HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

侍る生活は天国人になるため・・・・神様と実の親子の心情を相続する事が子女様に侍ること

2017-05-01 17:57:30 | 原理

「侍る」ということの意義の続きです。

侍義時代の意義は何でしょうか?侍る生活の意義をもう少し実例を挙げながら検証してみましょう。

 

「侍る」とは「高貴な人の傍に付きそう、仕える」と言った意味であることは述べました。

例えば企業に例えてみよう。企業のトップは社長とか最近はCEOなどと言う表現が普及してきた。とりあえず、会社の社長に侍るとはどういうことだろう?単純にお茶くみや電話受けも侍るうちだろうが、もっと重要なことは、企業の経営に必要な情報や資料を収集して企業トップの経営判断の資料を作成することがまず重要だろう。そのためには自らの義業の従業員や企業の持つ資産の管理、技術の開発や管理などと言ったことも必要であろう。また情報収集しなければならないのは市場の動向や、金融やさらには国際情勢などについての情報の収集や分析も必要になってくるだろう。様々な情報資料などはそれに基づいて企業トップが判断を下すので、できるだけ正確な情報が求められてくる。情報は過剰でも控えめでもダメなのである。それから企業経営においては何よりも企業に勤務する従業員や職員の資質や能力モチベーションに影響を受ける。人事管理も重要な役目である。

だから会社の役員や経営トップに位置する従業員、直接にトップに侍る社員はより正確で誠実な態度が求められる。これらが企業におけるトップに侍る役員や従業員のまずもって第一の課題である。発展している企業になるとトップと末端の従業員一人一人に至るまでの意識の統一や勤務態度に対する誠実さが企業の業績に大きく関係してくる。

 

 それからもう一つ企業のトップに侍る生活で重要なことがあります。それはトップの経営精神や理念をどのように理解していくかと言うことです。日本の企業は特に戦後急成長を遂げた創業者社長がたくさん存在していました。代表例が松下電器(現パナソニック)の松下幸之助さんや、自動車産業ではトヨタの豊田佐一郎やホンダの本田総一郎などの創業社長たちでした。これらの創業社長たちは独特の経営理念や経営精神を持っていました。侍るということはこういう創業社長の精神や経営姿勢、従業員や取引先との人間関係の築き方など学ぶことが非常に多かったのです。

このように企業においては経営者の精神や人間性なども含めて、その精神や理念、人間性の相続と言ったこともとても重要な要素となってきます。経営理念や経営精神などを正しく継承した人物がそれぞれの企業においては次の時代のリーダーとして経営を引き継いで行ったのです。いまでもなお発展している企業はそのような精神伝統を正しく継承できたところなのです。

 

それでは、統一家における「侍る生活の意義」をもう一度考えてみましょう。

統一家の我々は誰に侍るのかと問えば「メシア」に侍るのです。人類の救世主、メシア、再臨主である文鮮明先生御父母様に侍ってその精神や伝統を相続するところが統一教会であり今は家庭連合です。それは恰も企業において企業経営を通してものづくりや販売などその業務の遂行を旨としているように、統一教会や家庭連合ではメシ(救世主)の人類救済という事業の遂行のために生きるのがそのみ旨になっているのです。メシアとは何か?世の人々を救済するのがメシアであり、そのメシアとともに人類救済の事業を子なっている団体が統一教会であり家庭連合だということです。その組織の構成員はメシアとともに人類救済という目的やビジョンを共有してその目的に邁進しているのです。そういう目的をもってメシアに侍る集団が統一教会であり家庭連合だということになります。

 統一教会家庭連合は単に外的な意味で天国を実現していこうというしゅううだんではありません。天国に入る資格を持った人間、すなわち天国人と呼ぶにふさわしいさらに人格や心情を有する人間になって行くちうことです。すなわちメシアに侍ることを通して、メシアの精神や生きざまやその心情を継承して、天国人と呼ばれるような人間存在に成長していくという課題があるのです。丁度企業においてその創業者や経営トップの精神や理念、人間性を継承することを通して時代の経営者や、責任を任された子会社や支社などの責任者となって行くようにです。

