろに「B」が付くが、これは「B-Type」つまり「2つ目のシリーズ」との意。現在製造されているものは全て「B-Type」である。 「CV-22」の事故率が、10万時間あたり「13.47」回と、日本に配備される「MV-22」の「7倍」近くになっているが、この2種は、CV-22 に地形追従レーダーが付いているくらいで、機体構造は殆ど同じ。 CV-22 は、MH-53ペイブロウ(既に退役した長距離の戦闘捜索救難および特殊作戦の支援用軍用ヘリコプター)の後継とされ、長距離特殊戦活動に用いられるため、それだけ事故率も高い。 ペイブロウの同型機「海兵隊のCH-53Dシースタリオン」は、特殊作戦型ではないため、MV-22 同様に、事故率は低い。 ※ ペイブロウ(特殊作戦型)の10年間平均の事故率「12.34」は、シースタリオンの「4.75」の、「約2.6倍」となっている。


MH-53ペイブロウ

MH-53ペイブロウ

3.オスプレイは「違法」?

オスプレイ 防衛省の基準満たさず 緊急着陸能力に欠陥 日本の航空法では、「オートローテーション機能」のない回転翼機の飛行が禁止されているが、そもそも軍用機はこの規定の適用を受けない。しかし、防衛省は「航空機の安全性の確保に関する訓令」にて、回転翼航空機については、「全発動機が不作動である状態で、できる限り自動回転飛行により安全に進入し及び着陸できるものでなければならない」と明記し、自衛隊機にも自動回転能力を求めている。

しかしオスプレイは「回転翼機」ではなく、「ティルトローター機」(カテゴリは、パワード・リフト・powered lift)であるため、上記回転翼機に対する指摘は筋違いだ。 また、3.オスプレイの安全性 にては、「緊急着陸の際は、滑空やオートローテーションを行う」との記載がある。オートローテーション機能は、「開発段階で米軍性能所要から削除された」が、機能は残されているわけだ。 オスプレイの民間機版「AW609」は、既にFAA(アメリカ連邦航空局)のオートローテーション試験をクリアしている。

4.オスプレイの「事情」

オスプレイの開発費は560億ドル。費用は6200万ドル。現在普天間に配備されている CH-46は600万ドル、現在西側諸国最大のヘリコプター CH-53E スーパースタリオンでさえ2400万ドル。 オスプレイは、開発費と製造費が高額であるために、2010年に米政界が超党派で決めた財政削減策の中に「開発中止」が盛り込まれているが、その製造は全米40州の部品工場で分散して行われる体制で、それらの州に雇用や税収を提供しているため、各州選出の議員が開発を続けることを可決し、米政府の決定を覆した。 高価な軍の装備の製造を全米に分散し、各州の議員が開発中止に猛反対するように仕向けるのが、軍産複合体の昔からの典型的な動きである。 逆に言えば、日本やアジアで配備が進んでいかないと、オスプレイは金が掛かるのに欠点が多く役立たずだという、米政界の反対派を勢いづけ、来年からの財政削減議論の中で開発中止に追い込まれかねない。

オスプレイは軍事産業が儲かる大事な「ドル箱」なので、墜落を増やせない。尚且つ実戦配備の実績を作らなければならない。 イラクで初めて実戦配備されたが、それは開戦から4年後の2007年。アフガンへの配備も、占領開始から8年後。「使える輸送機になった」と米軍は主張するが、しかし実際のところ、砂漠の悪条件の中だと機体やエンジンの消耗が激しく、頻繁な修理が必要になる。アフガンの標高の高い場所では、ローターに氷が付着するので使えない。米軍パイロットは「空中給油もできる素晴らしい機種だが、調子の良いときが限られており、飛べないケースが多い」とコメントしている。 

