黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

武士は食わねど・・・

2017-03-08 19:44:52 | 旅行記
仕事中に手をケガしてしまったので休まざるをえず、
おそろしくヒマである。したがって、今週は群馬県
甘楽町にある旧小畑藩邸とその大名庭園「楽山園」に
足を運んだ。小幡藩2万石は、江戸時代初めに織田信長の
次男・信雄が大和の宇陀藩3万石と共に得た領地で、
小畑藩の方は実質、信勝の息子・信良によって統治
された。まずは、最近見事に復元された「楽山園」の
画像をご覧いただきたい。庭園の植物は植えられた
ばかりの若い木が多いようだが、二つの東屋の右側の
梅の木は天然記念物で、しかも花盛りとなっていた。
庭園には、桜の木はもちろん、夏に咲く百日紅なども
あるので、他の季節になっても見ごたえありそうだ。






ところで、最初に紹介した大名庭園「楽山園」と藩邸の
図面をご覧いただきたい(下の画像)。



わずか二万石にして、こんなにも大規模な大名庭園――
実際に足を運んでみて、一つの予想が確信に変わる。
たった二万石の身上にしてはあまりにも分不相応な
広大さ!いくら織田信長の末裔たちであっても、
これを維持するのは絶対、大変だったはずだ――

この分不相応さがすごく気になったので、まずは現地で
事情を探ることにした。現地の掲示や冊子で分かった
ことは、織田信良が、信長の孫であるという理由で
家康から特別に国主格の待遇を与えられ、これだけ
広大な庭園の所有も許されたということ。しかし、
そうは言っても実際予算を捻出できないと、これだけ
広大な庭園はつくれない。そこで、諸大名から寄付を
募ってたしか数万両ぐらい得、それで実現を見たらしい。
誰が募ったかは忘れたが、家康の権力にものを言わせれば
諸大名もお金を出すということだろう。

だが、例えばそんな庭園一つにしても、ただつくるだけ
でなく、維持していかなければならないはずである。
また、高い格式ゆえに背伸びして庭園をつくらねば
ならないのであれば、例えば参勤交代の際の大名行列も
分不相応に背伸びした、豪華なものにするのが筋だ。
そこで帰宅したあとネットで調べてみると、やはり
そのシワ寄せは領民に及んでいたようである。ウィキ
ペディアの小幡藩の項によると、第2代藩主・信昌の
治世末期から財政難が始まり、宝暦5年(1755年)の
第5代藩主・織田信右の代には収入に対して支出が
2倍近くにも及んでいたという。また、第4代藩主・
信就の時代には財政再建が試みられたようであるが、
ものすごい重税を課したりしたのだろうか、領民が
織田氏の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願
するほどであった(ウィキペディアの信就の項)。

ちなみに、そもそも織田信雄父子がいきなりこれだけ
返り咲いた理由も、私にはイマイチ腑に落ちなかった。
現地の冊子を読んでも、あまりハッキリしないらしい。
「家康にとって主筋の人だったから・・・」とあるが、
よほど家康という人が義理堅い人物だったのだろうか。
ウィキペディアの信雄の項にあるように、大坂の陣の
際に家康のスパイとして役立ったから取り立てられた
のか。――だが私はやはり、織田信雄の孫娘・松孝院が
徳川家光の弟・忠長と結婚したことが関係している
ように思える。彼女が実際に嫁いだのは信雄父子が
小幡藩を与えられてから8年後のことであるが、もっと
早い時期に婚約が決まって、それに伴い小幡藩を与え
られたのだろうと想像する。ウィキペディアの彼女の
項からさらに想像するに、織田家の血を何が何でも
後世に残したいというお江(徳川秀忠の正室)の執念が
織田信雄の孫娘の結婚を手繰り寄せたのではないか。


最後に、昔の様子を最も残しているという江戸時代の
武家屋敷の画像をご覧いただきたい(下の画像)。



掲示によれば、これは勘定奉行だった高橋家の役宅跡
であるという。同家が残した近世文書は松平時代の
幕末の記録であるし、同家は松平時代の奉行だったの
だろう。勘定奉行なら、藩の財政状況に一番に向き
合わなければならないはずである。殿様が織田家から
松平家に代わり、財政状況はどうなったのだろうか。
そこで歴代の松平の殿様についてウィキペディアで
調べるのだが、良くなるどころか収入に対して借金が
10倍近くにもなっていたという(1844年)。織田家では
なくなったのだし、もはや国主格にふさわしい体面を
保つ必要もなくなったと思われるが、それにしても
織田時代のツケが大きかったのだろうか。

ちなみに、収入の10倍近い借金をかかえたのは松平
忠恵の時代であるが、この殿様は小幡藩江戸藩邸に
侵入した鼠小僧を見つけて捕獲させて幕府に引き
渡したことで知られる。泥棒の被害にあえば引き渡す
など当たり前の事のように思えるが、そこもまた
殿様家業の辛いところで、一般的に「大名屋敷では
面子と体面を守るために被害が発覚しても公に
しにくいという事情もあった」。また、そうかと
いってなかなか警備を厳重にするわけにもいかな
かったらしい。なぜなら厳重にすれば幕府から謀反の
疑いをかけられるかもしれないし、そもそもそれほど
お金が無かったりしたからである(以上、ウィキペ
ディアの鼠小僧の項による)。江戸時代も時代が
下ると、どこの藩も財政難ではあったかもしれないが
――、実際に捕まえて引き渡してしまうところ、
超・財政難の殿様ならではという感はある。
それとも、ただ単に鼠小僧がこの時初めて殿様と
鉢合わせするという不運に見舞われ、あえなく引き
渡されたということにすぎないのだろうか。


ともあれ、私の地元・川越(埼玉県)からは自動車で
わずか小一時間で着くことができ、しかも関東では
なかなか無い(と思われる)素晴らしい庭園である。
それでも近くの富岡製糸場ほど知られていないのは、
復元されてまだ五年しかたっていないからなのか、
それとも地元民を泣かせた人の屋敷だからなのか。
だが、富岡製糸場だけ見て帰るのは、もったいない。
私は平日に訪れたが、土日祝日はどれほど観光客が
来るのだろうか。――かつてはその圧政で地元民を
苦しめたお殿様の庭園ならばこそ、現代では地元の
経済に大きく貢献することを願っている。


←ランキングにも参加しています