なので過去の自分はもとより、世の中を見ても亡くなった方を思うので非常に多いのが「死後の安寧」です。
砕けて言えば「死んだ人がどうぞ天国に行けますように」「成仏できますように」ということですね。
安らかに死を迎える人も居ますが、数は多くない。
亡くなる人の大半は病気で苦しんだり、事故や災害。事件などに絡んで安らかに死することができなかった人が大半です。
そうなれば死の際の状況がよろしくないことから亡くなった方への想いが強くなるということです。
これは確かに人間としてそのように思ったり考えるのは有りだと自分も思います。
しかし、その懸念を払拭するのに判りやすい物が1つだけあります。
それはあまり良い引用ではないと言えばないのですが、他に良い引用が無いためにこれを用いますが、それは
「故 丹波哲郎さんの発言」です。
知っている人は知っていると思いますが、丹波さんは有名な芸能人であり俳優でした。
そういう傍ら霊やあの世の世界の事を後年語りだしてそちらの方でも有名になった方でもありました。
その丹波さんが色々言っていた言葉の中にこういうのがありました。それは
「人は死んだら自由になるんだよ」ということです。
どういうことかというと、丹波さんは生前幽体離脱のような事にもあってあの世などを見てきたそうです。
その際に色々見てきたのでそういう発言をされたのですが、その際にこういう風にも言われています。
「例えば生前に眼の病気などで眼が見えなかった人が死んだら視力が回復するんだ。
死んでしまえば生きていた時の障害やら不自由だったものが無くなるわけだ。
だから生きていた時に不自由を受けた人も死んだらそういう物の支配をうけなくなるんだ」
その様なことを言っていました。
もちろん私も当時そのような氏の発言を聞いてはいましたが「どうかなあ」と思っていました。
確かに悪い話ではありませんが、本当にそうなのかどうかわかりませんでしたしね。
ですが、お釈迦様の本当の教えなどを学んで行くうちに丹波さんの言っていたことのいくつかも「正しいんだな」と分かってきた。
その1つがこの「死んだらリセット」というようなことでした。
それこそ普通では人は死ねば生きていた時の状況や状態などをそのまま継続し、それ故に「死後成仏できない」と考えていました。
だからこそ亡くなった方に対して「どうぞ成仏できますように」「成仏してください」なんてするわけです。
しかし実際は死んだら肉体が無くなる(または肉体から離れる)わけですから、もう生きていた頃の支配を受けないわけです。
すると丹波さんが言ったことは「あながち嘘ではない」と言うことになります。
またお釈迦様は死後「その人の赴くところへ行く」と言われている。
死んですぐに転生ができる人は、別な肉体(または生命体)を持ち生前とは別な存在として生まれ変わる。
ならば、いつまでも生前の苦しみや死の苦しみなどを持ち続けることはできなくなります。
死んだ人が悪業のために地獄という世界に堕ちたとしましょう。
ですが、このことも同様で地獄で自分の作った悪果のためにその地で苦しまねばならない。
そこに他人が如何に祈ろうが追善しようが悪果の相殺や軽減などはできない。
また地獄に堕ちて苦しんでいる人との生きての繋がりは切れてしまっているわけですから、やはりどうにもできない。
だからお釈迦様は最初から「自分はどうこうできない」と言っていますし、他人が人をどうこうもできない、と言っています。
基本は因果応報なのだから努めて善行をせよ、と言われているわけです。
地獄の逆として善果の恩恵で死して天国に行けたとしたら、これも同じです。
地獄と違うのが苦しまないで済む点です。
そして天国で安穏に暮らしているわけですから、子孫や遺族たちは死者に対しての変な懸念は持たなくて済みます。
これを勘違いして「どうぞ成仏してください」なんて生きている人たちが祈っていたら、死んだ方たちは「やめてくれ」と思うことでしょうね。
それこそ昔流行った「千の風に乗って」の歌のようです。
お墓の前で泣かないで。そこには自分はいないんだよ。死んだ方はそのように思うんです。
だから死んだ(または死ぬまでの経緯)で安らかでない死に方をした方を可哀そう、と思うのはわかります。
しかし、死んでしまえばまた別な世界へ旅立つのでもあるし、生きている人がどうのこうのやってもそれは死んだ人には届かないんです。
なので死者には死を悼み偲んでおもむろにささやかな供養をして終わり。
基本として偲んで終わり、でいいのです。
それが分かってからは私は弟にも父にも、そしてその他の家の先祖の供養に際して凄く簡素にしています。
まず供物は上げない。墓なら墓を綺麗にして水を掛けて合掌して念じて終わり。
仏壇ならろうそくと線香だけあげて合掌して終わり。これだけです。
本当は仏壇の線香とろうそくも上げたくはないが、まあ用意してあるので使っているだけです。
線香の香りもろうそくの灯りも別段あの世へ届くわけではありませんからね。
だから先祖に対して偲ぶ心の合掌と念じる行為。これだけでいいのです。
しかし、自分のような行為が「当たり前」なったらどうなりますか?