真の御父母様は我々に宗族的メシアの使命を与えてくださいました。宗族的メシアになるためには、真のお父様がメシアとして全人類の救済のために歩まれた精神や伝統を継承して自分たちの故郷や一遺族の人々の救済のために歩むものとなることが重要です。

そのような課題の中で、祝福家庭にはさらに重要な侍る生活の意義があります。それは子女様に侍ることです。祝福家庭はカインの子女としてアベルの子女としての真の家庭の子女様に侍るように教えられてきました。我々が何故子女様に侍るのかと言えば、それは「実子」になるためです。旧約時代は神様と人間の関係は主人と僕の関係でした。それが新約時代になると養父と養子の関係になりました。それがさらに成約時代には実の父母と実子の関係になるのです。そういう過程を通して我々はサタンの血統から神の血統にそのの血筋がが変わって行くと教えられてきました。この血統転換において欠くことのできない祝福家庭の実践生活が「侍る生活」です。

我々は子女様の姿を通して、神様の実子としての生活がいかなるものであるのかを学び、その心情を継承していくのです。あたかも、企業経営者の精神や理念を継承した人物が事業を継承したり、独立して事業を起こしていくのと同様です。あらためて子女様に侍る事の意義を強調したいと思います。

 

我々が天国に入るにはどうしたらいいのでしょうか!天国に入るには天国を作らなければならないとイエスキリストも語りました。真の御父母様は全人類を救済して天国を作られて天国に入られます。我々子女は自らの天国を作って天国に入るわけです。心情の世界で言えば天国では神様の人間の関係は親子の関係です。実の親子の関係なのです。

真の父母様と真の子女様の心情関係を通して真の親子の関係真の親子の心情の世界を学ぶのが我々祝福家庭のカッコとの出来ない役割であり使命です。我々はそのために侍る生活をするのです。真のお父様は聖和される前に「顕進なしに基元節無し」と語られました。子女様に侍ることなしに祝福家庭は天国に入ることは能わないのです。

我々は御父母様と子女様の関係を通して真の親子の心情の関係を学びます。真のお父様は実の親であればこそ時には極めて厳しい課題を子女様に与えられることが度々ありました。カインの子女である祝福家庭には寛容であっても実の子女様には極めて厳しい課題を与えられたことが度々でした。

 

当ブログの最初のテーマは「逆理の法」でした。2009年束草事件の時真のお父様は顕進様に対して極めて厳しい道を行かされた。身に覚えのない様々な事象を挙げて叱責され、自らが精誠を込めて歩んでおられたすべての職責を剥奪されました。お父様は後に「逆理の法」と言われましたが、これは真のお父さまが実子である顕進様に対して絶対的な信頼関係があればこそ選択された態度であり、姿でした。あたかも百獣の王であるライオンがその子を谷底に突き落とすが如く途轍もなく厳しく子女様に中でも長子の立場の顕進様には対されたのです。

 

本来はそのことを通して祝福家庭は学ばなけばならなかったのです。どの様に逆理の道に追いやられたとしても、神様に対して真の父母にたしいての絶対的信頼と任されたみ旨に対する熱い心情の世界を祝福家庭は真似て相続しなければならなかったのです。その心情世界こそが神様の前に対しての実子のあるべき姿だったのです。

今顕進様はそのような心情世界を完全に勝利されたので、その勝利された顕進様に侍り一つになることを通して我々は神様との親子の関係実の親子の心情関係を取り戻して行く時代がやってきているのです。

 

 

 


「侍る」ことの正しい意味・・・「天国とは?」マタイ伝25.14~に見る「良い僕と愚かな僕」

2017-05-01 13:04:12 | 原理

成約時代は「侍義」の時代だと統一原理では教えている。それでは「侍る」とはどういうことなのでしょうか?