5.オスプレイは「本当に安全」か

オスプレイの事故率は10万時間あたり「1.93」件。しかし、その実際の対象データは、「クラスA」の、「被害総額が200万ドル以上の重大事故」に限られる。「クラスB」では「2.85」件で、海兵隊の平均「2.07」件を上回っているほか、「クラスC」は「10.46」件と、平均の「4.58」件の2倍以上となっているが、「クラスB-C」の内容は、「離陸直後にハードランディング、機体の左ナセルから出火、メカニックがナセル作業台から落下、前脚の不具合」など、飛行事故以外メンテナンスの問題含め多種あり、オスプレイに限らない事故も含まれるため、一概に危険とは言えない。 ※ナセル:エンジンを収容している両翼端の円筒部分

しかし、「クラスA」の事故の評価基準が、2009年に「被害額100万ドル以上」から「200万ドル以上」と2倍に引き上げられており、変更前の基準を適用すれば海兵隊全体の事故率を大幅に上回る。 2009年以降、損害額100万ドル以上でAクラスに分類されなかった事故は2件。この2件を実戦配備以降の事故2件に含めて計算すると事故率は「3.98」件になり、単純に比較すると海兵隊全体の平均「2.45」件を「1.53ポイント」上回る。

「オートローテーション機能」にも、疑問が投げかけられている。 防衛省は2007年「普天間飛行場の危険性除去の取組」の中で、「オートローテーションとは空中でエンジンが停止しても『安全に』着陸できる特性」と解説している。しかし、「オートローテーションについて」 には、『安全』という文字は無く、「オートローテーションに係る機能自体は保持」(P2)「機能は有していることを確認」(P4)との記載。 オスプレイ開発の途中から、オートローテーションで安全に着陸する機能は性能所要から外された。もし現在のオスプレイにオートローテーションで『安全に』着陸する能力があれば、それは「開発要件から外れた後で獲得された」という奇妙な話になる。

オートローテーションの場合、まっすぐ下に下りてくるわけではない。着陸寸前にフレア(機首上げ)操作を行う。フレアで下降スピードを大幅に減らせるならば安全な着陸が可能となりそうだが、データを解析した国防分析研究所は、「テストデータは、オスプレイは恐ろしい降下率で地面に叩きつけられることを示している」とレポートしている。 蛇足だが、「シミュレータを使って緊急着陸の訓練も行っている」とは、実機では危険すぎて訓練できないことの裏返しだったのだ。

そもそも、戦場でのヘリ撃墜の多くは、離発着時に起きている。 オスプレイはそれに備えマシンガンが装備されている。撃たれる前に攻撃し撃墜を防ごうとするものだが、当初は機体の前方に取り付ける構想だったが、重すぎるのと高価なため、それができず、機体の後方に小型のものを取り付ける形になっている。パイロットが敵を見つけても、旋回してからでないと撃てない。

また、2011年にアフガニスタンで乗組員が飛行中の機体から落下、昨年2013年にも、米カリフォルニア州で飛行中にバケツを落下させる事故を起こしている。同年、沖縄防衛局は、米軍機から飲料水ボトルが落下したとの情報を受けたが、米軍は機種については触れなかった。しかし、翌日「落下」が発覚しマスコミから米海兵隊へ問い合わせが相次いだことから、機種の公表へ踏み切った。 オスプレイは気圧調整機能がない上、「後部の視界を保つため飛行中も後部ハッチを開けた状態で飛行」する。このため、乗員や積載物をきちんと固定せずに飛行すると落下する恐れがある。


オスプレイ内部

YouTube:オスプレイ 発艦 内部 後部ハッチ


6.オスプレイは「本当に必要」か

今後の米軍の戦略は、「アジア重視の中国包囲網」である。これまで太平洋西部で沖縄とハワイに集中していた海兵隊を、グアムやフィリピン、オーストラリアなどに分散し、海兵隊員がそれらの拠点をローテーションで回るのが米軍の新たな戦略だ。このような新戦略は、概念的に、離発着地を選ばず高速で移動できるオスプレイに向いている。

沖縄から尖閣諸島までの距離は約440km。 CH-46 では尖閣まで往復できないため船を使用するしかないが、オスプレイであれば往復可能である。 中国が、南支那海において無法な進出を企て、更に東支那海から進出するため、日本の尖閣諸島を「核心的利益」と位置付けた現在、MV-22 配備は、大きな抑止力となる。戦後、軍事力で国土を広げた唯一の国が中国だという事実を忘れてはならない。

オスプレイ配備 歓迎!