そう。今まである(現在も有る)様々なシステムに関する人たちが飯が食えなくなります。
寺院はおろか、お供え物を製造・販売していたお店や企業などが潰れます。
ろうそくや線香なども売れなくなるでしょう。
そんなことになったら世の中が激変するので、下手に本当の仏教だのを推すより「今までのまま」でとなるのがあるわけです。
そしてそういう物が継続されることで世の中も成り立っているとも言えます。
だから自分はこの本当の仏教の内容を知っていたなら、詐欺宗教に騙されないで済んだというのは非常に強くあります。
また将来に於いての供養に於いても余計なお金を使わないで済む。
なんで供養するということでお金を沢山消費せねばならないか。
またそのために苦労しなければいけないか。本当に馬鹿くさいです。
死んだ方へ可哀そうだとか供養したい、と思う心は決して悪いことではありません。
しかし、それを悪用というか商売につなげていてそれに成り立っているのには賛成はできません。
こっちは「供養したい」というのとそれらを成すことで「供養ができている」と思っている。
しかし、実際は「供養ではない」し「成仏云々と関係ない」わけです。
だから私は早く多くの人が本当の事実に気が付いて余計な物にお金を使う事が無くなればいいと思っています。
なんで戒名に何十万も費やすのか。葬式に何百万も掛けなければいけないのか。
また「やれ回忌だの」と法要に追われるのもナンセンスです。
人は死んだら終わりでサヨナラです。死んだら簡素なセレモニー(葬式など)で済ませて墓に納骨して終わりでいいのです。
後は生きている人はおもむろに偲んで暮らしてゆけばいい。それだけで十分です。戒名も回忌も不要です。
この章は今回で終わり、また違うものを行ってゆきます。それでは。
砕けて言えば「死んだ人がどうぞ天国に行けますように」「成仏できますように」ということですね。
安らかに死を迎える人も居ますが、数は多くない。
亡くなる人の大半は病気で苦しんだり、事故や災害。事件などに絡んで安らかに死することができなかった人が大半です。
そうなれば死の際の状況がよろしくないことから亡くなった方への想いが強くなるということです。
これは確かに人間としてそのように思ったり考えるのは有りだと自分も思います。
しかし、その懸念を払拭するのに判りやすい物が1つだけあります。
それはあまり良い引用ではないと言えばないのですが、他に良い引用が無いためにこれを用いますが、それは
「故 丹波哲郎さんの発言」です。
知っている人は知っていると思いますが、丹波さんは有名な芸能人であり俳優でした。
そういう傍ら霊やあの世の世界の事を後年語りだしてそちらの方でも有名になった方でもありました。
その丹波さんが色々言っていた言葉の中にこういうのがありました。それは
「人は死んだら自由になるんだよ」ということです。
どういうことかというと、丹波さんは生前幽体離脱のような事にもあってあの世などを見てきたそうです。
その際に色々見てきたのでそういう発言をされたのですが、その際にこういう風にも言われています。
「例えば生前に眼の病気などで眼が見えなかった人が死んだら視力が回復するんだ。
死んでしまえば生きていた時の障害やら不自由だったものが無くなるわけだ。
だから生きていた時に不自由を受けた人も死んだらそういう物の支配をうけなくなるんだ」
その様なことを言っていました。
もちろん私も当時そのような氏の発言を聞いてはいましたが「どうかなあ」と思っていました。
確かに悪い話ではありませんが、本当にそうなのかどうかわかりませんでしたしね。
ですが、お釈迦様の本当の教えなどを学んで行くうちに丹波さんの言っていたことのいくつかも「正しいんだな」と分かってきた。
その1つがこの「死んだらリセット」というようなことでした。
それこそ普通では人は死ねば生きていた時の状況や状態などをそのまま継続し、それ故に「死後成仏できない」と考えていました。
だからこそ亡くなった方に対して「どうぞ成仏できますように」「成仏してください」なんてするわけです。
しかし実際は死んだら肉体が無くなる(または肉体から離れる)わけですから、もう生きていた頃の支配を受けないわけです。
すると丹波さんが言ったことは「あながち嘘ではない」と言うことになります。