主体者、すなわち夫であったり、親であったり、主人であったり、主体的存在の前に仕えること、傍に付き添うことなどの意味がある。goo辞書によると「身分の高い人のそばに付き従っている。かしこまってその席などにいる。」とある。

ところで侍義の意味になるが、侍って義となるのはどのようなことを言うのであろうか。旧約は行義、新約は信義と教えられた。それでは成約の「侍義」とは何かと考えると、単純に尊い方の傍に仕えるにしても、その仕え方が問題だとわかってくる。


侍ることのレベル

僕が主人に仕えるにもレベルがある。マタイ伝25章14節には「天国は、ある人が旅に出る時に自分の財産を預けるようなもの」との聖句がある。

それぞれの能力に従って僕にお金を預けるが、良い僕は主人から預かったお金を元手にさらに儲けて主人に返した。悪い怠惰な僕は預かったお金を地に埋めて隠しておいた。主人は言った「せめて銀行に預けておけば利子くらいは一緒に返して貰えたのに!」と叱責して、そのお金を取り上げて良い僕に与え、悪い僕を追い出した。

ここにおいて良い僕と悪い僕はどこが違ったのだろうか!

私はこう理解する。主人に仕えるということはただ主人のいうがままにすることではない。と言うことです。主人に代わってそのお金を預かったのだからその主人の意向を組んで主人に代わってそのお金を生かして使うことが求められていたということであろう!

今日の統一家の混乱に際して「私はお父様の言うとおりにしした。」と、弁明している幹部が今この国には存在している。問題はお父様から預かった教会をお父さまのの願うように運用したのか、ただただ彼らが「分派」と叫ぶ実際は子女様のもとに行かないように妨げて、結果は信徒を減らす結果になっている。これは主人から預かったお金を地に埋めて「私は守りました」と弁明した悪い僕そのものではなかろうか!


僕と実子の違い

復帰の八段階の中に、「僕の僕⇒僕⇒養子⇒実子」と言う段階があることは我々が教えられたところである。

これは、主人と関係性で

・言われたこと、指示されたことだけを行う次元

・主人の意をくんで最終的には主人に代わって全てを取り仕切る立場~すなわちそれが実子の立場と言うことである。

ほんとうに侍るということは、ただ傍にいて、お茶くみや電話受けをすることではない。

主人が留守の時は主人に代わって采配を振るい、その実績をあげることにおいても主人が願う以上の結果を残す。これが良き侍義の姿である。

「痒い所に手が届く」と言う諺があるが、立派な侍義の姿とは、主人の願いを深く知って主人の及ばないところにも気を配り、主人がより大きな実績と結果を残すように努めることにある。必要な情報を正しく入手して必要な提案を主人にすることもあるだろう。主人のもとにもたらされる様々な情報や資料の真偽を確かめながら主人がより正しい判断が出来るように、良くない情報も積極的に提示することのできるものでなければならないだろう。

時には主人が発する言葉の真意を受け止めて、気配りと配慮で物事を収拾することも大切な侍るものの役目であろう。

そして長く正しい侍りを実践してきたものは、最後にはその会社や組織のすべてまで任せるようになるのである。

 

愚かな僕は追放される

「主人がこう言われたのでこうしました。」と主人の指示されたという言葉を盾に自己弁護するものは最も愚かな仕え方をするもののすることであろう。

最後に本当の喜びを返す者が最も優れた侍る人の姿なのである。ひょっとすると時にはその主人の意向に背くような言動をすることもあるかもしれない。しかし、その動機が主人に栄光をもたらす目的をもってなしたことは必ず報われ理解され賛美される結果となるのである。

今日の統一家はそのような良き僕と悪しき僕の実際をまざまざと見せてくれているようである。

み言を盾に自己弁護をする役に立たない愚かな僕根性の幹部は追放される。これが天国でしょう。(マタイ伝24.14~30 より)


↓↓ 自分は愚かな僕にはなりたくないと思われたら応援よろしくお願いします