7.反対派の「テロ手口」

反対派の皆さんは、危険だ~違反だ~とか言うが、「日本が護られないほうが余程危険では?」と言いたくなる。笑。 大東亜戦争にて、日本は欧米の包囲網に対し、敢然と立ち向かったが、その精神を彼らは完全に忘れてしまっているお花畑のようだ。しかも、彼らはテロリストかキチガイかという手口を駆使するらしい。

オスプレイが配備されて以降、ワイヤー付きの凧を揚げたり、高出力レーザーポインターをコクピットに照射したりし墜落を誘発させようと試み、危険だと言いながら基地周辺に園児を連れて行き、オスプレイに対する恐怖感を煽ったりしているそうだ。 また、暴力的、攻撃的な嫌がらせ、通行妨害なども多く、基地フェンスに「ガラス片や針金が巻き込まれている赤いテープ」を巻き付ける。明らかに殺傷目的で仕込んでいる。テロそのものだ。 こうした市民グループの運動に異を唱える若者が独自にテープの撤去を始めたが、剥がすときに手を切って怪我をすることも多いというのだ。 主宰者の一人の女性翻訳家(46)は、「フェンスに巻き付けられた赤いテープは景観を損ねることも問題だが、それにもまして反対派のやり方が許せない」と話す。「信号で止まっている車の窓からメガホンを突きつけて怒鳴りつけたり、プラカードで車を叩いたり、フロントガラスに押し付けたり…」米海軍兵士が同飛行場から国道に出ようとしたところ、反対派の通行妨害に遭い、視界を失い、追突事故を起こしたこともあるという。

凧揚げ

また、「反対派は、地元の方は少ない」との証言が複数ある。 米軍基地も「地域が活性化する」と喜ばれているようだ。 反対派はやはり、日本の躍進を望まない、中韓の人々(ナリスマシ日本人)なのだろうか。


8.オスプレイが大人気!?札幌の航空祭に過去最多「5万人」が集まった

オスプレイに、たくさんの人! 7月20日、札幌で行われた今年で28回目となる航空祭:イベントには、午前9時の開場前にはすでに1キロ近くの行列ができ、周辺の道路も混雑:でも「オスプレイ」って反対の声が多かったような…:札幌では、イベント当日に「反対」を訴えたのは14人だけという情報も。笑:オスプレイ見てきた!真上飛んでったのに撮影ミスでちみっこく…orz ローター音は重低音までいかないけど、普通のヘリよりも低くて篭もる感じの音。すっげぇ静かでビックリした。普段飛んでる輸送機やヘリの方がよっぽどうるさいわ!笑:前回の3倍の約180人の警察官を投入。:特別な許可をもらった人は、中も見学できるらしい:周りに張り巡らされた進入禁止のロープの内側に子供たちを招き入れるクルーチーフと笑顔で応える子供たち。


オスプレイの周りに張り巡らされた進入禁止のロープの内側に子供たちを招き入れるクルーチーフと笑顔で応える子供たち


ペ・ヨンジュン 배용준 Bae YongJoon 勇俊 イ・ジュンギ 이준기 Lee JunKi 李準基 チャン・グンソク 장근석 Jang GeunSuk 張根碩 イ・ビョンホン이병헌 Lee ByungHun 李炳憲 ハン・ヒョジュ 25049 한효주 Han HyoJoo 韓孝珠

※尖閣諸島領有権に関して。 → 尖閣事変
※従軍慰安婦の嘘に関して。 → 宮崎駿の【従軍慰安婦講座】
※竹島領有権に関して。   → 宮崎駿の【竹島講座】
※北方領土領有権に関して。 → 北方領土への道
※靖国参拝に関して。    → ☆きゃりーぱみゅぱみゅパフュームらが靖国で演舞。2014年「平和の誓い」は最高潮へ。


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