HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

忠孝あれこれ・・・⑧中江藤樹とその弟子熊沢蕃山、そして名君池田光政

2017-02-27 18:24:25 | 忠孝

ようやく入門を許された熊沢氏、学問に飢えていたこの青年は藤樹先生のその教えを瞬く間に吸収し、自らのものとして行った。もともと熊沢は学問の素養があったが、藤樹先生の弟子の中では、その教えの習熟において優れ、最後は藤樹先生も最も信頼し、最も教え甲斐のある弟子となって行ったのである。

さてこのころの学問、儒学と言えば朱熹の説いた朱子学が主流の時代だった。しかし、中国では、明の時代になり、朱子学の教えの矛盾点や過ったところを明らかして説いた王陽明の儒学が広まっていこうとしていた。王陽明は学理に走った朱熹の教えに対して、「知行合一」あるいは「致良知」と言った実践的学問を説いたのである。時あたかも中国の王権は明が衰退し、清が勃興して移って行く時代であった。この当時、需要の京店は主に禅僧などによって書物として日本に入ってきていた時代であった。

中江藤樹先生は正保元年(164437歳の時に「王陽明全集」を入手したと伝記にある。王陽明全集を手にして一気に読み通した藤樹先生は、その説かれている内容があまりにも理にかなった教えであり、自分がこれまで学んできた朱熹の教えにいだいた疑問点に明確に答えていることに深い感銘を覚えた。王陽明は朱熹の教え(朱子学)があまりにも学理に傾きすぎで、現実に適合せず、階級的差別をもたらすものだったのである。

王陽明全集を読破し感動して、さっそく書簡にしたためて熊沢(当時26歳)に送った。そこで熊沢青年も陽明全集に接することとなったのである。当時王陽明の儒学は「心学」と呼ばれていた。中江藤樹先生が熊沢に送った手紙には「心学をしっかり学ぶように」と書かれたものもあった。

正保2年(1645)、熊沢は再び備前岡山藩に復仕。二郎八と改称した。そしてその後、江戸時代一番の名君と謳われた池田光政のもとで藤樹先生に教わった儒学をもとに仁政を藩主池田公とともに実践していくようになるのである。



熊沢が岡山藩に帰藩を申し出たこの時、藩主池田光政は快く、再出仕を許可したとある。熊沢は以前、池田藩に仕えていたが、藩主光政は熊沢の能力を見抜き、あえて諸国を訪ねて学問を磨き再びそのもとに帰ってくるのを待ちわびていたかとも思われる。

熊沢が藤樹先生から学んだのはもともと朱熹の学問が基本であった。しかし、そののち藤樹先生が王陽明に感銘を受けてからは、藤樹先生は熊沢にも王陽明を勧めた。(陽明学と言う言い方は明治以降に言われるようになった言い方。当時は王学あるいは心学と呼ばれていた。)を深く学んでいったものと考えられる。実は池田光政自身が王陽明を学んでいたのではとも思われる節がある。池田光政は儒学を重んじ、他国が寺請制度を取る中、神社請を実行し、藩士の教育には儒学を基本として教育を進めて行った。民の教育にも積極的に取り組み、庶民教育のための学校、閑谷学校を設けるなど一般庶民の教育にも力を入れた。

近江の一寒村で始まった藤樹の教育は、その弟子に熊沢蕃山を得て、当時を代表する名君の政治に結実し、その影響は全国に拡大しさらには明治の開国の時代にまで影響を及ぼしていくのである。

故郷の母親に孝養を尽くす一心で仕官を投げ出してまで故郷に還った藤樹の真心が、その後の日本の歴史と文化に明るい結実をもたらしていくのである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