またお釈迦様は死後「その人の赴くところへ行く」と言われている。
死んですぐに転生ができる人は、別な肉体(または生命体)を持ち生前とは別な存在として生まれ変わる。
ならば、いつまでも生前の苦しみや死の苦しみなどを持ち続けることはできなくなります。
死んだ人が悪業のために地獄という世界に堕ちたとしましょう。
ですが、このことも同様で地獄で自分の作った悪果のためにその地で苦しまねばならない。
そこに他人が如何に祈ろうが追善しようが悪果の相殺や軽減などはできない。
また地獄に堕ちて苦しんでいる人との生きての繋がりは切れてしまっているわけですから、やはりどうにもできない。
だからお釈迦様は最初から「自分はどうこうできない」と言っていますし、他人が人をどうこうもできない、と言っています。
基本は因果応報なのだから努めて善行をせよ、と言われているわけです。
地獄の逆として善果の恩恵で死して天国に行けたとしたら、これも同じです。
地獄と違うのが苦しまないで済む点です。
そして天国で安穏に暮らしているわけですから、子孫や遺族たちは死者に対しての変な懸念は持たなくて済みます。
これを勘違いして「どうぞ成仏してください」なんて生きている人たちが祈っていたら、死んだ方たちは「やめてくれ」と思うことでしょうね。
それこそ昔流行った「千の風に乗って」の歌のようです。
お墓の前で泣かないで。そこには自分はいないんだよ。死んだ方はそのように思うんです。
だから死んだ(または死ぬまでの経緯)で安らかでない死に方をした方を可哀そう、と思うのはわかります。
しかし、死んでしまえばまた別な世界へ旅立つのでもあるし、生きている人がどうのこうのやってもそれは死んだ人には届かないんです。
なので死者には死を悼み偲んでおもむろにささやかな供養をして終わり。
基本として偲んで終わり、でいいのです。
それが分かってからは私は弟にも父にも、そしてその他の家の先祖の供養に際して凄く簡素にしています。
まず供物は上げない。墓なら墓を綺麗にして水を掛けて合掌して念じて終わり。
仏壇ならろうそくと線香だけあげて合掌して終わり。これだけです。
本当は仏壇の線香とろうそくも上げたくはないが、まあ用意してあるので使っているだけです。
線香の香りもろうそくの灯りも別段あの世へ届くわけではありませんからね。
だから先祖に対して偲ぶ心の合掌と念じる行為。これだけでいいのです。
しかし、自分のような行為が「当たり前」なったらどうなりますか?
そう。今まである(現在も有る)様々なシステムに関する人たちが飯が食えなくなります。
寺院はおろか、お供え物を製造・販売していたお店や企業などが潰れます。
ろうそくや線香なども売れなくなるでしょう。
そんなことになったら世の中が激変するので、下手に本当の仏教だのを推すより「今までのまま」でとなるのがあるわけです。
そしてそういう物が継続されることで世の中も成り立っているとも言えます。
だから自分はこの本当の仏教の内容を知っていたなら、詐欺宗教に騙されないで済んだというのは非常に強くあります。
また将来に於いての供養に於いても余計なお金を使わないで済む。
なんで供養するということでお金を沢山消費せねばならないか。
またそのために苦労しなければいけないか。本当に馬鹿くさいです。
死んだ方へ可哀そうだとか供養したい、と思う心は決して悪いことではありません。
しかし、それを悪用というか商売につなげていてそれに成り立っているのには賛成はできません。
こっちは「供養したい」というのとそれらを成すことで「供養ができている」と思っている。
しかし、実際は「供養ではない」し「成仏云々と関係ない」わけです。
だから私は早く多くの人が本当の事実に気が付いて余計な物にお金を使う事が無くなればいいと思っています。
なんで戒名に何十万も費やすのか。葬式に何百万も掛けなければいけないのか。
また「やれ回忌だの」と法要に追われるのもナンセンスです。
人は死んだら終わりでサヨナラです。死んだら簡素なセレモニー(葬式など)で済ませて墓に納骨して終わりでいいのです。
後は生きている人はおもむろに偲んで暮らしてゆけばいい。それだけで十分です。戒名も回忌も不要です。
この章は今回で終わり、また違うものを行ってゆきます。それでは。